前に、安倍の次が見えないということが問題だというシリーズを書いていたけど、
ポスト安倍が見えない日本 (8):対処療法は安倍の専売ではない
今回の参院選を終えても、まだ見えないのだなと改めて思った。
ただ、前の頃あったと思しき、清和会的・ネオコン的党(今の自民) とヒラリー的・ブレア的民主党(総称的な民主党)の二大政党制にしてやろうといった計画はおじゃんになりつつあるんじゃないかとは思った。
つまり、ヒラリー的・ブレア的民主党の二軍的あり方が多くの人に気づかれて、お前ら単なる商売野党やろと思われてここが中心になってポスト安倍を狙うとか、もうね~からみたいになってるなと思った。
じゃあポスト安倍が山本太郎なのかというとそれもちょっとまだ未知数じゃなかろうか。また、ここが順調に伸びそうだとなったら、「ヒラリー的・ブレア的民主党」に投資したがってる勢力がどーっと出てくるわけだから、そうするとその山本太郎は今日の太郎とは異なることになるでしょ。これがどうなるのかも問題だわ。
そんな中、白井聡さんの選挙の講評みたいな動画を見た。
「2019参院選後の日本 民意を読む」(3) 白井聡・京都精華大学専任講師 2019.7.31
26分あたりからの、スライドのタイトルが「枝野から太郎へ」となっているあたりのお話が、氏の主張の中心でもあり、今後にとっても重要なところかなと思った。
キーになるコンセプトは、
- 第二自民党としての民主(立憲)に対する失望問題
- 社会的諸関係が腐りきったので無縁を求めた by 安富
- 階級闘争宣言のようなもの
の3つかな。
現在の立憲民主が出来たのは、いわゆる偽の希望事件を超えてで、ここの選別に使われたのが安保法制に反対しない、憲法改正に反対しないというテーマ。
枝野立てという声におされて枝野は立ったわけだが、枝野はその声に答える方向に歩んだのかというとそうじゃないだろう、と。要するに第二自民党を目指した集団としての立憲民主になった。
別の言い方をすれば、民主党には鳩山的、小沢的成分があって、それは要するに、様々な点で、日米安保こそ我が国体とでもいうような自民党から手を切ろう、最低でも別の道を、といった方向性を目指すことだったが、立憲民主はそっちの成分はダメダメだった、と。
このへんは、小林節氏による立憲民主の首脳部に対する「商売野党」批判と同じことをお考えと思った。
ホントの話が漏れ出した日本
白井氏は、天壌無窮の国体とは、昔は天皇を中心とするそれだったが、戦後それはそのままアメリカを中心とする国体に移行しているという説を唱えている方。すなわち現在の私たちは、天壌無窮のアメリカ国体をお支えしているのだ、ということ。
だから、日米安保に疑義を唱えるような奴は、文字通り、天壌無窮の国体に反するもの、すなわち非国民になるんだよ、と。
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国体論 菊と星条旗 (集英社新書) |
白井 聡 | |
集英社 |
そこから見た時、枝野は非国民と指弾されることを恐れたんですかね(笑)。笑いごとでないのはそういえば今年の始め、立憲民主は伊勢神宮に集団参拝してたからなぁ。そういうエッセンスが好きなんでしょう。
さて次。社会的諸関係が腐りきったので無縁を求めた by 安富
これは安富歩さんがれいわ新選組について語った言葉からの展開部分。
安富さんはこんなことをおっしゃったそうだ。動画41分のところの画面からタイプしてみる。
れいわ新選組は、左派ポピュリスト政党、などではない。それはそもそも「政党」ではなく、「左派」でもなく、「ポピュリスト」でもない。れいわ新選組は、無縁者の集まりであり、その無縁のエネルギーが、ガチガチに固まって人間を閉塞させている有縁の世界に、風穴を開けつつある。人々の支持を集めているのは、その風穴から、空気が吹き込んでおり、息ができるようになったからだ、と私は考えている。
白井さんはこれを、無縁を自由の原理として見立てる網野善彦の話からの着想だろうと受けて、次のように語る。
