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新選組史跡踏査
玉生堂跡
慶応元(1865)年、新選組は、大坂・南堀江に私塾「玉生堂」を開いていた儒者・藤井藍田を捕縛する。藍田は万福寺に幽閉され、取調べと拷問を受けた後、大坂西町奉行所に身柄を引き渡され、そのまま獄死した。藍田は、長州の志士達と通じており、倒幕をたくらんでいた、ということではあるが、新選組の谷兄弟が、大坂での検挙数を上げるために捕縛したとも言われている。
発見難易度 ★★★☆☆
南堀江の高台橋公園に「玉生堂」の跡碑があります。
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大坂西町奉行所跡
慶応元年(1865年)5月、新選組は、私塾・玉生堂を開く儒学者・藤井藍田を捕縛、大坂西町奉行所に身柄を引き渡した。また、元治元(1864)年に新選組に暗殺された、内山彦次郎が与力として勤めていたのも、この大坂西町奉行所である。
発見難易度 ★★☆☆☆
マイドームおおさかという施設の前に碑があります。
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天満橋
慶応4(1868)年1月、小田数馬が河原で殺害され、天満橋の北詰に梟首(きょうしゅ)された。新選組隊士と伝えられているが、隊士名簿に「小田数馬」の名は見当たらない。同名の隊士である、「宮川数馬」もしくは「桜井数馬」の変名とも考えられる。
発見難易度 ★☆☆☆☆
大きな橋なのですぐにわかります。
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大阪天満宮
大政奉還後、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜は、二条城から大阪城に退く。新選組も、それに伴い京を離れ、大坂に下った。その際に滞在したのが大阪天満宮であり、後日、新選組は「伏見鎮撫」の命を受けることになるのである。
発見難易度 ★☆☆☆☆
表門に吊るされている大きな方位盤(上の写真)が可愛くて素敵でした(笑)。
本殿 本殿の鬼瓦 裏門
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大坂城
発見難易度 ☆☆☆☆☆
言わずと知れた、大坂城です。
平成9年に改修されただけあってキレイですね。
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八軒屋船着場跡
鳥羽・伏見の戦いで敗北した新選組は、大坂での定宿であった、天満橋南の八軒屋にある「京屋忠兵衛」方に入った。 しかし、時の将軍徳川慶喜は、同日夜、大坂から脱出するべく、この八軒屋の船着場から天保山沖まで川舟で下ってしまうのである。「たとえ、千騎没して一騎となるといえども退くべからず。」と、将軍自ら兵を鼓舞した直後の出来事であった‥。
発見難易度 ★☆☆☆☆
「永田屋昆布店」の軒先に「八軒屋船着場の跡」の石碑(上の写真)があります。八軒屋というからには、少なくとも8軒は宿屋があったんでしょうね。 現在は、川沿いに「八軒家浜船着場」と「川の駅・はちけんや」が作られています。
八軒家浜船着場
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天保山跡
当時、天保山沖には旧幕府の艦隊が停泊していた。鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が、起死回生を図ろうとしていたその時、時の将軍・徳川慶喜は、艦長である榎本武揚を大坂に残したまま、開陽丸に乗って江戸へと脱出してしまった‥。その結果、総大将を失ってしまった新選組も、やむなく天保山港より江戸へと帰還することになったのである。 なお、江戸へ帰還する船の中で、監察・山崎烝が死亡、水葬されたという説もある。
現在周辺は「天保山公園」になっており、公園内には跡碑が立っている。
発見難易度 ★★☆☆☆
天保山公園はすぐに見つかりますが、公園への入り方によっては、碑が見つけにくいかもしれません。
天保山は日本一低い山(標高4.53m)だそうです。登山証明書ももらえるらしい(笑)。
築山であり、もともとは20mほどあったものの、土砂の採掘や地盤沈下により、今の標高になりました。
「大坂天保山」 歌川広重画
この他にも、往時の天保山を描いた壁画が見られます。
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