どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ107

2008-02-19 23:54:37 | 剥離人
 氷点下になれば水が氷る。
 当たり前のことだが、氷ってもらっては困る。

 私はハスキーの凍結対策に、車のラジエターで使用されている「不凍液」を使うことにした。
 普段、供給水用として使っている1,000リットルのポリタンクの隣に、不凍液を希釈した100リットルのポリタンクを用意した。
 この不凍液をハスキーに供給し、超高圧ホースの中まで不凍液を通すことで、ポンプ内部の凍結を防止するのが狙いだ。

 夕方四時四十五分、ハスキーのエンジン回転数をアイドリングまで落とすと、私は今回の為に用意した『双方向通信仕様 縦型四連回転灯』のスイッチを操作した。
 これでミストエリミネータ内の四連回転灯の二段目、黄色回転灯が点灯し、ハスキーがアイドリング状態であることを、小磯とハルに伝えているはずだ。すぐにコンプレッサーの上に置いてある回転灯が、青色から黄色に変わった。小磯がハスキーのアイドリング状態を認識したことになる。
 五分後、ハスキーのアイドリングを完了してエンジンを停止し、赤色回転灯用のスイッチを入れる。すかさず吸い込みポンプを隣の不凍液タンクの中に放り込み、今度は緑色回転灯用のスイッチに切り替える。もちれろん不凍液の色は緑色の物をチョイスしてあるので、視覚的イメージも完璧だ。
「お、来たね」
 小磯からの回転灯が赤色から緑色に変わり、小磯たちがアイドリング状態でガンを発射していることが分かる。これでホースの先まで不凍液を通すのだ。
 しばらくすると、こちらの回転灯が赤色に変わり、小磯が不凍液の完全通水の合図を送って来た。私はすぐにハスキーのエンジンを停止させた。
 これでポンプ内の水は全て不凍液に置き換えられ、凍結はしないはずだ。

「小磯さん、不凍液の色、分かりました?」
「意外と分かるよ、な、ハル」
 小磯はハルにカッパの上から水を掛けてもらいながら答えた。
「うん、綺麗な緑色だよね」
「ところで木田くん、不凍液の色はわざわざ回転灯の色に合わせたの?」
「当然です」
「がははは、そういう細かい所にこだわるね」
「そういうことは大事だよ、小磯さん!」
 私の気持ちをハルが代弁した。
「二人とも細かい性格だからな。もしかして結構気が合うんじゃないの?」
 小磯が茶化しながらハルに言うが、ハルは黙って何も言わない。私にはハルが、
「誰とも合わ無いよぉ」
 と言っている様に見えた。
 
 周囲はすっかり薄暗くなり、コンプレッサーの上で赤色回転灯が、ピカピカと点灯している。
「木田くん、この回転灯は既製品なの?」
 小磯が使い終わったゴム手袋を洗いながら言った。
「回転灯本体は『パトライト』って会社の製品ですけど、ケーブル、コネクタ、スイッチ類の製作は、会社の近くの『加藤電気』って所に頼みました」
「加藤電気?R社の近くにそんな会社あった?」
「ああ、実際の店舗は『米屋』ですよ」
「米屋?」
「米屋です。米屋の親父の趣味の延長線です」
「がははは!これ、米屋の親父が造ったの?」
「ええ、米の配達の合間に。こんなのは電子工作が趣味の人間に造らせるのが、一番確実で安いかと思ったんで」
「がはははは!米屋の親父の手造りかよ」
 元電気工の小磯が爆笑している。
「ハル、この回転灯、米屋の親父が造ったんだって」
「米屋?ダメだおぉ、小磯さんはそうやってすぐに嘘をつくんだから」
「がはははは!ホントだよ」
 ハルは小磯の言葉を全く信じていなかった。

 外はすっかり暗くなったが、コンプレッサーの上で、米屋の親父の回転灯がピカピカと光り続けていた。

はくりんちゅ106

2008-02-18 23:52:20 | 剥離人
 我々はまず最初に、ミストエリミネータから剥離を開始することにした。

 今回の仕事には、廃棄物である『ガラスフレークライニング』の剥離片を袋詰めするところまでが含まれている。私はそのために一人、TG工業のツテで地元の職人を雇っていた。
 彼の名は『加納』、チョビ髭を生やした地元の塗装会社の職人だ。
「加納さん、話は聞いているかも知れないけど、剥離片の袋詰めをお願いしますね」
「分かったよぉ!」
 加納は気さくな感じの職人で、土嚢袋を持つとテキパキと仕事を始めた。
 だが、加納の威勢が良かったのは、最初だけだった。作業開始から二時間後、加納は額から『つゆだく』の汗を垂らしていた。
「加納さん、どうですか?」
「いや、これは結構きついねぇ」
 加納はマンホールから汚水でビチョビチョに濡れた土嚢袋を運び出しながら、肩で息をしていた。
「大丈夫ですか?このガラスフレークの破片って、結構水分を含むんですかね?」
「いや、なんだか分からないけど、上まで入れると、結構重いんだよね」
 加納はマンホールから出した土嚢袋を、通路の防炎シートの上に積み上げた。私も手伝ってみるが、水分を大量に含んで重いのか、それとも比重が大きいのか、驚くほどの重量だった。
 マンホールの中の足場では、小磯とハルがガンを撃ちまくっていて、ガラスフレークの剥離片がどんどん降り積もって来る。このまま加納一人で作業をしていては、仕事の進みが遅くなる。
 私は迷わず一作業員として、加納と一緒に剥離片の袋詰めと、運搬作業を開始した。