自由だ自由だと言ったって人間そんなに自由には生きてない。様々なしがらみ、マルクス的にいえば社会的諸関係の中に生きてる。それが縁。そして、それが心地よいものだったら人生は楽しいが、腐った社会的諸関係の中に絡み取られていれば、楽しくない。
しかし人間は自由でありたい。であればどうするか。その縁を全部断ち切って無縁になる。網のさんはそれを縁切寺で説明している(縁切り寺に入り込むと世俗法が関与できないことになっていた)。これは社会が自由というのを実体的に担保する機能を持っていたということ。
で、安富さんは、れいわに扱った人たちをこの無縁者と見立てたのだろう、と。
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無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー) |
網野 善彦 | |
平凡社 |
(無縁、有縁というのは今の言葉でいえば、有縁者は体制におけるエスタブリッシュメント、無縁者はそこに入れないマージナルな存在みたいなもの。縁がいっぱいあるからエスタブリッシュメントというのは、well-connected(よく繋がってる)というのが、有力なコネを持ったという意味なのと同じで興味深い)
そして、これを受けて、白井さんは、安富さんの見解をなるほどと思い、しかし、もう少し社会科学的にわかりやすくいうとなんだろうと歩を進め、山本太郎が消費税廃止を訴えるこの図をさして、階級闘争だと思いますよ、とおっしゃる。
山本太郎についてポピュリズムといった語で語る向きが多いが、白井氏はこの語は使わないようにしているともいう。何を意味しているのかその場その場で違ったりするので分析のツールとしてよろしくないだろうとのこと。
で、そんな言い方よりも、これは階級闘争であると見た方が社会科学的に行ってすっきりしてると。
つまり、消費税の税率の上がり方を見てみろ。高額所得者の減税、法人税の減税、つまり、金持ちをますます富ませるために庶民に犠牲を強いただけじゃないか、と。だったらそんなものは廃止だ。これは言ってみれば階級闘争宣言だ。
階級闘争とは何かと、それは現にある支配階級、被支配階級、抑圧階級、被抑圧階級、その関係を断ち切る、作り替える、こういうことです、とおっしゃる。
■ タブーがあるんだな、と
というぐあいに、社会学的、歴史学的考察なんかがあってなかなか盛りだくさんで面白かった。
階級闘争宣言とか言い出した点は、多分、聴衆であるマスコミ関係者には不評だったんじゃないかと思うけど、私は実は違和感を持たなかった。むしろ、こういうことを言う人がそこらにいないという点で、日本というのはどれだけ抑圧された社会なんだかなぁとか思ってた。
だって、白井さんがおっしゃる通り、消費税の成り行きとかみてたら、そりゃもう、class struggleを考えざるを得ないという事態なのに、それをそうだと言えないという点で、やっぱりこの階級闘争というワードはタブーなんだろうななどとも考えていたし、今もいる。
共産党は前から反消費税だし、その人たちが年金問題などを含めて、1% vs 99%の戦いなんです、とか言っているのは知ってる。が、それでも、彼らでさえ、これは階級闘争ですとは言わないんだなと思って、むしろ興味深く思ってた。
さらに、昨今の妙な中国戦い、韓国叩きが示す外向きのナショナリズムというのは、社会内の階級闘争から目を背けるための1つの方策だとも思ってる。
つまり、日本国民 vs 他国、にすると社会内の階層を言う奴は敵を利するだけだ~みたいなことをが言えちゃう。これは、戦争中なんかはマジでそれはあり得るけど、平時でやってるところは異常。
そして、3年前、アメリカでサンダースが絶好調で盛り上がっていた頃、NHKがたいしたことはないです、盛り上がりにかけてますとかいうアホなニュースを流していたことを思い出す。
サンダースに盛り上がりはない by NHK
エスタブリッシュメントNHKはよっぽどこういうの嫌いなんだなと思ったものだった。
パワーを持っているのはウォールストリート、大金持ち、大メディア。しかしアメリカはみんなのもの、労働者、男、女、白人、黒人、ラティーノ、ゲイ、ストレート etc., みんなの政府だ、という入りから既に心をつかむわけですね。
