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新選組史跡踏査
称名寺
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ここ称名寺には、明治2年(1869年)4月まで新選組の屯所が置かれていた。
本堂の脇には、土方歳三と4名の新選組隊士の名前が刻まれた供養碑が建っている。
もともとこの供養碑は、鴻池手代大和屋友次郎が建立したものだったが、称名寺の火災によって供養碑も焼失。現在の供養碑は、移転後の称名寺に昭和47年(1972年)に有志により建てられたものである。
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発見難易度 ★★☆☆☆
実行寺の隣。大きなお寺なのですぐ分かると思います。
なお、函館戦争当時は、現在弥生小学校がある場所にあったとのこと。
ちなみに「燃えよ剣」の最後では、お雪さんと思しき女性が称名寺に土方の供養料を納めに来たシーンが書かれています。
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称名寺本堂
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丁サ跡
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アイヌの人々と交易しその運上金を藩に納める場所請負人といわれる商人だった佐野専左衛門の店の跡。屋号は万屋、店章が丁サであった。
土方歳三が箱館市街の宿所としていた場所。箱館政府(旧幕府)軍の本拠地であった五稜郭は箱館市街からは離れているので、箱館市中取締だった土方は頻繁にこの宿所を利用したのではないだろうか。
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発見難易度 ★★★☆☆
丁サ跡の正確な場所については諸説ある様ですが、ここでは「新選組超読本:新選組クロニクル」(別冊歴史読本)に掲載されている住所を訪れました。
土方の宿だったことを示すものは何もなく、現在は民家や店舗になっています。
沖之口番所跡
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近くにあった役所で、新選組の警備拠点の一つ。山野八十八らが詰めていた。
現在、函館市臨海研究所。
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武蔵野楼跡
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1869年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の前夜に、箱館政府(旧幕府)軍が宴会を開いた場所。史実では、この宴には新選組からは土方歳三、相馬主計、大野右仲が参加していた。ここは当時、東京より北では最も豪華な妓楼で、三層楼に屋上庭園を備えた立派なものだったらしい。
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発見難易度 ★★☆☆☆
「新選組!!」でも最初の方で箱館総攻撃前夜の宴のシーンがありましたね。
現在は池見石油という会社(ガソリンスタンド)になっており、見つけやすいと思います。
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四稜郭
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旧幕府軍が五稜郭の守備のため、函館北部に急造した台場。当時は神山台場と呼ばれていたそうだ。明治2(1869)年5月11日、新政府軍による北からの攻撃を受け、ここにいた旧幕府軍兵士たちは五稜郭へと敗走したのである。
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発見難易度 ★★★☆☆
普通わざわざ行かないよなー、ということで。 くれぐれも、五稜郭をイメージして行かないように。ちなみに、単なる四角形じゃなくて、蝶々が羽を広げたような、けっこう素敵な形なんだけどね。
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権現台場跡
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旧幕府軍が五稜郭と四稜郭との間にある東照宮に設けた台場。新政府軍の攻撃で社殿は焼失したが、鳥居は当時のまま現存する。
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高龍寺
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箱館病院分院として、当時は弁天町にあった。函館戦争の際には新政府軍が乱入し、無抵抗の会津遊撃隊の傷病兵を惨殺し、火を放った。境内には、この非道を訴える「傷心惨目の碑」が建てられている。
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発見難易度 ★★☆☆☆
江戸初期に創始された寺で、函館では一番古い寺院だそうです。ちなみに、弁天町に何か残されていないか、グルグル回ってみましたが、よくわかりませんでした。
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高龍寺本堂
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実行寺
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箱館戦争が終わったときに、市中に放置されていた旧幕府軍兵士の遺体を、実行寺の日隆和尚が称名寺・実行寺・浄玄寺に葬ったそうであり、ここには箱館戦争関係の墓碑七基がある。なお、実行寺では毎年6月に行われる碧血碑前慰霊祭が行われている。
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発見難易度 ★★☆☆☆
称名寺のお隣。
明治初期までは、現在の場所ではなく今の弥生町にあったとのこと。
なお、実行寺は1854年にペリーが箱館を訪れたときに写真班の宿舎として使われ、1858年にはロシア領事館としても利用されています。
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近藤勇生家跡
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天保5(1834)年10月9日、近藤勇は多摩郡上石原村で宮川久次郎の三男として生まれた。幼名は勝五郎。生家跡には現在「産湯の井戸」だけが残っており、脇には勇を祭った祠(近藤神社)が建てられている。
なお、建物は昭和18年に調布飛行場建設のために取り壊されているが、調布市郷土博物館に宮川邸を再現した模型が展示されている。
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発見難易度 ★★★☆☆
龍源寺は三鷹市。生家は調布市。歩いている途中で市が変わります。
この2つの間は余裕で歩けますが、ここまでは車(バス)でないと来づらいかも。
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産湯の井戸
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撥雲館
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天然理心流五代目は、近藤勇五郎(勇の婿養子、勇の実兄・音五郎の次男)が継承し、屋敷内の納屋を改築したこの道場で流派の伝承に努めた。
「撥雲館」の名は、山岡鉄舟が命名したと言われる。「撥雲」とは「暗雲を取り除く」という意味。
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発見難易度 ★★★☆☆
生家跡の向かいなので発見は容易いのですが、「龍源寺→生家跡」という同じコースを辿っていた人でも、ここを見ていくは少なかったように思います。観光でなく、新選組を追うのであれば、ココも是非。
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伝通院
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文久3(1863)年、新選組の前身となる浪士組が結成された。近藤勇率いる試衛館メンバーを含む、二百名以上の大量の浪士が伝通院に結集した。
山門入口には、結成式が行われた伝通院塔頭・処静院の石柱が残されている。
墓地には徳川家康の生母や柴田錬三郎などといった著名人の墓があり、麻布一の橋で暗殺された浪士組提唱者・清河八郎の墓もここにある。
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伝通院山門 伝通院鐘楼塔 伝通院塔頭・処静院の石柱
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発見難易度 ★☆☆☆☆
伝通院を見つけるのは簡単です。
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清河八郎の墓 案内板
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発見難易度 ★★★★☆
問題は清河八郎の墓。お墓の案内板はあるのですが、微妙に場所が違っていて迷います。
案内板では、中央の建物がある道から入り、突き当たって「左」(写真の赤印)の所となっていたのですが、実際にはちょっと「右」にありました…。
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