小千谷から(Ojiya kara)

新潟県中越大震災の、とある被災者からのメッセージ
(リンクはご自由にどうぞ。ただし転載はご遠慮ください。)

10月23日 地震発生直後から翌朝まで

2005年07月29日 13時16分16秒 | 新潟県中越大震災・地震
近所の小学生がしゃくりあげるように泣きながら車から降りてきました。
車走行中に地震にあったんだと思いました。
ほかのお母さんたちは一様に子供を抱えて、離れ離れになった家族の安否を心配していました。
畑の中で隣にいたママ友が携帯で誰かとメールしあってました。
小千谷がいちばんひどいらしいよ と教えてくれました。

子供たちは美香ちゃんたちと盛り上がっていました。
こんなときに笑ってんじゃないよ!と周りに気を遣いました・・・。
うぉぉぉ!!大きい~~!と ハイになってはしゃいでるふうでした。
チビは靴をはいてなかったので 下におろせず重かった。
ただただ無表情で抱かれたままでした。

夫が笑いながら出てきました。
笑ってんじゃないよ!
ほかの人は家族の安否が確認できなくて心配してるっつーのに!
と ちょっと腹が立ちながら、でも穏やかでいなければ子供たちが不安になるだろうとそれは常に意識してました。

あ~~携帯いいな~。
あたしも携帯欲しい~。
でもどこに置いたっけ?
台所に置いたような居間に置いたような。
忘れちゃった・・。

車のキーもどこおちたかわからないなぁ。
ほかにも車のキーがなくて困ってる人がいました。

そういえば風呂つけっぱなしで出てきちゃったよ。
火が出たらどうしよう???
すごく心配しました。

「こんなときはどこから火がでてもいっしょいっしょ!!」
と友達が慰めてくれて少し気持ちが軽くなりました。

おとうさん 高速乗ってるんじゃないかなぁ?大丈夫かなぁ。

18:11 6強
18:34 6強
18:36 5弱
18:57 5強
19:36 5弱
19:45 6弱
19:48 5弱

あまりにも余震が続くのでもう家に帰ることは無理だと思いはじめました。
ぐちゃぐちゃで寝るとこないし。
それが19時半くらいだったでしょうか。

みんなが動きはじめたのがそのころ・・19時半から20時の間でした。
車に乗り込んで車中泊をしようと決めたり、どっかに車で出かけている人もいました。

とりあえず一度家に帰って携帯もってくるわ、と夫が中に入りました。

子供たちが怯えないように 「美香ちゃんの誕生日会をしよう!」と私が提案し、うちの車の中に乗り込んで、みんなで明るくハッピーバースディを歌いました。
子供たちはゲラゲラ笑ってました。
美香ちゃんが「ケーキがひっくりかえったかもしれなーーい!」というのでみんながまた笑いました。

夫が携帯と車のキーが入った上着をもってきました。
夫の携帯が何度も何度もしつこくかけてるとつながったらしく、夫の両親は無事だということがわかりました。
そのときに和南津のトンネルが通れなくなったことを知らされました。
夫は翌日の仕事のことが心配になりはじめました。
和南津のトンネルの向こうにどうやって行けばいいのか?
どこの道が通れるんだ?どうやって通えばいいんだ?
という気持ちと同時に「どうせ行けないんなら休ませてくれ~」とも思ったそうです。
私もそのほうがありがたいと思いました。
私の実家にも電話はつながり、無事だということは伝えることができました。

次に私が戻って毛布とボトルに入ったジュースを冷蔵庫からもってきました。
携帯は探したけど見つからず、その間も激しい揺れがあったのであきらめて出てきました。

ふたり同時に家屋に入ることは避けました。
倒壊して両親とも死んだら困るので。

またまた夫に家屋に入ってもらい、自分の携帯を鳴らしてもらって私の携帯を見つけてもらいました。
手探りでみかんをみつけたらしく みかんも持ち出しました。

何通も「無事か?」メールが届いていました。
電池切れ心配・・と思ったのですが、とりあえずメールくれた人には返しました。
神戸の人が「ほしいものあるか?あったらいってくれ。なければ返信しなくていいぞ」といってメールしてくれてました。さすがです。電池の消耗を心配してくれてたようです。

