ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

大牟田駅から新栄町まで歩く(2007年9月8日)その2

2014年11月11日 10時48分29秒 | 旅行記

 (以下は、第235回「大牟田駅から新栄町まで歩く(その2)」として、2007年10月28日に掲載したものです。)

 

 本筋に入る前に、前回取り上げた大牟田松屋の跡地について売却先が決定されたという情報が入りましたので、ここで紹介しましょう。

 2007年10月23日の西日本新聞朝刊福岡版に「大牟田の松屋跡地売却 柳川の建設会社に 利用計画は未定」という記事が掲載されました。私は、毎日のように同新聞のホームページをチェックしておりまして、この記事もホームページで参照しています(本来であれば、手許に朝刊を置いた上で記したいのですが、福岡県に住んでいない以上、難しいことです)。

 大牟田松屋が2004年7月に閉店し、同年8月に破産宣告を受けて以来、跡地の売却先が問題となっていました。当初は地元の業者が買収する計画を立てていたそうですが、結局立ち消えとなりました。昨年には宮崎県の宅建業者が複合商業ビル建設の計画を進めていたようですが、これも事業実施業者が決まらず、座礁した形となっていました。結局、柳川市の土木建設会社が売却先と決まりました。今年の春からその土木建設会社と交渉が進められており、地権者および抵当権者の全員から同意が得られたことで、10月22日に売却手続が行われた、とのことです。なお、具体的なことはまだ決まっていないようですが、建物を解体した上で新たな計画を進めるという意向も示されています。

 このまま、大牟田松屋の跡を手付かずのままに放置しておく訳には行かないでしょう。既に3年も経っているのですから。何はともあれ、売却先が決まってよかったと思います。大牟田の中心地が再生されるようなプロジェクトの完成を期待したいところです。

 

 さて本題、大牟田駅から新栄町駅まで、大牟田市の中心街を歩き回るという旅(?)の続きです。大牟田松屋の跡を離れると、一旦、アーケードが途切れます。大牟田川を渡り、いよいよ新栄町に入っていきますが、川を渡る前に、ここを取り上げておかなければなりません。

 松屋の跡から程なくして、新銀座という名前の小さな商店街が見えてきました。以前このコーナーに掲載した飯塚駅前の商店街にも似ていますが、私がすぐに思い出したのは、先日の火事で半分ほどが焼けてしまった溝の口駅西口商店街です。福岡市であれば、薬院駅から渡辺通を越え、春吉の南のほうに行くと、このような構造の商店街がありますが、もう少し道幅が広くなっています。「昔はこんな商店街をよく見たもんだよ」とおっしゃられる方もおられるはずです。

 もう11時を過ぎています。そろそろ開店していてもよいはずですが、数件の店を除けばシャッターが閉まっています。単に店休日であるという店もあるでしょうが、看板が剥げ落ちていたりするところもあります。ここをまっすぐ進むと、JR鹿児島本線と西鉄天神大牟田線のそばに出ます。

 「こんなところばかり紹介して、何が面白いんだ?」と思われる方もおられるでしょう。面白がっている訳ではありません。むしろ、私は、職業柄と言えばよいのでしょうか、「各地が抱えている問題をこの眼で見ておかなければならない」という感覚(あるいは意識)を持っているのです。行政法、租税法、財政法を専攻していますから、地方自治、地域づくり、町おこし、まちづくり、などという言葉を扱いますし、これらに関する研究などを行っています。だからこそ、見ておく必要があります。地に足が着いていなければ、どうしようもないのです。また、九州に愛着があるから、とも言えるかもしれません。

 これまで、集中講義の機会を捉えて、福岡県内であれば北九州市八幡西区の黒崎駅前、福岡市博多区の川端商店街、直方市、飯塚市、田川市などを歩き、工業や鉱業、そして地元の商業が衰退した地域の現状を見て、今後、一体どうすればよいのであろうかということを考えているのです(工業、とくに町工場などの中小企業の衰退という点では、川崎市や東京都大田区も共通しています)。いずれは、何らかの形で私の研究成果にしたいと思っています。勿論、こうした地域に還元されるような形のものです。

 私は、アーケード街、道幅の狭い商店街などが近い場所で生まれ育ちました。幼い頃は親に連れられて、少し成長すれば親から頼まれた買い物をするために、近所にあるこうした商店街に何度となく足を運んでいました。私がなじんでいるのは、物価が安 くて活気のある商店街という点では川崎市内の御三家と言える元住吉、新城および溝口、といった所ですが、さらに武蔵小杉、川崎駅東口、鹿島田、新丸子、二子新地などにも行きました。商店街は、単に買い物の場所であるだけでなく、遊び場所でもありました。そして、何よりもコミュニケーションの場であったのです。しかし、今はどうでしょうか。

 集中講義を終えて川崎に帰り、次の日に駒込の商店街を歩きました。桜の一種、染井吉野の原産地までの、道幅の狭い商店街を歩き、一種独特の温かい雰囲気を感じました。幸いというべきか、東京にはこういう商店街がいくつもあります。しかし、首都圏でもこうしたところが少なくなっているのです。

 いつの間にか、大牟田から完全に離れてしまいました。大牟田に戻りましょう。

 大牟田川の堤防に、こんな絵が飾られていました。ここが炭鉱地帯であったことを知らしめる絵です。大牟田の炭鉱電車(機関車)には歴史的価値があるほどの古いものが多かったそうで、私も見ておきたかったのですが、残念ながらかなわないままに終わりました。

 

