土方歳三立像


五稜郭タワーの向かいにあるこの銅像は、函館出身の彫刻家、小寺眞知子氏の作品で、「五稜郭に立つ 土方歳三」と名付けられている。2003年に公開され、函館の新しい観光名所となっている。
※平成18年に五稜郭タワーアトリウム内に移設されました。


発見難易度 ☆☆☆☆☆
とにかくカッコイイ像です。五稜郭に行った際にはゼヒ!

 
全体像はこんな感じ。後ろ姿もイケてます。


夜にはライトアップされます。

 
お土産も買っちゃいました。光ります(笑)。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

亀田八幡宮


明治2(1869)年、5月17日、旧幕府軍総裁・榎本武揚らと、新政府軍・陸軍参謀の黒田清隆らとの間で降伏のための交渉が行われた。榎本は無条件降伏に同意し、誓書を亀田八幡宮に奉納、戊辰戦争は終わった。
なお、箱館戦争の際にはこの境内も戦場となり、旧社殿(上写真)の羽目板には弾痕が残されている。


発見難易度 ★★☆☆☆
函館では「カメハチ」と呼ばれ、かなり有名な神社だそうです。

 
神社への参道(左)と現在の社殿(右)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

碧血碑


土方歳三ら旧幕府軍戦死者の慰霊のために建てられた碑。忠義を貫いて死んだ者の血は、地中で三年経てば碧玉となる、という伝説に因む。題字は大鳥圭介の書と言われている。


発見難易度 ★★★☆☆
毎年6月25日(旧暦の5月16日 / 千代ヶ岡陣屋の中島三郎助父子が討ち死にした日)に、慰霊祭が行われています。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

土方歳三座像


五稜郭タワーの展望台にある座像。世に広く知られている洋装姿の土方歳三の写真がもとになっています。コートに刀のあの写真ですね。制作は、立像と同じ函館出身の彫刻家、小寺眞知子さん。背後には函館の街が広がります。

タワーの展望2階は、展示スペースになっていて、これがかなり面白いです。
「五稜郭歴史回廊」

  
展示スペースのジオラマがめちゃくちゃよくできていてスゴイです!


発見難易度 ☆☆☆☆☆

 
夜の五稜郭タワーと展望台から見える函館の街
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

土方歳三函館記念館


函館にあるこの記念館には、愛刀の「兼定」と「国廣」の複製など、土方歳三にまつわるさまざまなものが展示されており、貴重な史料も多い。新選組を知らずとも楽しめ、訪れればファンになってしまうかも。売店のグッズも豊富。


発見難易度 ★☆☆☆☆
建物の名前は土方・啄木浪漫館。一階が土方歳三函館記念館、二階が石川啄木函館記念館となっています。


入口は一本木関門!

  
飲まないのにワインを購入(笑)。ネクタイは気に入ってます。

土方歳三函館記念館
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

称名寺


ここ称名寺には、明治2年(1869年)4月まで新選組の屯所が置かれていた。
本堂の脇には、土方歳三と4名の新選組隊士の名前が刻まれた供養碑が建っている。
もともとこの供養碑は、鴻池手代大和屋友次郎が建立したものだったが、称名寺の火災によって供養碑も焼失。現在の供養碑は、移転後の称名寺に昭和47年(1972年)に有志により建てられたものである。

発見難易度 ★★☆☆☆
実行寺の隣。大きなお寺なのですぐ分かると思います。
なお、函館戦争当時は、現在弥生小学校がある場所にあったとのこと。
ちなみに「燃えよ剣」の最後では、お雪さんと思しき女性が称名寺に土方の供養料を納めに来たシーンが書かれています。

称名寺本堂
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

丁サ跡


アイヌの人々と交易しその運上金を藩に納める場所請負人といわれる商人だった佐野専左衛門の店の跡。屋号は万屋、店章が丁サであった。
土方歳三が箱館市街の宿所としていた場所。箱館政府(旧幕府)軍の本拠地であった五稜郭は箱館市街からは離れているので、箱館市中取締だった土方は頻繁にこの宿所を利用したのではないだろうか。

発見難易度 ★★★☆☆
丁サ跡の正確な場所については諸説ある様ですが、ここでは「新選組超読本:新選組クロニクル」(別冊歴史読本)に掲載されている住所を訪れました。
土方の宿だったことを示すものは何もなく、現在は民家や店舗になっています。


沖之口番所跡

近くにあった役所で、新選組の警備拠点の一つ。山野八十八らが詰めていた。
現在、函館市臨海研究所。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

武蔵野楼跡


1869年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の前夜に、箱館政府(旧幕府)軍が宴会を開いた場所。史実では、この宴には新選組からは土方歳三、相馬主計、大野右仲が参加していた。ここは当時、東京より北では最も豪華な妓楼で、三層楼に屋上庭園を備えた立派なものだったらしい。

発見難易度 ★★☆☆☆
「新選組!!」でも最初の方で箱館総攻撃前夜の宴のシーンがありましたね。
現在は池見石油という会社(ガソリンスタンド)になっており、見つけやすいと思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

四稜郭


旧幕府軍が五稜郭の守備のため、函館北部に急造した台場。当時は神山台場と呼ばれていたそうだ。明治2(1869)年5月11日、新政府軍による北からの攻撃を受け、ここにいた旧幕府軍兵士たちは五稜郭へと敗走したのである。

発見難易度 ★★★☆☆
普通わざわざ行かないよなー、ということで。 くれぐれも、五稜郭をイメージして行かないように。ちなみに、単なる四角形じゃなくて、蝶々が羽を広げたような、けっこう素敵な形なんだけどね。

 


権現台場跡

旧幕府軍が五稜郭と四稜郭との間にある東照宮に設けた台場。新政府軍の攻撃で社殿は焼失したが、鳥居は当時のまま現存する。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

高龍寺


箱館病院分院として、当時は弁天町にあった。函館戦争の際には新政府軍が乱入し、無抵抗の会津遊撃隊の傷病兵を惨殺し、火を放った。境内には、この非道を訴える「傷心惨目の碑」が建てられている。

発見難易度 ★★☆☆☆
江戸初期に創始された寺で、函館では一番古い寺院だそうです。ちなみに、弁天町に何か残されていないか、グルグル回ってみましたが、よくわかりませんでした。


高龍寺本堂
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

実行寺


箱館戦争が終わったときに、市中に放置されていた旧幕府軍兵士の遺体を、実行寺の日隆和尚が称名寺・実行寺・浄玄寺に葬ったそうであり、ここには箱館戦争関係の墓碑七基がある。なお、実行寺では毎年6月に行われる碧血碑前慰霊祭が行われている。

発見難易度 ★★☆☆☆
称名寺のお隣。
明治初期までは、現在の場所ではなく今の弥生町にあったとのこと。
なお、実行寺は1854年にペリーが箱館を訪れたときに写真班の宿舎として使われ、1858年にはロシア領事館としても利用されています。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )