ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2006年9月4日、直方を歩く

2013年07月06日 08時59分26秒 | 旅行記

 〔以下は、「待合室」の第207回「直方を歩く」(2007年3月13日~19日掲載)を修正したものです。写真撮影日は2006年9月4日です。〕

 1997年3月まで、私にとって、九州は遠く、縁のない土地でした。そもそも足を踏み入れたことすらなかったのです。しかし、講師として大学教員の生活を始めた1997年4月から2004年3月まで、九州の東部、大分県に住みました。大分県を離れてからも、2004年度から2012年度まで、毎年1回、1週間強ほどの期間に、福岡市に滞在するほどになりました(2007年度、2009年度および2011年度には、福岡大学での集中講義も担当しました)。

 その一方、2004年12月、平松学園での集中講義のため、5日ほどですが大分市に滞在しましたが、次に大分市を訪れたのは2009年の秋でした。2007年9月4日に日田市内を歩きましたが、これも4年ぶりのことでした。

 以前にも書きましたが、私は、夜の街を飲み歩くよりも、ローカル線の列車に乗ったり、自分で車を運転したりしながら、色々な場所をまわることを好みます。必ずと言ってよいほど、何らかの発見があるからです。

 考えてみれば、集中講義の期間中、とくに中休みの日には、列車に乗って色々な所をまわっています。

 2004年には、毎晩のように今泉のネットカフェに入り浸っていましたが、天神から地下鉄空港線に乗り、そのまま筑肥線に入り、西唐津まで行きました。その上で藤崎、高宮、大橋に行きました。次の日には天神から須崎公園、奈良町、川端町を経由して博多駅まで歩き、博多駅から鹿児島本線と香椎線を乗り継いで西戸崎へ行き、香椎線に乗って宇美八幡宮へ行 きました。

 2005年は、台風14号のため、私の福岡入りが遅れてました。また、大分大学時代のゼミ生たちと会うことになっていました(2004年度は台風のために中止になりました)。そのためもあって、福岡市内と春日市(西鉄春日原駅付近)、筑紫野市(西鉄二日市駅付近)をまわるだけでした。

 2006年は、早めに福岡入りし、筑豊地区をまわり、柳川を歩き回りました。ダイヤの関係などもあって、日田彦山線の田川後藤寺~夜明を利用することができなかったのが残念でした。利用できていれば、久しぶりに日田へ行こうと思っていたのです。それでも、9月3日には宮地岳線に乗って津屋崎まで行き、博多に出てから小倉、田川、飯塚をまわりました。4日には、大橋から博多南駅に出て、そこから田川、直方、黒崎などをまわりました。

 9月4日、田川後藤寺駅から平成筑豊鉄道の糸田線と伊田線を乗り継ぎ、直方にやってきました。 旧国鉄の伊田線、田川線および糸田線を引き継いだ平成筑豊鉄道には、有人駅が非常に少ないのですが、その数少ない有人駅の一つが直方駅です。JR筑豊本線の直方駅とつながっているのですが、駅舎は別です。

 直方を初めて訪れたのは2000年6月24日のことで、大分から特急に乗って折尾で降り、西鉄北九州線(2000年11月25日限りで廃止)と筑豊電気鉄道を乗り継いで筑豊直方駅に出ました。市の中心部から離れた所にあります。筑豊直方駅からJR直方駅までは少し離れていて、しかも道案内などが全く体をなしていないため、非常にわかりにくく、JR新入駅に出てしまったのでした。次に訪れたのは2003年6月のことで、その時は大分から特急に乗って行橋に出て、平成筑豊鉄道の田川線と伊田線を乗り継ぎました。かなり強い雨が降っていたことを覚えています。駅を降りて商店街を歩いたのですが、土曜日の正午、人通りは少なく、シャッターが閉まっている店ばかりでした。

 それから3年3か月ぶりに直方駅を利用しましたが、あまり変わっていないようです。直方と言えば、今では大関魁皇の出身地として知られていますが(実際、直方~博多に特急かいおう号が走っています)、元々、飯塚、田川、山田などとともに筑豊炭鉱群の都市として繁栄した所でした。しかし、相次ぐ炭鉱の閉山によって廃れたのです。炭鉱のために建設されたローカル線も次々に廃止されました(平成筑豊鉄道も、元はと言えば国鉄ローカル線でした)。

