下館城址


慶応4年4月17日、旧幕府脱走軍の参謀・土方歳三は、宇都宮城攻撃の前に下館城を包囲、旧幕府軍への参加を要請した。しかし、下館藩は、藩主の病気を理由に交渉に応じず、代わりに物資の提供をした。

発見難易度 ★★☆☆☆
下館城は、藤原秀郷が平将門の追討のために築いたという伝承があります。石碑しかありませんでしたが、きちんと「史跡」として案内されていますので、発見は容易です。


案内板
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宇都宮城址


1868年4月19日、土方率いる旧幕府軍は、新政府軍が入っていた宇都宮城を攻撃した。未明、土方は簗瀬村方面から攻め入って激戦を展開、午後には城を攻略した。しかしながら、そのわずか4日後、宇都宮城は、大挙して攻めてきた新政府軍に奪回されてしまうのである。

発見難易度 ☆☆☆☆☆
宇都宮城は戊辰戦争で焼失しているため、現在は復元計画が進行中。土塁や櫓などが復元されていました。宇都宮城は、戊辰戦争の時よりも、江戸初期の釣天井事件のほうが有名なんですよね。


土塁の中には展示施設とエレベータが。
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簗瀬橋


宇都宮城攻撃の際、土方歳三はこの簗瀬橋から攻め込んだ。宇都宮藩軍が城内に撤退する際、田川にかかるこの橋を破壊しなかったのである。
戦闘中、臆して敵前逃亡しようとした旧幕府軍の兵士を、土方が「退却するものは誰でもこうだ」と言って斬り捨てたのは有名。


発見難易度 ★★★☆☆
簗瀬大橋ではありませんよ。一本細い道に入った簗瀬橋です。


田川の標示
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六道辻


宇都宮と栃木を結ぶ街道の要所。宇都宮城を奪回すべく攻め込んできた新政府軍を、新選組が迎え撃ったが、激戦の末に敗退。
この六道辻には旧幕府軍戦死者達の墓がある。

発見難易度 ★★☆☆☆
三差路の交差点にあります。新政府軍の戦死者が近くの寺に葬られたのに対し、旧幕府軍の遺体は「賊軍」として放置。見かねた近所の人が埋葬し、宇都宮藩士が墓を建てたそうです。

 
戊辰役戦士墓          碑文
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二荒山神社


宇都宮城奪回すべく、六道辻を突破してきた新政府軍に対し、土方歳三は桑名藩兵を従え、この二荒山神社に布陣した。開戦後、土方は援軍要請を請け、宇都宮城に向かうが、そこでの防戦中、足に被弾することになる。

発見難易度 ★☆☆☆☆
源頼朝・義経も信仰を寄せた、由緒ある神社だそうです。「宇都宮」の語源とする説もあり、「(下野)一の宮(いちのみや)」→「うつのみや」となったそうです。
なお、神社はすぐにわかるのですが、駐車場をちょっと探しました。
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土方歳三負傷の地


二荒山神社に布陣した土方は、宇都宮城からの援軍要請を請け入城、その攻防戦の際、城の南側の竹林で被弾したとされている。負傷した土方は、宇都宮北西の今市へと後送されることになる。

発見難易度 ★★★★★
宇都宮城内の展示を見ていた際、展示資料の中に、地元の人による「宇都宮城攻防戦」の記事があり、土方歳三が被弾したとされる竹林の場所付近の写真が掲載されていました。その写真と付近の住所を手掛かりに、たぶんこの辺じゃないかと勝手に推測(笑)。
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今市本陣跡


慶応4年4月23日、宇都宮城の攻防戦で足に被弾をした土方歳三は、今市の仮本陣に送られた。翌日、簗瀬橋で斬殺してしまった味方兵士の供養を依頼した後、土方は会津へと向かった。


発見難易度 ★★★☆☆
現在、関東つくば銀行・今市支店。まず史跡だとは思いませんね(笑)。
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