常安橋

新選組がまだ「壬生浪士組」だった頃、常安橋のたもとにあった会所が大坂での屯所(会所)であった。浪士組には、近藤率いる試衛館一派、芹沢鴨一派の他、殿内義雄、家里次郎らが所属していた。
殿内らは間もなく隊を脱退したが、文久3(1863)年3月、殿内は京都・四条大橋で暗殺されている。また、家里は行方を探し出され、同年4月、この常安橋の会所で切腹させられた。

発見難易度 ★★☆☆☆
北区と西区の境、土佐堀川に架かる橋です。常安橋の南側には、長州萩藩の蔵屋敷がありました。
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平野屋跡


平野屋は両替商を営む大坂の豪商。代々「五兵衛」を名乗った。
文久3(1863)年4月、新選組は平野屋に百両を出させ、その金で隊服を制作した。八木為三郎が「浅葱のうすい色、袖口と袖に白い山型を三角に染め抜いてある」と語ったあの隊服である。その意匠は、忠臣蔵「赤穂浪士」の装束からであったと言われている。

発見難易度 ★★☆☆☆
「天五に平五 十兵衛横町」の碑が残っています。
当時、同じ両替商の「天王寺屋五兵衛」と「平野屋五兵衛」の2軒が道を挟んで店を構えており、「天五+平五で十兵衛」ってことですな。

東横堀橋に架かる「今橋」の近くです。
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京屋跡


八軒屋にあった船宿・京屋(忠兵衛)は、新選組の大坂での定宿であった。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」では、薩長同盟のために京へ行こうとしていた坂本竜馬が隣の堺屋から出てくるところを、京屋の2階から新選組八番組長藤堂平助が目撃する、という場面が描かれている。

発見難易度 -----
我々が持っていた新選組の資料では、京屋の跡地とされる場所がマチマチだったため、特定することができませんでした。八軒屋浜船着場のそばにあったということで、取りあえず、京阪「天満橋駅」を写真に収めたのですが、近年、大阪市立中央図書館に残る「安政三年の水帳」と明治44年の地籍簿から、京屋の跡地は「天満橋京町」付近であることが判明したそうです。写真の「天満橋駅」前の「土佐堀通り」を少々西(写真の左)に進んだところ、現在はチーズ屋さんがある辺りが京屋の敷地だということです。2009年には、チーズ屋さんの玄関横に「京屋忠兵衛跡」の銘板が設置されました。
実は、我々もそこを通っていたのですが、チーズに気を取られ、銘板に気づきませんでした‥。ショック!
ちなみに、大河ドラマでも、新選組は京屋に宿泊していましたね。

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吉田屋跡


吉田屋は大坂新町にあった揚屋。
芹沢鴨がここの芸妓の小寅を気に入っており、また、永倉新八は、中居のお鹿を馴染みにしていたようだ。が、小寅は芹沢のことが嫌いだったようで、宴会後、芹沢の相手を拒んだことで怒りを買い、翌日、お鹿と共に髪を切られてしまう。その後、小寅は町人に身請けされ、お鹿は永倉が身請けし、親許へ引き取らせて町人に嫁がせたといわれている。

発見難易度 ★★★☆☆
吉田屋は空襲で焼けて無くなってますが、住所が残されていたので、いつものように、それをもとに探索しました。
この大坂新町の吉田屋には土方や総司も遊びに行ったそうです。
ちなみに、京都の吉田屋は、倒幕派の志士たちが利用していた料理屋。幾松が桂小五郎をかくまったところですな。

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蜆橋跡

文久3(1863)6月3日、芹沢鴨ら8名が、蜆橋上でいさかいとなった大坂相撲力士を殴打する。この後、住吉楼前での大乱闘事件に発展した(「大坂角力事件」)。この事件のきっかけは、どうやら道を譲る譲らぬといったささいなことだったらしい。 

発見難易度 ★★☆☆☆
銀行の角が秘かに跡碑になっています。
なお、この事件の際には、芹沢一派と共に、沖田総司も一緒にいたようです。大河ドラマでも「どっこい事件(第21回)」として描かれていました。
大河ドラマ「新選組!」は、これまでの「新選組」のドラマからすれば、「新選組になるまでが長い」と評されることもあるようですが、ワタクシは、新選組、そして各隊士の成長を描いたドラマとして、それも非常に面白かったと思います。
大河では、この回のちょっと前から、芹沢鴨との関わりを通じて、「反抗期」ともいうべき総司の姿が描かれています。そして、芹沢鴨は後に総司に斬られることになるのですが、その展開は予想できたとは言え、総司の心の成長を上手に描いた三谷脚本は、やっぱり面白いなと思いました。
ちなみに、こうした前半部分を丁寧に描いたからこそ、後半、視聴者が大いに感情移入できる作品になったのだと思います。ということで、大河「新選組!」は途中(特に京都に行かずにグダグダしているあたり)で見るのをやめず、全部見ましょう(笑)
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住吉楼跡

文久3(1863)年6月3日、蜆橋でのいさかいをきっかけに、芹沢鴨らと大坂力士が住吉楼の門前で乱闘となった(「大坂角力事件」)。 この事件では、関取の熊川が死亡、負傷者も多数出たという。後日、芹沢と近藤は連名で大坂東町奉行所に届け出を出している。
なお、この事件は、新選組が8月に相撲興行を催したのを機に、無事和解をしている。

発見難易度 ★★★☆☆
跡地は不明です。現在もこの辺り(キタの新地)は歓楽街となっています。
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東町奉行所跡

文久3(1863)年6月3日、大坂での相撲力士との乱闘事件(「大坂角力事件」)において、芹沢鴨と近藤勇が連名で届け出を提出したのが大坂東町奉行所である。大坂では、江戸町奉行と同じように東西1カ月ごとの月番制が取られていた。

発見難易度 ★★☆☆☆
大阪合同庁舎第一号館の前に、ひっそりと石碑が残されています。
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鴻池邸跡

鴻池家は、言わずと知れた大坂随一の豪商。清酒の醸造方法を開発、それを元に巨万の富を築いた。
新選組の有力な後ろ盾でもあり、文久3(1863)年、近藤勇・芹沢鴨に200両を献金したという記録も残っている。

発見難易度 ★★☆☆☆
現在は大阪美術倶楽部となっており、「旧鴻池家本宅跡」石碑が残っています。
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岩城升屋跡

文久3(1863)年7月、高麗橋筋の呉服屋・岩城升屋に不逞浪士が押し入る事件が起きた。新選組は、ちょうど将軍徳川家茂を警護するために大坂滞在中であり、山南敬助と土方歳三が駆けつけ、これを討ち取ったという。
この際の激闘で、山南敬助は左腕を負傷、愛刀「赤心沖光」も折れてしまった。この事件の功により、山南は松平容保から金8両を賜っている。

発見難易度 ★★★☆☆
大河ドラマでは、斉藤一が山南さんと土方さんの想い出について、「いつだったか、大坂船場(せんば)のナントカという呉服屋に…」と語っていましたが、これはこの岩城升屋事件のことを指しているのでしょうかね。
なお、この事件は「元治元(1864)年1月」とする説もあります。現在はビルとなっていますが、結構探しやすいんではないかと。
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天神橋

元治元(1864)年5月20日の夜、大坂西町奉行所与力・内山彦次郎がこの橋の上で暗殺される。一般に、この犯人は新選組とされている。動機は、前年、新選組がおこした「大坂角力事件」の吟味から生じた確執とも、内山の与力としての行いに対する天誅とも言われている。
この橋の上では、前年に、新選組の名をかたって金策をした石塚岩雄という浪士もまた、斬刑にされている。

発見難易度 ★☆☆☆☆
大きな橋ですので、すぐに分かると思います。 暗くなると橋がライトアップされ、橋の下の公園からの噴水がそれに映え、とてもキレイでした。
ちなみに内山彦次郎、大塩平八郎の乱の際、潜伏していた大塩を発見した与力の一人なんですね。
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加賀屋跡


新選組の資金源の一つである加賀屋。輸入品の唐糸反物を扱う問屋であった。元治元(1864)年11月、近藤勇は加賀屋を呼びつけ、問屋筋に献金要請を行った。献金要請の際には、谷三十郎が交渉役となり、大金を得たということである。

発見難易度 ★★★☆☆
跡地は残されていません。例のごとく、たぶんどっかこの辺だったのであろうという場所です(笑)。我々は、新選組資料に掲載されていた住所を元に探索しました。

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