 ガラスフレークは、鱗片状ガラスを混入させた塗料で、防食性(例えば耐酸性)の高い塗装だ。これをウォータージェットで剥離をすると、塗膜にガラス片とガラスの粉をまぶした、キラキラとした素敵なアイテムが出来上がる。もう少しカラフルなら、浅草橋のアクセサリー問屋街で販売しようかと思うほどキラキラとしている。
 だがこのキラキラ、お肌には最悪だ。皮膚に付着すれば、一日中シカシカと刺激を感じ、衣服に付着すれば、白い粉を吹いたようになる。もちろんそれに触れば、また肌がシカシカとする。

「がははは、木田君、ちゃんと仕事してる?」
 三時の休憩時間、小磯が私のドロドロな姿を見て、大笑いをしている。
「最悪ですよ、ガラスフレーク。体中がシカシカとして痒いんですよ!ね、坂本さん!」
 私は同じ作業をして、すっかり意気投合した坂本に同意を求めた。
「僕もサンドブラストで剥がしたことがあるけど、こいつは最悪やね」
 坂本も苦笑いをしながら、大きく頷いた。
「ところで坂本さん、この辺りは水、凍ります?」
 私は地元の坂本に聞いてみた。
「そりゃあ、凍りますよ。ちゃんと準備をしておかないと、あの機械もダメージを受けますよ」
「がははは!明日の朝はきっと寒いぞぉ。木田くん、どうすんのハスキーが凍っちゃったら!」
 小磯が笑いながら私を煽る。
 この件に関してはF社の大澤にヒントを貰ったのだが、大澤は、S社が長野県でハスキーを凍らせて、プランジャーにダメージを受けたこと、そしてそれに対する対応策を教えてくれたのだった。
「ぬかりはありません、信用して下さいよ」
 私は自信を持って小磯に答えた。
「がははは、あんな足場を組ませるようじゃ信用できねえな!」
「・・・」

 私の責任では無いが、信用を失うのは一瞬だ。

はくりんちゅ105

2008-02-17 23:36:31 | 剥離人
 T県TS火力発電所、二月の寒さは半端では無かった。
 だが寒かったのはT県の気候だけでは無かった。

「き、木田くん、こ、これは何の足場なの?」
 ミストエリミネータに続いて、煙道の中に入ったとき、小磯がかなり芝居がかって叫んだ。
「…えー、犬用?」
「い、犬用?」
「ちゃあ…」
 小磯は目を丸くして大袈裟に驚き、ハルは渋い顔で舌打ちをした。
 我々の目の前には、T県の気候に負けないくらい『寒い』足場が構築されていたのだ。

「あの、施工範囲は全面ですよね!?」
 私は遅れてマンホールから入って来たTG工業の現場担当者、坂本に言った。
「もちろん全面やけど、何か問題でもあります?」
「思いっ切り有ります」
「ええ?思いっ切り?ホンマかいな」
 坂本は思わず笑い出した。
「いやいや、笑い事じゃないですよ。ここは床面も剥離ですよね」
「そうやけど」
「なぜ最初の足場板が、床上80センチの位置なんですか?」
「ええっと…」
 坂本は返事に窮する。
「こんなの『犬』しか入れませんよね。彼は身長が180センチなので、まず無理です」
 私はハルを指差す。
「がははは、木田君、俺も無理だって!」
 そばで話を聞いていた小磯が爆笑し、坂本はヘラヘラと笑い出した。
「坂本さんなら大丈夫かもしれませんが、僕でも無理です」
「いやいやいやいや、木田さんもキツイなぁ。そんなもんワシも無理やわ」
「はぁー」
 私はため息を付いた。
「ハハハハ!小磯さん!この足場、一番向こうまで真っ直ぐに走れるよ!」
 ハルが笑いながら足場の上をガンガンと走ってきた。
「木田君、この小学校の渡り廊下のような足場は何なの?」
 小磯が腕組みをして立ち尽くしている。
「あれほど足場の一段目は1800(ミリ)でお願いしたのに」
 私は坂本を恨めしそうに見た。
「いやぁ、すまんなぁ木田さん。でも、足場はH電力が直接地元に出しとるもんやさかい」
 坂本にそう言われると、私はそれ以上何も言えなくなった。
「で、木田くん、これ、どうすんの?」
 小磯が自分の足の下の足場板をガンガンと蹴った。
「えー、四つんばいになって、背中にガンをくくりつけて…」
「がははは、ふざけんな!」
 小磯は笑いながらも、うんざりとした顔をした。床面を剥離するには、足場板を全て外さなければならないからだ。
「坂本さん、足場板は全部外しますからね!」
「ええよ、ええよ、頼みますわ」
 坂本は苦笑いをしながら、バツが悪そうに煙道から出て行った。

「とりあえず、エリミネータからやりましょう」
 私は小磯とハルをなだめすかし、ミストエリミネータのガラスフレークライニングの剥離を開始することにした。

はくりんちゅ104(H電力編スタート!)

