ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

飯塚駅周辺を歩く

2013年07月13日 08時41分57秒 | 旅行記

2006年9月3日、新飯塚駅から筑豊本線に乗りました。終点の原田駅まで乗ろうと思ったのですが、桂川での接続が悪かったので、飯塚駅を訪れてみました。

 日曜日の夕方の飯塚駅です。飯塚市の中心部は、筑豊本線と後藤寺線との接続駅である新飯塚駅のほうが近いのですが、私は飯塚駅で降りました。 曜日のためなのか、時間帯のためなのか、それとも地域のためなのか、乗降客は少なく、人通りも少ないのが印象的でした。客待ちのタクシーが何台か止まっていましたが、私がこの駅を降りた時には、タクシーに乗り込んだ客はいなかったと記憶しています。

 飯塚駅は、福岡県内にある有人駅らしく、自動改札機が設置されています。ここから、筑豊本線・篠栗線経由で博多まで1時間足らずで行けますから、通勤圏内である、ということなのでしょう。

 筑豊本線は、若松から原田までの路線で、若松からこの飯塚までは複線です。元々は、原田ではなく、上山田を終点としていました。後に飯塚~上山田は上山田線となりましたが、1980年代に廃止されています。筑豊本線は、直方、飯塚などの炭鉱地帯を走ることもあって、複線化は鹿児島本線より早く行われました。一部区間では複々線化されていたほどでしたし、寝台特急も走ってました(博多を通らない特急列車があったのです)。しかし、石炭産業の斜陽化などにより、筑豊本線はローカル線に転落しました。事実、電化は遅れ、折尾~桂川が電化されたのはつい最近のことです。それとともに、実質的には若松~折尾が若松線、折尾~桂川が福北ゆたか線、桂川~原田が原田線と分割されており、若松線と原田線は非電化のまま、原田線は1日にたったの7往復という寂しい路線になりました。本線とは名ばかりですが、九州では久大本線、豊肥本線も同様に扱われています。

 この飯塚駅も、炭鉱地帯にある駅として栄えていました。その痕跡が駅構内にあります。駅の東側は、線路こそほとんど取り払われていますが、上山田線が到着していたと思われる場所、そして、石炭を満載した専用の貨車などが停まっていたと思われる場所が、広々と残っています。

 写真の奥には、近畿大学九州短期大学の校舎も見えます 。こちら側にも改札口を設ければ便利だと思うのですが、そうなっていません。JR九州の場合、よほど大きな駅か高架駅でなければ、改札口は1箇所だけという駅が多いようです。橋上駅舎もあまりみかけません。

 駅前通りを歩きましたが、人通りはほとんどありません。多くの店が閉まっています。この風景自体は、割に「ありきたり」であると思うのですが、買い物客もいなければ、通りすがりの人もいません。時折、車やバイクが通るくらいでした。まだ日が暮れていないのに、京浜地区の深夜よりも静かです。炭鉱全盛期には、このあたりも相当の人通りがあったのだろう、と想像しながら歩いていましたが、そうなるとわびしさを覚えます。

飯塚駅前のロータリーです。駐車場がありますが、平日には車が多いのでしょうか。パークアンドライドを推進するにしても、これでは厳しいでしょうか。

 持っていたデジタルカメラのせいか、猫の目が黄色く光っています。この右側のほうに店があり、そこに別の猫(おそらく子猫)がいて、やかましいくらいに鳴いていました。この写真の猫も鳴きながら歩いていて、その店の中に入りたがっていたようなのですが、果たして、入ることはできたのでしょうか。

 溝の口西口商店街を思い出させるような商店街ですが、似ているのは通りの狭さと、簡易型アーケードと言えるような屋根がついていることくらいでしょうか。溝の口西口商店街は、最近の再開発によって短くなってしまいましたが、買い物客など、通行人が多い所です。しかし、こちら、飯塚の新天街商店街は、夕暮れ時とは言え、不気味な暗さでした。

 入口にある文房具屋は開いていましたが、残りの店は全て閉まっていました。日曜日ですので、店休日なのかもしれません。それにしても、ここまで暗いと驚きます。私が知る限りでは、他に中津市新博多町くらいしか思い当たりません。好奇心もあって、新天街商店街という、この短い商店街(奥で左に曲がっていて、すぐに公道に出ます)を歩きましたが、他に歩いていたのは一人だけでした。

 先ほどの写真の所から歩き続け、商店街の出口にたどり着きました。数件の店が開いていましたが、商店街の入口・出口に近い店だけです。それに、人通りがありません。18時頃で、私にとって、夕食をとるのに早過ぎる時間です。

 この商店街を歩いて、もう一箇所、思い出した所がありました。川崎市の某所にあった、南武百貨店というところです。新天街商店街と構造がよく似ていました。既に消滅しています。もう20年くらい前のことでしょうか。

 川崎市の某所のほうには南武百貨店という名前がついていましたが、大都市にある百貨店とは異なります。小売市場と言えばよいのでしょうか、一つの建物の中に雑貨屋、魚屋、肉屋などが入っていて、それぞれの店は独立していました。二本の通りがあり、コの字のような形になっていました。私の高校生時代までは、川崎市にこのような店がたくさんありました。溝の口駅の近くにも、ヤストモ、溝口百貨店などがあったのです。

 この日に訪れた新天街商店街も、暗く、ほとんどの店が閉まっていて、人通りもほとんどなかったのですが、南武百貨店の末期がまさにそうでした。入口のほうにあった雑貨屋だけが残っていました。

 こうして歩いていると、行政法学専攻者の悲しい性と言うべきか、中心街空洞化問題などを思い浮かべます。飯塚市は、大分大学時代にも何度か通っていますが、実際に歩いたのは今年9月3日が初めてのことです。新飯塚駅周辺と比べてみなければよくわからないのですが、やはり、炭鉱という一つの産業がなくなった影響はあまりに大きいような気もします。直方や田川を歩いて思ったことです。しかし、このまま崩壊させてよいものでしょうか。

 日本は、歴史的にみても、中心だけが肥大化し、その他は疲弊するという伝統に恵まれています(変な表現ですが、意図的にそうしています)。現在、格差社会云々と言われています。先日、格差社会云々と騒ぐのは馬鹿である(この馬鹿には、当然、学者が入っています)という論者の主張を見ましたが、この人は地方の現状などを全く知らないのでしょう。データをよく読むのは当然として、こうして、九州でも北海道でもどこでもよいから、実際に歩いてみればよいのです。格差社会は、単に人の間の所得の格差だけではなく、一極集中など、地域間格差なども含む表現なのです(今年の集中講義期間中、福岡県内のいくつかの場所を歩いてみて、改めて理解したことです)。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 後期担当講義の教室変更 | トップ | 国学院大学法学部「行政法Ⅰ」... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
飯塚市の中心部は旧街道沿いにあります。駅周辺と... ()
2013-07-24 23:28:33
自動車社会の地方都市では町の中心は駅ではなくバスターミナルです。
東京人の感覚で駅周辺こそが都市の中心だと思い込むのは止めた方が良いと思いますよ。
返信する
閉山後の生まれです (飯塚出身)
2016-03-20 13:18:45
飯塚駅周辺はバブル崩壊後も賑わっていましたよ。
小泉政権と中央の「外資系」が個人商店を疲弊・息の根を止めたのだと感じています。
返信する

コメントを投稿

旅行記」カテゴリの最新記事