夫が携帯充電アダプターをもっていると言いました。
「私のも充電できる?」と聞いてみたら「おまえのはできないよ」というので(ほんとか?)と疑って私が「かしてみ!」と自分でしたらカチッとはまりました。
夫は一方向でしか試さなかったようで裏返しにしてやってみたらキッチリはまりました。
苦笑いで誤魔化され、「こいつはあてにならない!なんでも自分でやらないと気がすまない!」という気になりました。

ここでまたカチンときたことがありました。
夫の車のガソリンがエンプティだったこと!!
あれだけエンプティで走るなといってたのにつかえない!(怒)
(これは神戸の人が言ってたんですよ。ガソリンはつねに半分以上にしとけ、と。そらみたことか!!怒)
でも喧嘩してもしょうがないので飲み込みました。

夫が軽の合鍵をもっていたので、とりあえず軽でラジオをきこうということになりました。
車を建物から離したところに駐車させてとりあえず家族5人みんな乗り込みました。


このころから近所のおとうさんたちが続々と帰宅してきました。
ここを通って帰ってきたとナマの声がいちばん頼りになりました。
ラジオは全然役にたちませんでした。
中越地方で大きな地震がありました くらいのことと、安否情報ばかりが流れていました。

日ごろ話さないようなお父さんたちにも声をかけて、みんなで道路情報を収集しました。
市内にはガラスの破片が散乱しているとか 道がなくなってる とか、山間に関してはあそこもここも通れないとか マイナスの情報ばかりしか入ってきませんでした。
そして刻々と状況は変化してるはずなので、なにがいちばん新しい情報なのか混乱しました。

20時半とか21時くらいから全くメールも電話もできなくなりました。

そういえば、みんなが「無事か???」とメールしてきたのに
彼氏とののろけ話をのほほんとしてきた女の子がひとりだけいて癒されました。

こどもたちは遊びすぎで疲れはて、20時くらいからずっと朝まで寝ていました。
よかった・・・。

腹減った・・・と もってきたみかんを3つも4つも食べてる夫。
こればかりはほんとに腹が立ちました。
地震で穏やかじゃないってーのに 自分勝手なことしてんじゃねーよ!!!とマジギレ。
「だっておなかすいたんだもん。」とか「狭いよ!」とイライラしてる夫に罵声のひとつふたつ浴びせたような気がします。

朝にならないとどうにもならないね、ということで そのまま車でラジオを聞いて過ごしましたが、 有益な情報は全く入りませんでした。

水が出ないっていうのに 隣に車を停めてた奥さんがポットの中の温かいお湯でコーヒーをすすめてくれてすごくありがたかったです。

夜通し余震が続きました。
流れ星がバンバン流れているのをフロントガラス越しに見ているだけ。
4時半ごろにちょっとうとうとしました。
いつもと同じように朝が来たのがすごくうれしかったのを覚えています。

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5 コメント

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こころして (とんち)
2005-07-29 16:26:27
この所こちらも地震がつずいてます。

その時どうするか、読ませていただき

自分なりに、なんども頭に言い聞かせ、それでも、その時正しい行動は無理と思います、でも、心していると、いないとでは、違うきがします。何度も読ませていただきます。
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あのときの思いが (豊念)
2005-07-29 19:56:12
一気にこみ上げてきました。。。

私は仕事で吉田町にいて、そこで地震。分水から与板を過ぎたとき、目前の長岡市街の明るさがちがうのを感じ、その直後に思ったのが「火事がおきているのでは?」という神戸のフラッシュバック・・・・。あのときのはりさけそうな不安が今また、よみがえってきました・・・・・



 あちこちの中越地震関係のサイトが、今はもう、更新もなく放置されているのを見て、ため息をついていました。ママさん、ありがとう。。。。。
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追伸 (豊念)
2005-07-29 20:02:18
8月1日に、「こころのケアセンター」が、小千谷市と長岡市に開設されるのをご存じですか? 本部は新潟市のユニゾンプラザの隣にある、県精神保健福祉センターの2階に置かれます。小千谷と長岡は「地域センター」の役割です。長岡は「7.13水害」での被災にも対応するとのこと。神戸にも、「こころのケアセンター」があるのですが・・・。



