大阪天満宮


大政奉還後、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜は、二条城から大阪城に退く。新選組も、それに伴い京を離れ、大坂に下った。その際に滞在したのが大阪天満宮であり、後日、新選組は「伏見鎮撫」の命を受けることになるのである。

発見難易度 ★☆☆☆☆


表門に吊るされている大きな方位盤(上の写真)が可愛くて素敵でした(笑)。

  
本殿                本殿の鬼瓦           裏門
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大坂城

鳥羽・伏見の戦いで敗北した新選組は、態勢を整えなおすべく、大坂城へと向かった。大坂には、墨染で肩を狙撃されて治療していた近藤勇や、癆痎(肺結核)で療養中の沖田総司もいた。政権を返上したとはいえ、「将軍・徳川慶喜自らが陣頭に立てば、まだ勝機はある」と、土方は思っていたに違いない。しかしながら、慶喜は、新選組や多くの兵士を残したまま、大坂城を脱出してしまうのであった‥。

発見難易度 ☆☆☆☆☆


言わずと知れた、大坂城です。
平成9年に改修されただけあってキレイですね。
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八軒屋船着場跡


鳥羽・伏見の戦いで敗北した新選組は、大坂での定宿であった、天満橋南の八軒屋にある「京屋忠兵衛」方に入った。 しかし、時の将軍徳川慶喜は、同日夜、大坂から脱出するべく、この八軒屋の船着場から天保山沖まで川舟で下ってしまうのである。「たとえ、千騎没して一騎となるといえども退くべからず。」と、将軍自ら兵を鼓舞した直後の出来事であった‥。

発見難易度 ★☆☆☆☆
「永田屋昆布店」の軒先に「八軒屋船着場の跡」の石碑(上の写真)があります。八軒屋というからには、少なくとも8軒は宿屋があったんでしょうね。 現在は、川沿いに「八軒家浜船着場」と「川の駅・はちけんや」が作られています。


八軒家浜船着場
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天保山跡


当時、天保山沖には旧幕府の艦隊が停泊していた。鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が、起死回生を図ろうとしていたその時、時の将軍・徳川慶喜は、艦長である榎本武揚を大坂に残したまま、開陽丸に乗って江戸へと脱出してしまった‥。その結果、総大将を失ってしまった新選組も、やむなく天保山港より江戸へと帰還することになったのである。 なお、江戸へ帰還する船の中で、監察・山崎烝が死亡、水葬されたという説もある。
現在周辺は「天保山公園」になっており、公園内には跡碑が立っている。

発見難易度 ★★☆☆☆
天保山公園はすぐに見つかりますが、公園への入り方によっては、碑が見つけにくいかもしれません。


天保山は日本一低い山(標高4.53m)だそうです。登山証明書ももらえるらしい(笑)。
築山であり、もともとは20mほどあったものの、土砂の採掘や地盤沈下により、今の標高になりました。


「大坂天保山」 歌川広重画
この他にも、往時の天保山を描いた壁画が見られます。
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