千艸屋跡


千艸(ちぐさ)屋は、鴻池・三井のに次ぐ大きな両替商。元治元(1864)年、新選組の「御用金」の取り立てに応じた。また、戊辰戦争直前(慶応3(1867)年12月)の、「土方歳三名義・保証人近藤勇」の借用証書も現存する。
本宅は淀屋橋筋東南角にあり、現在の日本生命本館辺りまでが屋敷跡だったという。

発見難易度 ★★☆☆☆
借用証書が残っているということは、返してねーってことですね。


おまけ 「適塾」

日本生命本館から歩いてすぐの所に、緒方洪庵の私塾「適塾」がありました。福沢諭吉をはじめ、箱館戦争で土方と共に戦った、大鳥圭介もここで学んでいます。
建物は重要文化財に指定されており、2階には、数多くの刀傷が残る柱や、勉強部屋が残されています。

発見難易度 ★☆☆☆☆


平成8(1996)年には、緒方洪庵の銅像も建立されました。
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石蔵屋跡(ぜんざい屋事件)


元治2(1865)年1月、新選組七番組長・谷三十郎と弟・万太郎らは、土佐藩の志士らが大坂焼き討ちを企てていることを察知。その潜伏先であるぜんざい屋の「石蔵屋」を襲撃、土佐脱藩・大利鼎吉を斬殺した。

発見難易度 ★★★☆☆
路上に石碑があります。我々は、新選組資料の背景に映っていたビルを手掛かりに探しました。
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万福寺


新選組が大阪に出張した際の仮屯所(旅宿)のひとつ。本堂には七番組長・谷三十郎らが起居していたという。慶応元(1865)年5月、長州の浪士と通じていた藤井藍田を捕縛した際には、納屋を改造した牢屋に閉じ込め、拷問にかけた。

発見難易度 ★☆☆☆☆


2010年、山門の前に立派な石碑と史跡説明碑が建てられました。
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京橋


慶応元(1865)年5月、新選組は、将軍・徳川家茂の上洛に備え、寝屋川にかかる京橋(北詰)で取り締りに当たった。 尊攘派が浪士が大坂から京へ侵入するのを防ぐためである。また、同年7月には、この橋上で土佐藩士と争った事件も伝えられている。

発見難易度 ★☆☆☆☆
大阪城のすぐ近くです。JR京橋駅からは「近く」とは言えないので注意が必要です。

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玉生堂跡


慶応元(1865)年、新選組は、大坂・南堀江に私塾「玉生堂」を開いていた儒者・藤井藍田を捕縛する。藍田は万福寺に幽閉され、取調べと拷問を受けた後、大坂西町奉行所に身柄を引き渡され、そのまま獄死した。藍田は、長州の志士達と通じており、倒幕をたくらんでいた、ということではあるが、新選組の谷兄弟が、大坂での検挙数を上げるために捕縛したとも言われている。

発見難易度 ★★★☆☆
南堀江の高台橋公園に「玉生堂」の跡碑があります。
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大坂西町奉行所跡


慶応元年(1865年)5月、新選組は、私塾・玉生堂を開く儒学者・藤井藍田を捕縛、大坂西町奉行所に身柄を引き渡した。また、元治元(1864)年に新選組に暗殺された、内山彦次郎が与力として勤めていたのも、この大坂西町奉行所である。

発見難易度 ★★☆☆☆
マイドームおおさかという施設の前に碑があります。
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天満橋


慶応4(1868)年1月、小田数馬が河原で殺害され、天満橋の北詰に梟首(きょうしゅ)された。新選組隊士と伝えられているが、隊士名簿に「小田数馬」の名は見当たらない。同名の隊士である、「宮川数馬」もしくは「桜井数馬」の変名とも考えられる。

発見難易度 ★☆☆☆☆


大きな橋なのですぐにわかります。
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