 こちらがJR九州の直方駅です。筑豊本線の主要駅でもあるので、かなり立派な駅舎です。 筑豊本線は、炭鉱地帯を縦断する重要な路線でしたので、起点の若松から飯塚までは非電化ながら複線で、かつてはその中に複々線の区間もあり、本線の名に相応しい路線でした。しかし、炭鉱が次々に閉山となったことにより、ローカル線に転落しただけでなく、支線も次々に廃止されました。特急や急行も廃止されるか、博多を通る鹿児島本線経由に変更されており、現在では幹線ではなく、地方交通線に位置づけられています。電化も遅く、折尾から桂川まで電化されたのは21世紀になってからでした。桂川から分岐する篠栗線(こちらは単線ですが幹線です)が開通しなければ、電化されることもなく、完全なローカル線となっていたことでしょう。なお、若松から折尾までは複線ですが現在も非電化、飯塚から桂川までは電化されていますが単線、桂川から原田までは非電化単線です(しかも、1両だけのワンマン気動車が7往復するだけです)。

 直方駅前から伸びるアーケードの商店街を歩き、直方市役所などの方に向かいます。写真を撮ったのですが、データを保存していた外付けハードディスクがトラブルを起こし、何枚かの写真のデータが飛んでしまいました。

 直方市役所から歩き、筑豊直方駅へ出ようとしたのですが、案内板にはJR直方駅しか示されておらず、わからないままに「たしか遠賀川に沿った道の近くだから」と歩き続けました。JR直方駅前から伸びる道路の津田町の交差点付近から北のほうにもアーケード商店街が伸びていたので歩きましたが、大分大学時代に歩いた大分県中津市新博多町を歩いた時以来の衝撃を受けました。

 全国的に、アーケード商店街は衰退の一途をたどっており、多くの店が閉まっています。この商店街も、そのような点では同じですが、空き地が目立っていました。この何時間かほど前に田川後藤寺駅前を歩き(いつか取り上げようと思っています)、やはり閑散とした商店街にも驚きましたが、この商店街ほどではなかったのでした。平日の夕方、買い物時なのですが、歩いている人はいません。

 北端に近い場所からJR直方駅方面を撮影してみました。左側に写っている派手な看板はパチンコ屋なのですが、閉まっていました。中には、今から店舗を再開しようにもできないであろうと思える所もありました。南側のアーケード商店街も、シャッターは目立っていますが、人通りはあります。

 

 先ほどの商店街の北端を通り過ぎ、ようやく、筑豊直方駅に出られました。

 この筑豊直方駅は高架線上にありますが、左側を見ると、いかにも建設の途中であるかのようです。実は、第二次世界大戦後、西鉄が現在の北九州市から博多駅までの鉄道路線建設を計画しており、それを実現するために筑豊電気鉄道を設立したのです。実際に建設を進め、当時の西鉄北九州線熊西駅からこの筑豊直方駅までが開業しました。しかし、ここから先は、炭鉱の衰退などのため、建設されずに終わりました。

 筑豊直方駅とありますが、無人駅です。ほとんどの駅には駅員がおりませんので、車内で整理券を取り、降りるときに運賃を支払います。以前この駅に来た時には、ここからJR直方駅までの道筋などに関する案内板が一切ないために、上の写真で言えば手前から奥のほうに歩き、JR新入駅まで行きました。新入駅のすぐそばに、JRの車庫があります。

筑豊直方駅から直方市街地を撮影してみました。この写真だけでは、直方の様子がいまひとつわからないかもしれません。高層建築物は、街の様子をわかりにくくする存在であるのでしょうか。

 黒崎駅前行の電車が来ました。これに乗り、終点の黒崎駅前まで行きます。2両連接車で、見かけは新しいのですが釣り掛け駆動で、スピードが出るとかなり激しく揺れます。途中からであったか、女性の車掌さんが乗務していました。

 この後、黒崎に到着したら強い雨が降っていたので、駅前のアーケード商店街を歩きました。しかし、やはり衰退しています。先日、或る新聞の記事で、黒崎駅前の商店街がアーケードを撤去する方針を決めた、ということを知りました。再び活性化することを祈るばかりです。


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1 コメント

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 わたしが北九州八幡にいたころの国鉄は、若松、... (白蛾)
2013-07-11 23:53:32
 人口百万を切って久しい北九州の衰退は産業構造の変化ばかりではないような気がするのです。鉄鋼や石炭で発展した街には、豊かな文化と民度が作り上げたコミュニティーがありました。バブル以後衰退しつつあるのは、東京の縮尺をすべてにあてはめるなんの論拠もない数字上の優劣にこだわるためではないでしょうか? 当然に、街づくりの指針とするモデルにも、首都圏目線の理想では無理がまかりとおることを考慮もしない無謀さを疑いもせずに、鵜のみにするのが原因だと思えるのです。
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