 或る本で読んだのですが、炭鉱などの鉱山と鉄道とは、切っても切れない関係にあります。現在は鉱山鉄道の多くが消滅していますが、20世紀にはこの日本の至る所に鉱山があり、トロッコなどが活躍していました。炭鉱が多かった福岡県や長崎県も例外ではありません。重い鉱石を地下から地上まで運ぶのには、線路、およびその線路の上を走る車両を使うのが最も効率的でしょう。条件さえ整えられるならば、大量の物資および人員を効率よく運ぶには、海上ならば船舶、陸上ならば鉄道が最適です。自家用車をはじめとした自動車は、効率という点では劣ります。貨物輸送という点では飛行機も鉄道や船舶に劣るでしょう。

 鉄道の起源については様々な見解がありうると思うのですが、日本の鉄道の発祥は、1872(明治5)年10月14日に開業した新橋(現在の汐留)~横浜(現在の桜木町)ではないということは、既に公知の事実に属します。新橋~横浜は旅客営業の始まりに過ぎず、1869(明治2)年には北海道の茅沼炭鉱で、牛を動力とした鉄道が、わずか2.2キロメートルとはいえ、運行を開始していたのでした。また、同じ明治2年に、兵庫県の生野銀山で、人力による運行を開始しています〔いずれも、岡本憲之『全国鉱山鉄道』(2001年、JTB)によります〕。そればかりか、試運転ではあれ日本で最初に蒸気機関車が走ったのは、1865(慶応元)年4月12日、トーマス・G・グラバーが持ち込んだ蒸気機関車が長崎市の大浦地区、現在の長崎電気軌道の市民病院前~大浦海岸通に相当する区間で走ったということです〔宮脇俊三編『鉄道廃線跡を歩くⅩ』(2003年、JTB)199頁(白川淳氏担当)によります〕。九州は、歴史的に、世界の先端的な文化を取り入れる玄関のような場所でしたが、交通に関してもその役割を果たしていたことになります。

 「ビルの壁を変な動物がよじ登っている」。勿論、本物の動物ではありません。大牟田川沿いのビルで見かけました。キングコングをイメージしたものでしょうか。私がまだ高校生の頃に六本木で見たハード・ロック・カフェを思い出しました。そう言えば、WAVEが閉店してから一度も六本木を歩いていないのですが、ハード・ロック・カフェはまだあるのでしょうか。入ったことがないのですが。

 六本木のハード・ロック・カフェにあったキングコング(?)は、片手を宙に浮かせているような格好でしたので、どのような顔なのかもよくわかったのですが、こちら大牟田のほうは、ビルに近づかないと顔つきなどがわかりません。ただ、このようなオブジェは目立ちますし、わかりやすいので、よい宣伝効果を期待できるでしょう。

 もう一枚、大牟田川の堤防に飾られていた絵です。これは、大牟田地域に伝わる昔話のようです。少しばかり調べたのですが、どうやら、大蛇にさらわれた玉姫が蟹に救われた、というお話のようです。その大蛇と蟹が戦うということですが、詳しいことはよくわかりません。

 私は、幼少時に日本の昔話をかなり読み聞かされましたし、自分でも読んだりしたのですが、蟹と玉姫の話は覚えていません。当時の昔話集には収録されていなかったのでしょう。

 大牟田川のすぐそばに、時計台を真似たようなデザインのアーチ(?)があります。そして、その両側には大きな、しかもかなり立派な絵が描かれています。実は、これが三井三池炭鉱専用線の跡です。ここにはJR大牟田駅から三池浜までの路線が通っていたようで、先ほどの絵にあるような機関車が石炭を積んだ貨車を牽引してこの高架線を通ったのでしょう。

 三池炭鉱は、大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる大規模な炭鉱でした。そのため、専用線も大牟田市と荒尾市の双方を通っていました。炭鉱の閉山とともに大部分が廃止されましたが、旭町支線は三井化学大牟田工場専用鉄道として現在も残っています。

 それにしても、この絵には驚かされました。かつての東急東横線桜木町駅から高島町駅に向かう線路の下の歩道の壁にも色々な絵が描かれていましたが、それとは比べ物にならないほど立派です。渋谷などのビルの壁やシャッターなどを訳のわからない落書きで汚している連中(もっと悪い言葉を使えば、奴ら)にも、このくらいの絵を描いて欲しいものです(どうせ描けないとは思うけど)。

 これは阿修羅を描いたものでしょうか。いまひとつ、意味がわからないのですが、映画の一コマをモティーフにしたものでしょうか。誰が書いたのか、どのような題なのか、というようなことを解説してくれればよいのですが、案内板などは一切ありません。もっとも、いちいち解説をつけるのも野暮な話ではあるでしょう。

 こういう写真をこのコーナーで掲載するのは、今回が初めてです。掲載するかしないかで迷ったのですが、この写真だけ掲載しないというのも変なので、敢えて掲載しました。多分、何かの雑誌(たとえばPLAYBOYやPENTHOUSEというような雑誌)に掲載された写真を基にしているのだろうと思います。ここにある4枚の絵の中では、或る意味で一番わかりやすいものです。ただ、このような絵を見て、女性はどのように思うのだろうか、と考えてしまいました。

この絵も、いまひとつ意味がわかりません。子どもに重心があるのであろうと思うのですが、何かに連れられて不思議な世界にやってきた、ということなのでしょうか。

 この絵が、私にとっては一番、意味のよくわからないものです。左のほうには、おそらく鳥が描かれているのでしょう。鳥とは言っても実在の種類ではなく、想像上のものでしょうが、これが何をしているのでしょうか。作者のイメージをそのまま絵にしたということなのかもしれません。


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