今日は安倍ぽんが国会で岡田さんたちに詰め寄られていたらしい。
岡田克也「民主党政権以前の歴代自民党の重荷を背負っての政権運営だった」
安倍晋三「重荷ってなんですか? みなさんが政権とったわけでしょ?」
…だったら、「民主党政権から政権奪還した安倍政権が民主党政権の批判」をする理由がなくなると思うんだが
いやぁ、特徴的だなと思いましたね。安倍の頭の作りは、自説以外に思い浮かべることができない。
多くの場合、国会議員になる人は議論を展開できる能力を持つと想定される。議論とは通常、こんな具合に進展する。
1 本人
2 相手
3 本人
4 相手
5 本人
以下、続く。
こうした対話の中で、自己の主張を相手に呑ませる、納得させるためには3手とか5手目、あるいは難しいなら11とか13とかで、相手が矛盾していることを誘い出すとか、だからこうでしょと真実を暴露するというよりそう考えざるを得ないとなるように落とす。もちろん、逆にやられる場合もある。
いずれの場合でも、相手の主張をくみ取りながら、ものごとを明らかにしようとするわけですね。ですから、たどり着いた真実は、一人のものではなく双方によってなされたものになるわけです。互いに議論の行き着く先はこれしかなかった、となる。
しかし、安倍ぽんは自分の言いたいことしか頭に浮かばないので、こういう対話はとても苦手。
苦手どころかルールがわからない。
だから、仮に、上のような対話が行われ、5で、だから天動説は誤りであると論証されたとしても、された気にならない。一方的に、1に戻って、「だから~、よく聞いてください、お天道さまが昇るんです」、とか言っちゃうタイプ。
率直にいって、議論の場に出て来る資質がない。
ああ面白い。しかし、こういう人が、dialectical、つまり弁証法的な対話が非常に上手なロシアのおじさんたちと話してたんだなと思うと、やりきれない。
え、弁証法? ということはそれはマルクス主義者の戯言のことかと思われるといけないので、と思ってwikiをあてにしたら、いきなり、
弁証法(べんしょうほう、希: διαλεκτική、英: dialectic)とは、哲学の用語であり、現代において使用される場合、ヘーゲルによって定式化された弁証法、及びそれを継承しているマルクスの弁証法を意味することがほとんどである。
とか来て、へええええ???と思ったら、次の次に、
しかし、弁証法という用語が指すものは、哲学史においてヘーゲルの登場よりも古く、ギリシア哲学以来議論されているものであり、この用語を使う哲学者によってその内容は多岐にわたっている。したがって「弁証法=ヘーゲルの弁証法的論理学」としてすべてを理解しようとするのは誤りである。
と、正しいようなへんなような説明が来てた。でも、中身は、ギリシャ、ソクラテス、アリストテレスと追っているのでそっちはいいんじゃないかと思う(詳しく読んでないけど)。
いやそんなに難しい話じゃないと思う。もっと単純にこれが対話のメソッドの基礎の基礎で、別にソクラテスをしらないと出来ないというものでもないと思う。こういうのって、なぜ私たちはこれで納得しているのか、を表明し、かつ整合性をもって叙述しようとすると却ってややこしくなるというだけの話。
とはいえ、でもやっぱり、安倍でいいという日本人にはやっぱり問題はあると言わねばならないとは思う。
つか、安倍でいいのなら、私たちは the West とはまったく切れた、そしておそらくチャイニーズとも切れた、独自系を開発しないとならない。しかし、そこで問題になるのは、それで一体友だちはできるのか、仲間は求められるのか、ではあるまいか。