流山本陣


慶応4年4月1日、新選組は流山に本拠を移すが、武装集団が集結しているとの知らせを受け、3日には薩摩の有馬藤太が本陣を包囲。近藤は切腹を決心するが、土方の説得により「大久保大和」として出頭する。
なお、写真の「長岡屋(鶴屋)」が本陣とされるが、これについては異論もある。

発見難易度 ★★★★☆
大きな通りにあるわけではないので、偶然に発見することはまずないでしょう。ただ、道路に案内板が出ているので、目印に進むとよいかと思います。なお、混雑時は近くに駐車は難しいかも。


近藤勇陣屋跡の碑
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光明院


新選組が流山に本陣を置いた際、隊士たちは光明院や流山寺などに分宿した。本陣が新政府軍に包囲されたとき、隊士たちは光明院で調練を行っていたという。近藤は、新政府軍を光明院に案内している。

発見難易度 ★★★☆☆
本陣から500mほど離れたところに位置する。分かりにくいが、駐車はしやすい。


流山寺の大黒様
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流山市立博物館


流山における新選組本陣の様子や、新政府軍の行軍行路、合戦の状況などが記されている資料など、新選組に関するコーナーあり。陣屋に残った階段も展示されている。

発見難易度 ★☆☆☆☆
図書館と並んであります。駐車場もあり。駐車場に止めた後は、ほんのちょっと山を登ります。


陣屋に残った階段
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五兵衛新田(金子邸)


鳥羽・伏見の戦で井上源三郎が戦死、沖田総司も病気で離隊、そのうえ永倉・原田も去ってしまった新選組。
慶応4(1868)年3月中旬、近藤と土方は新選組の再起のため、五兵衛新田(東京都足立区)に拠点を移した。その際に滞在したのが、この「金子左内宅」である。この地で新隊士を募集し、230人近くまでその勢力を復活させた新選組は、4月1日、流山へ移動していくのである。
なお、勝沼で新政府軍に抗戦してしまったため、近藤は「大久保剛」から「大久保大和」に変名している。

発見難易度 ★★★☆☆
大きな通りから一本入った細い路地にあります。車もほとんど通りません。なお、家の前に説明版があります。
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五兵衛新田(観音寺)


五兵衛新田では、金子邸を本陣とした新選組だが、新規に募集した隊士の数も増え、金子邸だけでは収容しきれなくなったっため、隊士を付近に分宿させた。その一つが観音寺である。

発見難易度 ★☆☆☆☆
結構わかりやすいです。偶然通りかかった人も山門前の説明版を読んでます。平成18年に本堂がリニューアルされやようで、やたらキレイです。
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