 ママさんたちは、どんなことを期待するでしょうか。
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東京渋谷では・・ (chica)
2005-07-30 15:58:46
私は渋谷の自宅に一人でいました。

東京も震度3で何回も揺れました。

テレビでは「北陸で大きな地震」と地震速報が流れ「新潟中越地方で・・・」と流れるまでは時間がかかったと思います。

直後から電話はかからない、携帯電話もだめ。

そのうちNHK教育で”災害安否情報”という番組が始まり「電話で情報をお寄せください」と流れ始めた途端、私の自宅は新潟以外にも電話はつながらなくなりました。

本当に思い出すとNHKには頭に来ます

災害地は電話は不通なのに、安否の”安”情報が来るわけがない。おまけに渋谷区の局番も不通になるし・・・。頭悪いよ。



夕方のニュース番組が各局共に地震特別番組に切り替わりほとんどが中越地震の番組になりました。

情報も入らないまま、真っ暗な街の上をヘリコプターからの映像が流れ続けました・・・。

2・3時間たった頃、「ズームイン朝司会の大桃美代子さんが実家に帰省中に地震にあい情報が入りました」っと日本テレビから小出町の様子が流れました。

(彼女は仕事が新潟であり実家に泊まろうと車で移動中だった様です。)

あの日テレビで入った情報は、これだけだった気がします。

頼りになったのが、小出中学校の同窓会(姉の年代のみ)が運営しているホームページの掲示板でした。

家族と電話がつながった人から書き込みされ「町中真っ暗、電気ダメ、電話ダメ」「上町は公民館に避難、火事なし」「羽根川は・・・」っと適切な情報が寄せられていました。



この時ほど、報道とは何なのか?と思いました。

不安をあおる報道は本当に必要なのか?

地震直後、被害の大きい所ばかりを何度も流し、不安をかき立てる。せっかく現地までTVカメラが行っているのに・・・。

報道するなら「電気水道ガス道路の状態が、どこからどこまでどのくらいの被害で、地震の影響はどの地域まででている」と言う情報を最初に何度も流すべきだと思う。

テレビを見た大勢の人がその度に不安になり、電話をかける→電話がパンク→緊急電話もつながらない、の構造が回避されると思う。

ドラマ仕立ての情報番組もいらない!悲しい音楽をバックで流すのも止めて欲しい。

馬鹿にされてる感じがして、本当にむかっ腹が立った。





中越大震災で、いろんな事を考えさせられ勉強したと思う。絶対に忘れてはいけない・・・。

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この教訓を生かすために (おぢやのおやぢママ)
2005-07-30 23:13:22
■とんちさん

神戸の友達がアドバイスしてくれたことが身にしみました。

まずは落ち着いて。

それから常に自分の身に降りかかったときのシミュレーションをしておくのも効果的かと思います。



■豊念さん

やっと震災当日のことをアップしました。

これは12月の上旬くらいに文章にしたものですが、今読み返してもかなり忘れていたことがあります。

いい意味でも悪い意味でも月日が経てば忘れてしまうということですね。

記録に残しておくということは大切なことだと実感しました。



中越地震関係のサイトが放置されているのは、更新に疲れた、誰も関心を示してくれなくなった、HPどころじゃない、といったところでしょうか。



いつもいつも気にかけてくださり本当にありがとうございます。

痛みを共有しあい エネルギーに変えていきましょう!^^



こころのケアセンターのことは知りませんでした。

9ヶ月経った今になって開設するということは、正直いって対象者の心に関わるのにご苦労されるかと思います。

それは「つらかったときの自分」をわかってくれている人にこそ、心を許せるからです。

私は「こころのケアセンター」は利用する気はありませんが、こころのケアを必要とする方をケアしている家族のサポートも充実していただきたい と願っております。

★私の「こころのケアセンター」は「小千谷から」というブログなので(^。^;)★



■chicaさん

中越だけでなく東京でもそんなことがあったなんて知りませんでした。

教えてくださってありがとうございます。



このコメントだけでも「これからのメディアのありかた」について十分考えさせられますね。

中越でそのとき感じたこと、中越以外の人が感じていたこと、もっと情報を共有しあって、次につなげられたらなぁと思います。



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