近藤勇狙撃


「油小路の変」の報復として、篠原泰之進ら御陵衛士の残党が、近藤勇を狙撃した。 この墨染付近で狙撃されたものと思われる。 鉄砲の弾は近藤の右肩を貫いたが、近藤は痛みに耐え、落馬することなく、伏見奉行所まで戻ったという。

発見難易度 ★★★★☆
車で行く場合、一方通行なので行き辛い。 止めることろもないし。 電車の方がアクセスはよいのかも。 しかし、次の史跡(伏見奉行所跡etc.)まで歩くのは、ちょっと距離があるのかと。
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伏見奉行所


1867年12月、新選組は伏見奉行所へ駐屯地を移す。 鳥羽・伏見の戦いでは、近代兵法を装備した新政府軍に対し、ここから刀と槍で斬りこみ、屍の山を築く。 そして、伏見奉行所に火の手が回ると、新選組は会津藩兵とともに、淀方面へ退却することになる。

発見難易度 ★★★★★
うぉーっ! これはむずかしい! 団地の中に紛れ込んでしまい、キョロキョロしていると、不審者と思われるので注意。

…御香宮よりもおそらく十倍は広かったであろう地域に「伏見奉行所」は、堀をめぐらせていた。 「いま、どうなっています」と、御香宮の神主さんにきくと、「団地どすわ」と、吐きすてるようにいった。
(司馬遼太郎「燃えよ剣」より、筆者が伏見奉行所あとを訪ねたシーン)
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鳥羽・伏見の戦い開戦地


慶応4(1868)年1月3日、旧幕府と新政府軍が、鳥羽街道の小枝橋付近で衝突。 鳥羽・伏見の戦いの幕が切って落とされた。 現在、小枝橋には「鳥羽伏見戦跡」の碑が残されている。

発見難易度 ★★☆☆☆
町の中心からちょっと離れています。 車で行くのがベストでしょう。 すぐ近くに「京都南IC」があったので、「鳥羽離宮跡」とセットで、旅の最終ポイントとしました。
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鳥羽離宮跡


小枝橋付近で旧幕府軍と新政府軍がにらみ合いになり、旧幕府軍が強硬突破をしようとした際に、ここ鳥羽離宮に配されていた薩摩軍の大砲が発砲。 これがきっかけとなり鳥羽・伏見の戦いが始まった。

発見難易度 ★★★☆☆
現在は鳥羽離宮公園として整備されています。公園自体を見つけるのは簡単ですが、「鳥羽・伏見の戦い説明碑」と「鳥羽・伏見方面戦闘図」は木々の間にひっそりと建っており、少々見つけにくいかもしれません。


鳥羽・伏見方面戦闘図
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妙教寺


鳥羽・伏見の戦いでは戦闘に巻き込まれ、大きな被害を受けた。 境内には「戊辰役砲弾貫通跡」の碑(写真左)があり、旧幕府軍の砲弾が貫通した柱(原則非公開)も現存する。 山門をくぐった右手には、榎本武揚の書で「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれた碑(写真右)もある。

  
左の写真の碑には「淀古城址」とも刻まれてます。 この辺りにあった「淀城」は、豊臣秀吉が側室茶々のために築いた城であり、こちらは「淀古城」と呼び、近世「淀城」と区別しています。

発見難易度 ★★★★☆
山門に続く細い道の発見がなかなか難しいです。 山門手前まで車で行けるのですが、注意しないと、我々のように、この細い道の前を何度も通り過ぎてしまうことになります(笑)。
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愛宕茶屋埋骨地


「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑が立ち、旧幕府軍35人の兵が埋葬されている。 鳥羽・伏見の戦いでは、この地で旧幕府軍と薩摩・長州の新政府軍が激戦を繰り広げた。 かつて、この辺りには、愛宕神社の分祠が立ち、渡船場と茶屋があったという。

発見難易度 ★★★★★
妙教寺がある桂川沿いの細い道を、そのまま伏見方面に進むとたどり着きます。 小さなバス亭と大きなイチョウの木が目印ですが、発見難易度は高いっす。
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千両松激戦地


鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月5日)の激戦地。 旧幕府軍は、薩長軍に対し、兵の数こそ上回っていたものの、最新式の大砲や銃には太刀打ちできなかった。 加え、薩長軍に「錦の御旗」が上がると、寝返る藩が相次ぎ、旧幕府軍は総崩れとなった。 土方率いる新選組や会津藩兵は、最後まで踏みとどまったものの、この戦いで、源さんこと「井上源三郎」をはじめ、多くの戦死者を出した。 そして、旧幕府軍は、ここから淀城へ向けて退却することになったのである。


「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の石碑

発見難易度 ★★★☆☆
京都競馬場の駐車場近くの高架下にあります。 石碑の横にある「戊辰役激戦之址」の案内碑がナナメになっているのが泣けます‥。
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淀城址


鳥羽・伏見の戦い中、千両松での攻防戦(慶応4年1月5日)に敗れた旧幕府軍は、態勢を立て直すべく、淀城に向けて退却した。 しかし、淀藩は、旧幕府軍の入城を拒絶したのである。 当時の幕府の老中であった、稲葉正邦を藩主とする淀藩の裏切りであった‥。 旧幕府軍にとって、淀城を失った痛手はあまりにも大きく、同時に、譜代大名の裏切りは、徳川の世が終わったことをハッキリと意味するものでもあった。


本丸跡にある石碑

発見難易度 ★★☆☆☆
京阪淀駅からすぐのところにあり、現在は公園になっています。 駅の横に商店街の地図看板があり、淀城址も大きく描かれていますが、この地図を信じると、道を一本間違えることになるかもしれません(笑)。
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淀小橋跡


千両松攻防戦で敗北した旧幕府軍は、態勢を立て直すべく、淀城を目指して退却する。 宇治川に架かる淀小橋は、淀城の入口として重要な橋であったため、旧幕府軍はこの橋を焼き払い、新政府軍の追撃阻止を図った。 ‥が、既に淀藩は新政府軍に恭順しており、新政府軍は、舟によって難なく宇治川を渡ったのである。

発見難易度 ★★★☆☆
当然、もう橋はありません。 現在は、橋があったところに石碑が残るのみです。 納所(のうそ)の六差路交差点を、どの道に進むかが発見のポイントです。
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鳥羽・伏見之戦跡地碑


戊辰戦争当時、この辺りは湿地帯であっため、この碑は特定の戦場の跡というわけではなく、慰霊のために建てられた碑であるという。 おそらく、淀城への入城を拒まれて戦没した、旧幕府軍兵士の慰霊碑であろう。

発見難易度 ★★☆☆☆
この辺りには、旧幕府軍の埋骨地の碑が散在しています。新政府軍の戦死者が手厚く葬られたのに対し、旧幕府軍の戦死者は、賊軍として野ざらしにされていました。 名もなき兵として葬られている慰霊碑には、その悲しさを感じずにはいられません。
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伏見稲荷大社


稲荷神社の総本社。 朱塗りの鳥居がぎっしりと並ぶ「千本鳥居」と呼ばれる鳥居のトンネルは必見。 この鳥居は、大河ドラマ「新選組!」のタイトルバックでも使用されている。

発見難易度 ★☆☆☆☆
見るけるのはカンタン。 駐車場もありますが、前の道は一方通行なので注意。 なお、千本鳥居のゴールまで行くのには、結構キアイがいるのかも…。
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