芹沢鴨生家


新選組筆頭局長、芹沢鴨の生家。郷士・芹沢貞幹の三男として生まれ、幼名は玄太。
新選組を作る前は、尊皇攘夷の思想に共鳴、天狗組に入る。当時は下村継次と名乗っていた。
入牢するものの、大赦の発令で出獄、名前を芹沢鴨と改め、新選組の前身・浪士組に参加したという。
「尽忠報国之士芹沢鴨」と刻まれた鉄扇を持ち、酒乱で乱暴者のイメージがあるが、神道無念流免許皆伝・師範代の剣の腕に加え、学もあった。また、新選組初期の資金調達は、芹沢鴨なくしては不可能であり、「新選組を作った」といっても過言ではない。
大和屋の焼討ちが原因で、会津藩は近藤派に芹沢鴨の抹殺を命令、文久3(1863)年、9月16日、京都・八木亭で土方歳三らによって暗殺された。

 
芹沢鴨案内板          芹沢城址跡

発見難易度 ★☆☆☆☆
現在、生家は無人。中へは入れません。
生家の道を少し登ったところに芹沢城址があります。芹沢城は室町時代中期に築かれたものだそうです。(天正19(1591)年に廃城)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

法眼寺


芹沢家の菩提寺。
門を入ってすぐの左手に芹沢鴨・平間重助の顕彰碑が建てられている(写真左)。
奥に入っていくと、小高い場所に芹沢家の場所があり、芹沢鴨の兄の名前も見られる(写真右)。

 


発見難易度 ★★☆☆☆
芹沢家の墓所から裏道を通って芹沢城址に抜けられるそうです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

平間重助隠れ家跡


芹沢鴨の腹心だった平間重助は、文久3(1863)年9月、芹沢鴨が京都・八木亭で暗殺された夜、同宿していたものの、難を免れて逃走、以後は消息不明になっていた。
しかし最近では、晩年は郷里の玉造に戻り、隠れ住んでいたことが判明している。
写真は、平間が晩年住んでいた家があった辺り。
隠れ家は、民家の裏手にあり、表からは見えなかったという。
なお、平間重助は、浅田次郎「輪違屋糸里」で有名になりましたね。


平間重助案内板


発見難易度 ★★☆☆☆
案内板がある場所とは異なります。芹沢鴨の生家の向かい側です。
なお、芹沢から北に行った青柳というところに「平間家の墓所」があるということなので、探しに行きましたが、林の中で、外からは全く見えないところにあるため、結局わかりませんでした。
でも、あとで色々調べてみると、どうやらすぐ近くまで接近していたらしいのです。
あの木立に入っていたら…と残念無念。 見つけてたら、発見難易度6レベルですね。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

東耀寺


玉造の北、石岡市にある東耀寺は、伊東甲子太郎・三木三郎兄弟実家、鈴木家の菩提寺。 三木三郎こと鈴木忠良の墓石がここにある。
三木三郎は、兄の伊東甲子太郎と共に新選組に加入、九番隊組長を務めた。御陵衛士として新選組を分離後、油小路の変では生還、薩摩藩に保護されている。
戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)では、新政府軍として新選組と戦い、廃藩置県後は警察に勤め、余生をこの石岡で送った。


九番隊組長・三木三郎の墓(右端)

発見難易度 ★★★★☆
お寺はすぐに見つかるんですけど、墓所がけっこうデカく、お墓の数も結構あります。
資料の背景を手がかりに、墓地をグルグル探しました…。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )