大助の駆けある記

日本共産党・木佐木大助の山口県議会通信

福祉の心、今こそ必要

2011年02月25日 | 記事

 2月20日付け山口民報の「この人をぜひ県議会へ…私の歩み・私の抱負」のコーナーで、私が紹介されました。 民報編集部の快諾を得ましたので、そのまま転載します。 文責は山本晴彦編集長です。

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告示まであと四十日と迫った県議会議員選挙。勇退する水野純次県議団長からバトンを引き継ぎ、県議選に初挑戦する下関市区(定数十)の日本共産党・木佐木大助候補に聞きました。

■利平さん以来44年続いた党議席、必ず確保

「利平さん以来、四十四年続いた下関の日本共産党県議会議席を何としても確保したい」…連日の支持者訪問や街頭演説、“毎日が最終盤”の気迫で走り回る木佐木さんの話に思わず力がこもりました。

 「利平さん」こと山本利平氏が初当選したのは一九六七年。戦後二十二年目にして保守王国山口県の県議会に共産党議員が誕生したことは、県政財界には衝撃、県民には新時代到来の大きな希望でした。以後、七五には二議席(下関、宇部)、九一年に三議席(岩国も)、九九年には周南も加えて四議席にまで躍進しました。

 日本共産党県議が三人になった時、当時の平井知事は、「住民が主人公」の立場で奮闘する姿をこう評しました。「戦力(議席)は五割増だが、威力は三倍増だね」。

●国政選挙3回の大型新人

木佐木さんは、学生運動をへて日本共産党の専従活動家になり、若手幹部として人望を集めてきました。「若者の話を親身に聞いてくれる」「誰とでもとことん付き合い、体をはって頑張ってくれる」と周りの人は口をそろえ、期待をになって三回の衆院選・参院選に出馬しました。

 「県北・中山間地の農業と地域の破壊、岩国の米軍基地、美しい瀬戸内海と人々の安全な暮らしをこわす上関原発…。全県をかけめぐり、自公政治と民主党政権がもたらした政治の行き詰まり・県民の怒りを実地につぶさに見たことは、単に下関の声を県政に届けるだけでなく、大きく県政の流れを変えていくうえで私の財産になってくれると確信します」と木佐木さん。安倍元首相を向うにまわし、国政選挙で論戦を挑んだ大型新人と注目されるゆえんです。

●「四拾九日までに出ろ」とは…!

県議会に出たら真っ先に取り組まなければ、と決めていることがあります。県営住宅入居の「死後承継」問題です。

 「二十年間、県営住宅に住んでいるご婦人が相談に来られたんです。母親が九十歳で亡くなったが、四十九日までに出て行けと県から文書が来た、と。入居時の名義人が母親の為、一緒に住んでいたその御婦人(娘)に権利はないという訳。下関市は実状に応じて入居継続措置をとると柔軟ですが、県の対応は全く冷酷です。県議選を待たずに解決できれば一番ですが、一事が万事、私は今こそ政治に福祉の心を取り戻さなければと決意しています」

●「人の世に熱あれ…」が信条

木佐木さんは、昨年の春以来インターネットのブログ「大助の駈け歩る記」を開き、政治への熱い思いを発信してきました。その一つ、「座右の銘は『人の世に熱あれ!人間に光りあれ!』」は、高校のヨット部で広島県呉湾をアメンボーのようにすいすい漕ぎまわしていたころの回想を交え、「ぶらぶらしてるばかりじゃダメだ。一緒に勉強しよう」と同級生から問題の学習会に誘われたのが人生の転機になったと記しています。

 「大学を出ても職がない。派遣社員はモノ同然に使い捨て、年をとると姥捨て山のように差別医療を押しつけられる…。これこそ最大の人権じゅうりん、差別です。『人の世に…』は、かつての問題のスローガンから現代の『貧困と格差』解消の合言葉となってきたと思います」

●熱い支援に必勝の決意

 下関市区は立候補状況が流動的。裏返せばそれだけ大激戦区という証です。そんな中、木佐木さんへの期待もかつてなく広がります。

 ブログを見た在米の女性から応援が届きました。元下関市立大学学長の下山房雄先生からも、日本政治をダメにする「大企業優先とアメリカ従属の政治」と対決し、地方から変革のノロシをあげて欲しいとのメッセージが。日本共産党の演説会に参加した二人の年配の方が、「政治を変えたいとワラをもつかむ気持ちで行った。生活相談でもお世話になった。今度は自分達が入党してお役に立ちたい」とペンをとる感激の場面もありました。

 「絶対に勝ちぬきます」、笑顔に決意がにじみます。