鷲ノ木浜


旧幕府軍の蝦夷上陸地。
市街での新政府軍との衝突を避けるため、直接箱館には入らなかった。
明治元年10月20日に到着。新選組は、10月22日に上陸した。
浜には上陸の地を示す木柱が建ち、近くの鷲ノ木史跡公園には、案内板と石碑がある。

発見難易度 ★★★★☆
函館観光のついでに、というわけにはいかず、函館から車で一時間ほどかかります。
観光客はまずいませんが、新選組ファンなら行く価値は十分。
真冬のこの地に立った土方の気持ちを想うと、感慨もひとしお。感動できる史跡です。
なお、石碑は若干見つけにくいのかも。

 
石碑            案内板






ぴよぴよ侍(ぴよざむ)@鷲ノ木

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川汲峠


蝦夷上陸後、旧幕府軍は、大鳥圭介軍と土方歳三軍に分かれて函館を目指した。
大鳥軍は本道(現国道5号線)を通るルート、土方軍は海岸沿い(現国道278号線)を通った後、川汲(かっくみ)峠を越える間道を通るルート。
川汲峠では、新政府軍との戦闘があったが、土方軍はこれに勝利、さらに箱館へと進んでいく。

発見難易度 ★★★★★
上の写真、実は近くの「川汲公園」です。川汲峠は下の写真の山中にあります。
また、近くの台場山山頂には、「箱館戦争土方支隊初勝利の地」の碑があるのですが、山登りサイトで調べたところ、山頂までは1時間半以上の登山が必要となるため、断念しました。
なお、この近辺には、クマが頻繁に出没するため、単独行は非常に危険です。


台場山



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湯倉神社


川汲で勝利を収めた土方軍は、湯ノ川を通り箱館へ。
湯ノ川には温泉があり、箱館戦争では、榎本武揚も入湯したという。
傷病兵の治療に適しているということで、湯治のための野戦療養所が設置された。

発見難易度 ★☆☆☆☆
土方軍が進行した時、蝦夷は冬。歳三も、おそらく湯ノ川温泉で体を温めたに違いないでしょう。
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松前福山城


五稜郭を占領した旧幕府軍は、松前の攻略へと向かう。
松前軍は、搦手(からめて)門の門扉を硬く閉ざし、時々開門して一斉砲撃を繰り返していたが、その開閉時間の一定性を読んだ土方は、銃隊を門扉の両側に忍び寄らせ、開門と同時に至近距離から砲兵を狙い撃ちしたという。
この搦手門での戦闘の様子は、司馬遼太郎「燃えよ剣」にも書かれている。
その後、土方自ら城の裏側にまわって城内に侵入、門からの攻撃の防御に必死になっていた松前軍は、背後からの突然の攻撃に浮き足立ち、ついに松前福山城は落城するのである。

発見難易度 ☆☆☆☆☆
松前にさえ行けばわかります。桜の名所として有名なので、春はたいへん混むのかも。


搦手門周辺






白神岬(おまけ)

函館から車で松前に行く場合、白神岬を通ります。
北緯41度23分、北海道の最南端であり、青森県竜飛岬までわずか19.2㎞です。

 
白神生まれの歌人の碑     ぴよざむ@白神岬
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法華寺


土方歳三率いる攻略軍は、松前福山城の近くにある法華寺に大砲を据えて攻撃をした。
また、境内にはこの戦闘で戦死した、新選組隊士など旧幕府軍兵士の墓もある。

発見難易度 ★★★☆☆
寺の場所の把握まではカンタンなのですが、車で行く場合、寺の裏手から入ることになるので少々分かりづらいのかも。
なお、法華寺から松前城までは400m。寺からは、松前城がハッキリと望めました。


法華寺裏門
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開陽丸


幕府の依頼によりオランダで建造された旗艦。砲35門を備える最新鋭艦であった。
徳川慶喜の大阪脱出、榎本武揚率いる旧幕軍の脱走に使用された船である。
旧幕軍希望の星であったが、明治元年11月15日、暴風雨のため江差沖で座礁、海へと消えていったのである。
現在、船はオランダに残されていた設計図を元に復元され、艦内は開陽丸や箱館戦争の歴史などの展示スペースになっている。

発見難易度 ★☆☆☆☆
江差に行けばすぐに分かります。大砲発射再現コーナーや、ハンモック体験コーナーもあり、地味に遊べます。なお、人体レプリカの表情がやたらとリアルなのですが、如何せん榎本と土方が激しく似てません。

 
似てない榎本&土方      ぴよざむ@開陽丸



旧幕軍進行図(わかりやすい!)
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歳三嘆きの松


開陽丸の座礁を知った土方歳三は、沈んでいく開陽丸をここから見て、松の木をこぶしで叩きながら泣いたという。
この松は、旧檜山爾志郡役所の前に立っており、幹には、歳三が叩いたとされる木瘤が残る。

発見難易度 ★★☆☆☆
開陽丸が沈没した沖は、上の写真では右方の沖になります。
松よりもむしろこの沈没場所(写真左下)を見つけるのが難しいのかも。
ポイントは防波堤です。