2008-02-16 23:17:08 | 剥離人
 T県T市、冬になれば一日中どんよりとした雪雲が垂れ込める寒い所だ。

 私と渡、そしてTG工業の尾藤の三人を乗せたタクシーは、夜のT市内を走っていた。
 タクシーの運転手は、かつて『オロナミンC』の広告塔だったコメディアン『大村 崑』にそっくりで、私は彼が気になって仕方がなかった。もっとも気になるのは大村崑に似た彼の顔では無く、彼の実に怪しい運転作法の方だったが。
 今夜は時折みぞれが降る愚図ついた天気で、タクシーのフロントガラスにはピチャピチャとみぞれがへばりついていた。
「ギッコ、ギッコ」
 ワイパーが二往復する。
「ギッコ、ギッコ」
 また二往復する。
「ギッコ、ギッコ」
 また二往復する。そしてそれが気になる。強烈に気になるのだ。大村崑はそのワイパーの『入/切』を、なぜ『手動』で行うのか、異常に気になるのだ。
 通常の車のワイパーには、『INT』という操作位置がある。これは『インターバル』の略であり、ワイパーの間欠動作を選択する場合に使用する。そして大村崑はこのINTポジションを使用していない。
「カチャ、ギッコ、ギッコ、カチャッ!」
「カチャ、ギッコ、ギッコ、カチャッ!」
「カチャ、ギッコ、ギッコ、カチャッ!」
 大村崑の左手が、実に忙しなく動き続ける。猛烈に気になって仕方が無いが、なぜか聞けない。大村崑にそれを聞いてはいけない雰囲気なのだ。
「カチャ、ギッコ、ギッコ、カチャッ!」
 彼は職人の様にひたすらワイパーを操作し続け、我々は目的地の料理屋に到着した。
「常務、あの運転手はどうしてワイパーを手動で操作しまくっていたんでしょうね?」
 私は思わず渡に訊いてしまった。
「壊れとったんやろ」
「・・・」
 結局、なぜ彼が手動でワイパーを動かし続けるのかを私は訊くことが出来ず、その夜の酒宴は今一つ気分が乗らないままだった。

 翌朝、ホテルをチェックアウトした我々は、H電力TS火力発電所の構内に居た。
「うわぁ、やっぱりこっちは寒いですなぁ」
 渡が尾藤に声を掛けた。
「そらぁ、この辺りはこれが当たり前ですわ。木田さん、二月はもっと寒いでぇ!」
「ははは、そうですか。水、凍りますかね?」
「そんなもん、みんな凍りまっせ!そらぁ寒いでぇ」
 尾藤も渡も、他人事の様に笑っている。どうせこの二人は現場に来ることも無いので、気楽な物だ。私は苦笑いをしながら、コートの前をしっかりと合わせる。
 地面にはうっすらと雪が積もり、革靴の底からじんじんと冷気が伝わって来る。
「ここでっせ」
 尾藤は事務所の扉を元気良く開けた。
「どうも!TG工業の尾藤でございます!」
 元々甲高い尾藤の声が、さらに高くなる。
「おお、尾藤さんか」
 作業着を着てメガネを掛けたやや神経質そうな男が、机の上の書類から顔を上げた。
「山上係長、今日はFRP(繊維強化プラスチック)を剥がす業者を連れて来ましたので、打ち合わせをお願いします」
 山上は少しだけ書類を脇に整理すると、ヘルメットを手に取り椅子から立ち上がった。

 事務所から歩くこと数分、山上は発電所の中心部に我々を案内した。
「ここの上にあるミストエリミネータと、そっちの煙道をやってもらいます」
 山上は頭上の高い構造物と、地上数メートルに横たわる四角い大蛇を指差した。
「『みすとえりみねーた』ってなんですか?」
 私の質問に尾藤が笑う。
「排煙脱硫装置のことですわ。知りまへんか?」
 私の横で、渡が苦笑いをしている。渡も分からないに違いない。
「中は見られますか?」
 もちろん運転中のプラントの中が見られるなんて、本気では思っていないが、駄目元だ。
「はははは、木田さん、それは無理でっせ」
 尾藤はまた笑い、山上は少し心配そうな顔をした。
「じゃあ、施工箇所の図面を見せて下さい」
「後で送りますわ。それにしても木田さんは心配性やな」
 尾藤はわざと大声で言うと、山上に満面の笑みを向けた。
「山上係長、ご安心下さい。こう見えてもR社さんは、きっちりとした仕事をするんですわ」
 山上は軽く頷くと、表情を和らげた。

