ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

榎本博明『教育現場は困ってる 薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)

2023年08月02日 00時00分00秒 | 本と雑誌

 タイトルに示したのは、先日、地元で購入した本です。私も大学の教育現場におりますので「そうだよなあ」と思いつつ読んでいました。

 この本で強調されているのが日本語の読解力不足であり、会話偏重の英語の授業です。私は第二外国語の非必修化も懸念すべき事柄であると考えていますが、読解力不足は常に感じており、とくに期末試験の採点の時期に頭痛と腹痛が同時に発生しかねないほどに痛感するのです。アクティブ・ラーニングなどと言われますが、基本が根付いていないのにアクティブ・ラーニングなど無理だと思っているのです。それだけに、榎本氏が「まずは多様な知識の吸収に徹することが大切だ。体系化など考えずに、バラバラでもいいから吸収する。バラバラな方が、後で自由自在に結びつけることができる」と書かれていることには同感せざるをえません。このことは、演習(ゼミ)をやるとすぐにわかります。報告の大前提である知識の吸収ができていないので、演習の報告ができていない訳です。いや、書き方が悪いかもしれませんが、演習(ゼミ)が成立しない場合が少なくありません。

 今回取り上げた榎本氏の本を読んでいて思い出したのが、J.S.ミルの講演です。まともな教育関係者なら、この講演を読んで日本の現状について憂慮せざるをえないはずです。私は、「地域における大学の振興及び若者の雇用機会の創出による若者の就学及び就業の促進に関する法律(平成30年6月1日法律第37号)」という論文において、次のように記しました(原文の脚注は本文に組み込みました)。

 

 ジョン・ステュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-73)は、1867年2月1日のセン ト・アンドリューズ大学名誉学長就任演説において「大学は職業教育の場ではありません。大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的とはしていないのです。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります」と述べている〈ジョン・ステュアート・ミル(竹内一誠訳)『大学教育について』(岩波文庫、2011年)12頁〉。

 学校教育を受けたことがなく、大学教員としての経歴もない彼が大学の役割をこのように理解し、表明したことは、彼が幼少時に受けた英才教育、『論理学体系』(A System of Logic, Ratiocinative and Inductive, 1843)、『経済学原理』(Principle of Political Economy, 1848)、『自由論』(On Liberty, 1859)などの古典を著してきたという経歴に由来するものであるにしても、驚嘆すべき事実であり、その慧眼に感嘆せざるをえない。かように高邁な思想は、現代の世界ではもはや通用しないのかもしれないが、こと日本においてはそれが顕著である。竹内洋氏は「いまや大学改革のキーワードが『アカウンタビリティ』(説明責任)や『ステークホルダー』(利害関係者)などの市場経済用語になっているように、大学時代がビジネス文化に侵食されはじめている。覆いつくさんばかりの『商業精神』(ビジネス文明)の自浄作用を担うのは教養教育をおいてほかにないはずである」と指摘する〈ミル(竹内訳)・前掲書173頁〔竹内洋氏による「【解説】教養ある公共知識人の体現者J.S.ミル」〕〉。

 

 榎本氏も実学偏重に危機感を示しています。これは榎本氏に限らず、大学の講義や演習を担当したことのある者の多くにも共有されていることでしょう。「法律学は実学だろう?」と言われるかもしれませんが、実際に学んでみると、例えば社会科であれば政治、経済はもとより、倫理、地理、歴史についての知識も必要であることがすぐにわかります。分野によっては他の知識も必要になります。教養がなければ薄っぺらい、いや、使い物にならない実学にしかなりません。このように書くのは、私自身が、これまでに身につけてきた教養の薄さを悟っているからです。

 このことは、COVID-19で明らかになったのではないでしょうか。日本の製薬会社は、結局、2020年にワクチンを作り出すことができなかったのです。勿論、歴史的経緯があることを否定する訳ではありませんが、理系の分野でも実学偏重があり、基礎科学が疎かにされてきたためでもあります(そのほうが重いでしょう)。私の前掲論文から引用させていただくならば「大学が高等教育機関としての使命を果たすことよりも、時の政権や経済界の意向に振り回され、産業競争力の強化のための駒に堕するようでは(科学)研究力が低下するのも当然である」のです。

 もう一つだけ記せば、「失われた30年」などと言われ、ITについては後進国ともなることとなった日本の長期低落傾向は、このブログで何度か記し、安藤忠雄氏も口にした成功は失敗のもと」を実証しているように思われます。記憶が定かではありませんが、たしか、野村克也氏は、成功に必然はなく、失敗に偶然はないという意味のことを言われていました。これも、「失敗は成功のもと」よりも「成功は失敗のもと」のほうが妥当性が強いことを示していないでしょうか。野村氏はそのことを理解されていたように思われます。

 私が「成功は失敗のもと」と繰り返しているのは、20世紀後半の高度経済成長の最中に生まれ、1980年代後半のバブル景気とバブル崩壊、そして1990年代以降の「夢をもう一度」を体験しているからです。高度経済成長は、日本を豊かにしましたが、同時に日本の謙虚さなどを失わせたりしたのです。歴史を紐解くと、国の最盛期と言われる時代に衰退の原因の多くがつくられていることもわかります。平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」は、その直後に中国史の現実が端的に指摘されていることにより、名文であり名言である訳であるのでしょう。


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3 コメント

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最近思ったこと (ボッケニャンドリ)
2023-08-02 22:09:37
30年前、Windows95 が出た時に日本でもビル・ゲイツのような人がなんて言われてました。
それから15年、インドにソフトウェア開発を依頼するようになりました。
そしてまた15年、世界のIT企業のトップにインド人が沢山居るではないですか。
北朝鮮は子供の頃からソフトウェアの教育をしたお陰で銀行などをハッキングしてミサイル開発。

一方日本はというと大学を出てもそれに見合う仕事が無いから大学に行っても無駄だなんて言う識者。
良い会社に入いる前提な発想が悲しいです。

一番悲しいのはいまだにマスクを信じてかけ続けているのに疑問や矛盾を持たないということです。
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そうですね (川崎高津公法研究所長)
2023-08-02 23:56:30
Windows95の大騒ぎはよく覚えています。当時、私は大学院生でしたし、本当はMacが欲しかったものの、Windows3.1→Windows95と使ってきましたから。その当時もMac89(だったかな?)などと言われていました。
それはともあれ、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニアックといった人たちが、日本に登場しなかったのは当然だったのかもしれません。
1990年代も現在も、日本では学校教育が実社会に役立たないなどと言われています。それが本当だったのかどうか、じっくり検証してみる必要があるとは思っています。
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ついでに (川崎高津公法研究所長)
2023-08-02 23:58:52
Windows95の立ち上げの時のサウンドを作ったのはブライアン・イーノです。それについて、意外に知られていない事実らしいのですが、彼はMacであの印象的な曲を作ったとのことです。
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