  
開陽丸沈没場所         旧檜山爾志郡役所        嘆きのぴよざむ


歳三嘆きの松(ジオラマ)
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新政府軍上陸の地


明治2年4月9日、雪解けを待っていた新政府軍が、青森を出航して乙部に上陸。
海軍力に劣っていた新政府軍だったが、この頃には強力な艦隊を持つに至っていた。
開陽丸を失っていた旧幕府軍は江差から退却。
新政府軍は、松前口・木古内口・二股口から箱館へ向けて進軍を始めるのである。

発見難易度 ★★☆☆☆
江差から北へ足を伸ばすことになります。道沿いにやたらと立派な碑が。
なお、碑には「官軍」上陸の地と書いてあります。
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二股口古戦場


新政府軍の進軍を阻止すべく、土方歳三は二股口に出陣した。
明治2年4月13日、銃撃戦開始。土方軍は、日没後も相手の銃口の火を目印に打ち続けた。壮絶な銃撃戦は翌朝まで続き、兵力も武力も上回っていたはずの新政府軍は後退していく。
その後、23日から25日にかけて再度銃撃戦を展開、土方軍は300名、新政府軍はその2倍とも3倍とも言われたが、土方軍は銃身を水で冷やしながら戦い、ついに敗れることはなかった。
しかしながら、松前口・木古内口の旧幕府軍が敗れると、土方軍は背後をとられる恐れから、やむをえず五稜郭に撤退することになるのである。

発見難易度 ★★★★☆
上の写真は二股口古戦場「入口」です。ここから山道を入ると、土方軍が作った塹壕の跡に辿りつきます。なお、この付近はクマが出没する危険地帯なので、山道に入る際は、ホイッスルを鳴らしながら行くことをお勧めします。
また、古戦場西方には、新政府軍陣地(下の写真左)もありました。

 
新政府軍陣地          二股口での攻防(ジオラマ)



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五稜郭


旧幕府軍の本拠地である西洋式の城郭。
城郭中央には箱館奉行所があり、大政奉還後は裁判所になっていたが、旧幕府軍が占領、ここを拠点として箱館政府を樹立した。
入札(選挙)によって、榎本武揚が箱館政府総裁となり、諸外国から独立国として承認を受けた。
土方歳三も「陸軍奉行並」「箱館市中取締役」「陸海軍裁判役」という役職に就任している。
しかしながら、新政府軍の箱館総攻撃に五稜郭は孤立、明治2(1869)年5月17日、ついに旧幕府軍は降伏、戊辰戦争は終結した。
榎本武揚が描いた蝦夷共和国の夢は、ここにはかなく消えたのである。

発見難易度 ☆☆☆☆☆


 
五稜郭入口           五稜郭設計者・武田斐三郎の碑


  
唯一の遺構である兵糧庫   箱館博物館分館入口      箱館奉行所の玄関の一部



土方歳三の埋葬地?

一本木関門で戦死した土方歳三の遺体は、五稜郭に運ばれ埋葬されたという。
松前で共に闘った伊庭八郎が傍らに埋葬されたと言われており、この辺りの土饅頭が土方歳三の埋葬地点である可能性が高い。

発見難易度 ★★★★★
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七重浜


箱館目前に迫った新政府軍に対し、新選組などが夜襲攻撃を仕掛けた海浜。
しかしながら、もちろんそれによって新政府軍有利の形勢は変わることはなかった…。

発見難易度 ★☆☆☆☆

「新選組!!土方歳三最期の一日」の冒頭はこの七重浜夜襲であり、新政府軍から奪った酒を土方が隊士に振舞う、というシーンがありましたね。
下の写真は、七重浜から臨む函館山(新選組の警備)と、富川(参謀黒田了介率いる新政府軍の本陣)です。

 
七重浜→函館山         七重浜→富川本陣

 
ぴよざむ@七重浜1   ぴよざむ@七重浜2
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箱館山


箱館は三方を海に囲まれた要害の地。南は天然の壁、箱館山であるため、新政府軍の攻撃は、当然陸地方面からであると予測されていた。この裏をかいたのが新政府軍の箱館山奇襲上陸。箱館山は新選組の守備であったが、奇襲を受けた新選組は撤退を余儀なくされ、弁天台場へ後退、籠城することになるのである。


発見難易度 ★☆☆☆☆
箱館山はかなりの絶壁。まさかこんなところを越えてくるとは…。


南端に突き出している岬。津軽海峡の向こうには下北半島、津軽半島が見えます。


ぴよぴよ侍@箱館山(箱館の町に向かって)
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弁天台場跡


明治2(1869)年、5月11日、箱館山から退いた新選組は、弁天台場で籠城を始める。土方は、新選組を救済するべく、五稜郭から箱館に向かった。
14日、一本木関門での土方の戦死が伝えられると、隊士は母親を失った赤子のように泣いたと伝えられる。新選組は、15日に降伏。


発見難易度 ★★☆☆☆
弁天台場は後の港湾改良工事で解体され、現在は造船所。


近くの公園には案内板が。函館奉行の永井尚志が降伏したことも書いてあります。
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