 この時、私はもっと食い下がって、この構造物の詳細を調べておくべきだった。

はくりんちゅ103

2008-02-15 23:18:21 | 剥離人
 異様に長く感じたC電力H火力発電所の仕事も、終わりが近付いて来た。

 バキュームダンパー車による最後の砂(銅ガラミ)出しを終えると、これまた最後のプライマーを入れる(塗る)。
「佐野さん、これで最後ですね」
 佐野はサゲ缶を足元に置くと、単管パイプに寄りかかり、にやりと笑った。
「三分の一ね」
「はあぁぁぁぁ」
 私は深いため息を付いた。この建屋の屋上にあるタンクは、同じ大きさの物が三基あるのだ。今回終わったのはその内の一基。残りの二基は、交互に『灰汁』を脱水している。
「あと二回もやるんですね、これ」
「もう慣れたもんでしょう」
「慣れませんよ。初めてのサンドブラスト、初めての塗装工事ですよ」
「一回経験すれば一人前だべ」
「いや、次も手伝って下さいよ。正直、初めての塗装工事にしては、ちょっと強烈なタンクですよね」
「それは言えてるな。これに比べたら新設タンクの塗装工事なんて楽勝だよ。ブラストも簡単にアンカーパターンが付くからね」
「結局、メンテナンスをしないで放っておくと、後が大変って話ですね」
「そりゃそうだよ。普通に塗料が残っていれば、銅ガラミなんか使わなくてもいいんだから」
 職人たちの起毛ローラーを使った塗装が終わると、私と佐野は刷毛で仕上げに入り、塗装作業を終了した。

 最終確認に、TE社の桜井を呼ぶ。
「ふぅー、ふぅー、ふぅー」
 最上段まで階段を上らされた挙句、タンク内の足場を最下段まで下りなければならないので、桜井は非常に不機嫌だ。
「これでプライマーはいいですよ。掃除だけはきちんとしておいて下さいね、まったく…」
 誰が悪い訳でも無いのに、桜井は不機嫌な表情のままタンクを出て行った。
「これでしばらくはチェリーのラブリーな顔を見なくても済むかと思うと、ほっとしますね」
 私は佐野に言った。
「いや、あと二回もあの顔を見られるなんて、木田君がうらやましいなぁ」
 佐野はニヤニヤしている。
「なんと言っても、朝のラジオ体操から不機嫌な顔をみんなに見せつけるのが嫌なのと、階段を上がって来た時の、もみ上げから流れる汗が最高にキモいんですよね」
「そんなこと言うなよ。あれは『男が仕事で流す汗』なんだから」
「いや、ただ単に運動不足なだけじゃないですか。あいつ、階段を上まで上がっただけで、『ビッグプロジェクト達成!』って表情をしてますよ。佐野さんはすっかり『ヘンタ(変な人)』慣れして、あいつに甘いんですよ」
 佐野は大笑いをしながら足場の階段を上がり、歩廊で立ち止まって私に言った。
「大丈夫、木田君もその内慣れるから」
「いや、あんまり慣れたくないんですけど…」
「ところで、上塗りはそこに来ている奴らがやるの?」
 見ると、屋上ステージに特殊塗料で中塗りと上塗りをする塗装業者が来ていた。なんとなくだが、塗装屋には塗装屋独特の『臭い』が漂っている。
「なんか、K塗料の特殊なウレタン塗料を塗装するらしいですよ」
「ふーん、まあ、このボロボロなタンクをここまできっちりとブラストをして、プライマーを入れたんだから、文句はねえべ」
 佐野は自信たっぷりに言うと、職人たちを促して片付けを進めた。

 四ヶ月後、私と佐野は凄い物を見ることになる。

はくりんちゅ102

2008-02-14 23:59:16 | 剥離人

 塗装工事でもう一つ必要なマスクがある。『防毒マスク』だ。

 防毒マスクは、基本的な構造が『防塵マスク』と同じなのだが、主にフィルターに『吸収活性炭』が使用されている。
 この吸収活性炭フィルターは、略して『吸収缶』と呼ばれ、有毒ガスの種類や作業時間に応じて使い分ける必要性がある。ただしどんな有毒ガスに対しても万全な訳ではなく、有毒ガスがあまりにも高濃度な場合や吸収缶が対応していない種類のガスには、いかに優秀な防毒マスクでもそれを防ぎ切ることは出来ない。
 それどころか高濃度な有毒ガスが存在する場所では、そこが『酸欠状態』である場合が多く、根本的に生命の危険に晒される危険性さえあるのだ。

「木田君、そういう場合の目安は何だか分かる?」
 佐野は防塵マスクを外し、防毒マスクを用意した。
「目がチカチカする、とかですか?」
「目がチカチカしたら、かなり危険だよ」
 佐野は『有機溶剤作業主任者技能講習』の資格を持っている。
「うーん、鼻が痛いとか?」
「ちょっと違うな」
 佐野は笑いながら塗料が入ったサゲ缶を持った。私も防毒マスクを装着すると、サゲ缶を手に持つ。
「肌がピリピリする!」
 マスクを軽く持ち上げて、隙間から声を出す。
「惜しい!」
「えー?何だろう…」
「正解は、『金玉』でした!」
「金玉?」
「そう、有機溶剤の濃度が高いと、金玉が『キュー』ってなるから。それを通り過ぎると今度はピリピリしてくるからね」
「本当ですか?」
「嘘だと思ったら、タンクの一番下まで行ってみな。そろそろ最下部に溜まる有機溶剤の濃度がかなり上がっているはずだから」
 私は佐野と一緒に、タンクの中の足場を下りて行った。

「じゃ、木田君はそっちからね」
 佐野と手分けして、昨日プライマーを塗った場所で、鉄板の痘痕に塗料が入り切っていない箇所を探して、タッチアップして行く。どんなに入念にチェックをしても、翌日に見ると、塗料が微妙に入りきっていない箇所が、必ず出て来る。そこを虱潰しにするのだ。
「佐野さん、このくらい入念にやれば問題無いですよね」
「上出来だよ。そもそもタンクをこんなになるまで放っておく方が悪いんだよ」
 佐野と一緒に、今度は今日塗装を入れている場所のチェックに入る。いくら開放型のタンクと言えど、最下部に近づくに連れて、有機溶剤の濃度が上がる。
「うわ、結構今日は濃度が高くないですか?」
 私はジェスチャーと篭った声で佐野に言った。
「下に行ってみな」
 佐野にジェスチャーで促され、タンク最下部に近づいてみる。すでに防毒マスクをしているのに、何もマスクをしていない様な臭いが、鼻を突き刺す。
「ブゥーン」
 気休めのような送風機が、一応動いている。
「うわっ、来た!」
 徐々に金玉がきゅーっとして来る。なんだか下半身が気持ち悪い。試しにもう少し我慢していると、だんだん金玉がピリピリして来た。
「おおっ!」
 私はやや早足で足場を上ると、佐野の元に戻った。
「佐野さん、来ましたよ、金玉!」
 激しいジェスチャーと大声で伝える。
「来るべ、きゅーっと!」
「ええ、僕の玉々が、『やばいぜ!』って騒いでます!」
「下手なガス検知器よりも優秀だからな、金玉は」
 これも現場の知恵なのだろう。

 仕事が終わると、車の中で佐野の話が始まる。
「昔、密閉タンクの中をベテランの職人に塗らせていて、他のタンクの塗装もあったから、時々マンホールから、『大丈夫かぁー?』って声を掛けんだ。そうすると、『うぉーい、大丈夫だよぉーっとこらぁ』って答えるんだよ」
「ええ」
「その日、そいつは唄を歌い出して、『海はよぉー、おおおおー!』とか歌いながら作業をしているから、上機嫌で仕事をしてるなぁって思ってたんだよ」
「ははは」
「三十分後に見に来たら、物凄いスピードで壁を塗ってるんだよ」
「シャアのザクくらい?」
「おお、あり得ないくらいのスピードで、それがまた腕が良いから綺麗なんだ、塗膜が」
「凄いじゃないですか」
「で、『大丈夫かぁー?』って声を掛けると、『うぉーうぃ、らいりょーぶれらよぉー』って返事をするんだよ」
「は?」
「慌ててタンクに入ったら、防毒マスクはしているんだけど、吸収缶が入ってないんだよ」
「え、着け忘れですか?」
「いや、息苦しいから外したって」
「・・・」

 どんなに優秀で『国やJISの規格を満たす』性能を誇る防毒マスクでも、この様な職人さんの前では、その効力は無効化されてしまうのだった。
 


はくりんちゅ101

2008-02-13 23:55:51 | 剥離人
 塗装工事に付き物のアイテムが『マスク』だ。

 マスクと言っても、ドラッグストアで売っているようなマスクでは無い。サンドブラストを行う時に使われる工事用の『防塵(ぼうじん)マスク』だ。
 防塵マスクは高性能なエアフィルターを吸引部に装着したマスクで、ほとんどの製品が『集塵効率99.○○%以上』の性能を謳っている。『興研』や『重松製作所』というメーカー(戦時中は防毒マスク等を作っていた歴史ある会社)の製品が使われる場合が多い。
 特徴としては、顔に接する部分はシリコーンゴムや塩化ビニルなどの樹脂素材で出来ており、完全に顔に密着する様になっている。フィルターは樹脂製のケースに入っており、毎日交換して使用する。たまに『エコ精神』を発揮して、パタパタとフィルターを叩いて再利用する職人も居るが、メーカーはそのような使い方を全く推奨していない。

 この防塵マスク、どのくらい優秀かと言うと、花粉症の人が試しに装着してみればすぐにその違いが分かる。重度の花粉症の人でもこの防塵マスクを装着すると10分以内に鼻水が止まり、実に快適に鼻が通ることになる。『集塵効率99.○○%以上』は伊達ではないのだ。
 だが、この優秀なマスクにも唯一の欠点がある。それは見た目だ。マスク装着時の異様な風体は、街中で装着していれば間違いなく警官に呼び止められ職務質問を受けるだろう。
 あるゼネコンの幹部は、このマスクに眼を保護するゴーグルが一体になった『完全面体』を装着して出社している、という噂を聞いたことがある(さすがに車通勤らしい)。
「外見なんか気にしないぜ!俺は花粉をシャットアウト出来るのなら、どんな格好でもするぜ!」
 とか、
「私はお洒落な人間だけど、花粉を防ぐためなら職務質問を受けることも厭わないわ!」
 という方には、全力でお勧め出来るアイテムだ。

 この優秀な防塵マスクも、使用方法によっては無意味なアイテムに変身してしまうことがある。
 マスクの性能を低下させる要素の一つが、メリヤス生地の接顔カバーだ。これはマスクのシリコーンゴム製接顔部が嫌いだという職人たちが愛用している。シリコーンゴムがぴったりと顔に密着するのが嫌だという職人は意外にも多い。メーカーとしてはマスクの性能が低下することが判っていても、このアイテムをカタログから外せないのは、それが理由だ。
 SS工業の職人たちは、ほぼ全員が当然のようにメリヤスカバーを装着しており、カバーを付けていないのは、私と佐野くらいだった。

 サンドブラストを終えた職人たちは、建屋から降りてくるとエアコンプレッサーのバルブを開き、短いホースから高圧エアを出して、体に付いた粉塵を吹き飛ばす。
「バシュー!ブホォ、ブボォー」
 高圧エアを浴びて粉塵を落とすと、ようやく彼らは防塵マスクを外す。
「ふはぁー」
 斉藤という職人がタオルで汗を拭う。そこへ『俊ちゃん』と呼ばれている職人が階段を下りて来た。
「俊ちゃん、早く昼飯にしようよ」
「おう!」
 俊ちゃんはニッコリと笑うと、答えた。
「ん?」
 斉藤は何かが気になったようで、俊ちゃんの顔を覗き込んだ。
「どうした?」
 俊ちゃんはマスクをしたまま答える。
「俊ちゃん!マスクのフィルターが入って無いんじゃない!?」
「おお?」
 俊ちゃんは自分のマスクの口元を触った。俊ちゃんのマスクは、樹脂製の台にフィルターをセットして差し込むタイプだ。
「ああっ!本当だぁ!」
 俊ちゃんのマスクのフィルターが、差し込み式の台ごと無くなっている。俊ちゃんは慌ててマスクを外すと、再度フィルターを確認した。
「無いよぉ…、あれ?いつから無いんだぁ?」
 斉藤が腹を抱えてしゃがみ込んでいる。他の職人も次々と、俊ちゃんのフィルターの無いマスクを見て笑い出した。
「あの、ブラストをしていて気がつかなかったんですか?」
 私は訊いてみた。
「全然、気がつかなかったよぉ」
 俊ちゃんは目を丸くして、ひたすら驚いている。

 どんなに優秀で『集塵効率99.○○%以上』の性能を誇る防塵マスクでも、俊ちゃんのような職人さんの前では、その効力は無力化されてしまうのだった。

はくりんちゅ100

2008-02-12 23:50:39 | 剥離人
 今日はバキューム車が入る日だ。

 バキューム車と言っても、浄化槽の中身を回収する車では無い。産業廃棄物に該当する汚泥などの回収を行う『強力吸引車』だ。他には『バキュームダンパー車』などとも呼ばれる。
 強力吸引車は、通常のバキューム車とは異なり、吸引部とタンク部が外見上明確に分離されているのが特徴だ。その吸い込み能力は、浄化槽を吸引する4トンクラスのバキューム車(街中でよく見かけるヤツ)とは比較にならないほど強力だ。

「どこから回しますか?」
 バキューム車の運転手がサクションホースを引きずりながら言う。
「建屋の二階、そこの階段からホースを入れてください」
 職人たちも手伝い、タンク最下部のホッパー出口にホースを準備する。
「ゲートお願いします!」
 C電力系列会社の担当者が、最下部の金属製のゲートを少し開くと、中から銅ガラミがザラザラと出て来る。
「グボォオオオ、グバッ、グバッ、ザァアアア」
 サクションホースの中を、銅ガラミが音を立てて流れて行く。
「佐野さん、これってホース内サンドブラストですよね」
「うーん、そうだね」
「そのうち破れますね」
「まあ、元々このホースも古そうだしね」
 時折、ゲートの出口が詰まって出てこなくなるので、職人が鉄棒を突っ込みながら銅ガラミを掻き出す。
 一頻り吸い込むと、運転手から泣きが入った。
「もうこの辺で終わりにしてもイイですか?」
「ん?まだ少し残ってるけど」
「容量は大丈夫なんですけど…」
 佐野が階段を上がって来た。
「木田君、この辺で一旦終了だね」
「タンク一杯ですか?」
「いや、比重の問題だね」
「ん?ああ、ああ、なるほど」
「うん、そういうこと」
 佐野と道路に下りて見ると、バキューム車後部車輪のタイヤサイドが膨らんでいた。
「あは、結構入っちゃいましたね」
「いんにゃ、タンクの容量はまだ結構空いてるはずだよ。まだ容量的には入るよな?」
 佐野が運転手に訊いた。
「ええ、容量はまだ行けますけど、ちょっとこれ以上は…」
 運転手が苦笑いしている。
「銅は比重が大きいからね」
 佐野がタイヤを触って笑っている。
「鉄よりもですか?」
「鉄は7.85、銅は8.9だね」
 佐野は重量屋の前はメッキ屋に居たので、その辺にも詳しい。
「ステンレスよりも重いんですね、銅って」
「うん。タイヤから判断すると、十分に積んでるな」
「ええ、これ以上積むと過積載になっちゃいますね、きっと」
 私は運転手に礼を言うと、吸引作業を終了することにした。

 しばらく経った、二回目の吸引の時だった。バキュームダンパー車のサクションホースが新しい物に変わっていた。
「あれ?ホース変えた?」
「ええ」
 運転手がホースを引きずりながら答える。
「これ、耐磨耗のサクションホースだよね」
 通常のサクションホースは、補強リング部がオレンジ色で、ホース部は樹脂の半透明色だが、耐磨耗サクションホースは、樹脂部が黒色だ。
「いいねぇ、これやっぱり違う?」
 我々も同じくサクションホースを使用するので、耐磨耗サクションホースの使用感は知っておきたい。
「まだ使い始めてちょっとしか経ってないんですけど、丈夫だと思いますよ。でも、前のよりも少し重いのと、『しなり』も悪い気がしますね」
「そうなんだ」
 耐磨耗サクションホースの導入を検討していたのだが、取り回しが悪いのは頂けない。
「ところで、ホースを換えたのはウチの工事のせいかなぁ?」
 運転手は苦笑いをした。
「いえ、そういう訳では…、前のホースもかなり使っていましたから」
「あ、そう、それならいいけど」
 私はそう言うと佐野のそばに行った。
「ウチのせいですよね?」
「はははは、まあ、確かに古いホースだったけど、止めを刺したのは間違いないね」
「ちょっと悪い気がしますね」
「まあ、こっちも『銅ガラミだよ』って言って仕事を出したんでしょ」
「ええ」
「そう思ったら、次にダンパー車が必要な時にも仕事を出せばいいんだよ」
「そうですね」

 なぜか佐野の言葉を聞くと、私は安心することが出来た。 

はくりんちゅ99

2008-02-11 23:53:26 | 剥離人

 今日もタンクの歩廊で佐野の話を聞く。

 佐野は話し好きであり、私は人の話を聞くのが好きである。特に佐野の現場で起きたトラブルの話は、それが現実とは思えないほど笑える話が多かった。
 その日は佐野が、特殊な塗料についての話をしてくれていた。
「木田君、感熱塗料っていうのがあるんだよ」
「感熱塗料ですか?」
「そう、その塗料が塗ってある対象物が規定の温度に達すると、色を変えて危険を知らせるんだよ」
「例えば、『高温になったので爆発の危険があります!』とか、そういう塗料ですか?」
「そうそう、そういう塗料があるんだよ」
「へえ」
「俺が入ったあるプラントなんだけど、タンクの塗り直しに感熱塗料を使う仕様になってたんだよ」
「ええ」
「俺は仕様書を見て気付いたんだけど、どう見ても通常運転時の温度が、その塗料が感熱変化する設定温度を超えていたんだよ」
「それは仕様書自体に問題がありますよね。どうしたんですか?」
「そりゃあ、もちろん言ったよ。『このまま塗ったら再運転時に変色しますよ!』って」
「もちろん仕様変更をしたんですよね」
「いんにゃ、結局仕様変更しなかったよ」
「ええ?本当ですか?」
「だって責任者に何度言っても、『ウチのタンクが通常運転時にそんな温度になる訳が無いだろう!』って怒鳴られたからね」
「あははは、『たかが塗装屋にウチのプラントの何が分かるってんだ!』って感じですか?」
「うんうん、全くその通りの表現だったよ」
「でも、本当にそのまま塗ったんですか?その塗料」
「塗ったよぉ」
「それ、本当の話ですか?」
「ははは、本当だって、俺が居たSY社じゃ有名な話なんだから」
「あははは」
「で、俺はその塗料を塗る前にも確認したんだよ。『いいんですか?本当に塗りますよ?』って」
「責任者は?」
「気持ち良く答えたよ、『さっさと塗れ!』って」
「塗ったんですよね」
「塗ったよ、きっちりと仕事はやるからね。で、完工して、試運転の日になってね」
「見たんですか?」
「もちろん。凄かったよぉ、試運転が始まったら、みるみるうちに緑色のタンクが、鮮やかなレモンイエローに変色して行くんだから」
「ぶははは、マジですか?」
「そりゃ凄かったよ。周りはきちんと統一した緑色のタンクが並んでいるのに、一個だけ鮮やかなレモンみたいなタンクが現れたんだから」
「はははは、腹が痛いですよ。いやぁ、それは見たかったなぁ」
「タンクがレモンイエローに変色して行くのと同時に、責任者の顔色は真っ青になって行ったからね」
「そりゃあ、なりますよね、真っ青に。で、その後、そのタンクはどうなったんですか?」
「もちろん塗り直しだよ」
「うわぁ、責任者の人はどうなったんですか?」
「とりあえずその現場は降ろされたけど、その後はどうなっちゃったんだろうね。たっぷりとお金と工期を掛けたタンクの塗装が、わずか二十分くらいでダメになっちゃったからね。その責任は大きいだろうね」
「いやぁ、『人の話は聞け』って事ですね」
「そういうこと」

 佐野の話は笑えるが、結構人生訓に近い話が多かった。 


はくりんちゅ98

2008-02-10 23:51:55 | 剥離人
 ただ突っ立って居るのが監督の仕事という訳ではない。

 タンク内面のサンドブラストが終了すると、私と佐野は粉塵が収まるのを待って、タンクの中に入る。
 まずは壁面のブラストがきちんと行なわれたかどうかを確認する。
「佐野さん、この辺りどうですかね?」
「木田君はどう思う?」
「ニアホワイト(金属が白っぽく見えるサンドブラストの最高品質)には程遠いかと…」
「まあこんなタンクを『ニアホワイト』まで撃ち込んだら、穴が空いちまうけどね」
「でもちょっとまだ茶色い感じがしますよね」
「そうだね。ここはアイツが撃っていた場所だな。どうもあの藤原ってのは撃ち方が雑だなぁ」
 何人もの職人が作業をすると、どうしても仕事の品質に差が出る。現在は五人の職人が撃っているが、やはり個人の技量の差が、そのまま品質の差に直結している。
 撃ち込みが甘いと思われる場所は、チョークで印を付け、もう一度ブラストを行なう。
 これ以外にも、ボロボロに錆びたタンクには、やらなければならないことがある。固着した錆びの除去だ。ブラストで取りきれない米粒程度の強固な錆が、鉄板表面に固着している箇所がいくつもあり、これを先の尖ったハンマーで叩き落すのだ。
「ガーン、ガーン!」
 私と佐野のハンマーの音が、タンク中で反響する。
「佐野さん、これって何ですかね?」
 佐野もハンマーで叩きながら答える。
「色と強度から考えると四酸化三鉄っぽいけどなぁ」
「四酸化三鉄?」
「まあ黒錆のことだけどね。でもこの環境でこんなにしっかりと出来るんだなぁ」
「こんなこと、普通はやるんですか?」
「いんや、やらないね。その前に、普通はタンクがこんなにボロボロになるまで放っておかないけどね」
 佐野はブツブツと言いながら、錆を叩き続けた。
「こんなもんだべ」
「そうですね」

 再びサンドブラストを行い、TE社の桜井を呼ぶ。
「ふぅっ、ふぅっ、ふはぁー」
 どこかの国の将軍様の様な体を揺すり、桜井がやって来た。
「どこ、どこまでやったの?」
 別段我々がこの建屋を建てて、急な階段を付けた訳でも無いのに、桜井はイライラを吐き出す様に言った。
「今日も不機嫌そうだね、チェリーは」
 佐野が楽しそうに言う。どうも佐野は『ヘンタ』を観察するのが好きな様だ。
「僕、チェリーのもみ上げを見ると、生理的な嫌悪感が湧くんですよね。昔、相撲取りの『大徹』のもみ上げは好きだったんですけど」
「大徹って、デーモン小暮が気に入ってた力士?それはあれだろう、チェリーの色白でふっくらとした頬と、黒々としたもみ上げのギャップが嫌なんじゃないの?」
「あははは、たぶんそれビンゴですよ」
 私と佐野の笑い声が癇に障ったのか、桜井は不機嫌そうに足場から上がって来た。
「ふぅー、ふぅー、早くプライマー(下塗り)を入れて下さいね。私、今日の夜は用事があるんで、早く帰りたいんです」
「分かりました」
 私は返事をすると、歩廊でプライマー用の塗料を攪拌している職人たちに声を掛けた。
「プライマーお願いします!」
「はいよー」
 職人たちは『サゲ缶』と呼ばれる塗料入れを持って、タンクに入って行った。
「しっかりとハケで奥まで入れろよー」
 佐野が腕組みをしながら言う。
「あれ?いいんですか、遅くなるとチェリーが怒りますよ?」
 私は半分冗談で言った。
「品質第一!」
「はははは、残業になったらチェリーが切れますね」
「仕事は仕事!」

 私と佐野は、チェリーが事務所を目指してフラフラと歩いているのを見ながら大笑いをした。