でもって、自由の大切さを訴えるが、しかしその自由を獲得するために財的な基礎がなけりゃ達成できないこともあるでしょと来て、最低賃金をあげろ、何時間も何時間も働いた人がそれでも必要なものを求められない社会はおかしいだろう、になって、教育の重要性を訴え、公立大学の学費は無償にすべきだという話になっていって・・・・という感じ。
しかし、白井聡には忖度マインドはないので、ロジカルに考えるとこうですとあっさり突破していた。
現在の日本の体制を「天壌無窮のアメリカ国体」とか言ってしまう白井聡の地平にタブーなどあるのかと考えてみると笑いがでるといった感じもあるけどね。あははは。
■ 分岐点にあることに気づかない
しかしながら、では白井聡の地平に立つ人が日本で増えるかといったら、私は広がらないんじゃないかと思うな。
むしろ、その前の安富さんの見解が非常に日本的な光景のスケッチとして秀逸だと思う。日本においては、自由を希求する形態は自己が縁を切ることによって達成するようなものしかないのでしょう。マージナルな存在が有縁者たちを皮肉るようなタイプもこの類型。
しかしながら、しかしながら、安富さんの秀逸なスケッチにもかかわらず、近代に限ってみれば、それが歴史的にみる日本式かというと実は違う。
日本は、近代に入ってから、戦前、戦中、戦後をかけて社会保障制度はある程度作られているわけで、それによって年金、健康保険が国家の管掌によってつくられているんだし、諸外国と比べると著しく受給対象人数が少ないらしいけど生活保護の制度もある。あと、忘れられているけど、都営、市営、県営など公営住宅を沢山作って、人々の生活の下支えをしてきたことも実は重要な政策。これができないからアメリカはホームレスとスラム街の国となり、それが故にロシアを含む欧州圏からの尊敬を獲得できない。
つまり、十分ではないにせよ、憲法25条にある通り、生存権保証型に近い社会構造を作ってはいた。完全に保証するとそれは社会主義国の憲法みたいになっちゃうのでできないが(あっちは住まいさせること、仕事させることが国家の義務)、それに近いことをしようという意図はあった。
ここ30年ぐらいでこれが壊れてる、壊れるように誘導されてるって感じじゃないんですかね。
別の言い方をすれば、階級闘争的な問題だぁとか言われると面倒だし怖いから、支配者層は注意深く、生かさず殺さずの仕組みを作ってきたのに、竹中登場あたりから俄然、死ぬ奴は死ねといった新自由主義になってまいりました、って話ですよね。
ということは、かくなる上は階級闘争でござる、というのも庶民の側からの仕掛けとしては良いんじゃないかと思う。
だがしかし、そういうことに多くの人は気づかないんじゃないのかなぁって気がする。
結果、労働法制にしろ、生活保護の仕組みにしろ壊れていって、大部分の人が気づいた頃には修復では済まないことなる。
白井さんは、後半、この能天気さを別の角度から見て、現状の日本社会の「底なし沼のような受動性」という点に着目されているが、これこそ恐るべき病状だよなとかも思う。
ただ、白井さんはこれを日本の異常な対米従属の帰結としているけど、私はこれはアメリカ人たちがいうsheeple現象なんじゃないかと思う。このへんはまた考えよう。
シープルとは、
シープル(英: Sheeple)は、英単語の羊(sheep)と人々(people)を組み合わせて作られた混成語である。群集動物である羊のような人々という意味で、非難や揶揄で用いられる言葉。批判的な分析や調査を行うことなく、他人の示唆を自発的に黙認する人を指す。
かつて本多勝一氏が著書で日本人のことをメダカ民族だと指摘したことを思い出しました。
こうして、日本は東アジアの中で、さらに孤立し、自分で自分の首を絞めていく。
News23で、星浩氏曰く、れいわは、「リベラル、反緊縮」と。まぁ、なんとまぁ雑な分析。
いいですか、街頭演説で、山本太郎は、「このままアメリカの言いなりでいいんですか」と叫んでいたのですよ。これは、一体どういうことですか。
以前、宗純さんのブログで、笑みを浮かべた与野党党首が横並びに手を繋いでいる写真があったのだけど、私は、れいわに投票した有権者には、この永田町仲良しクラブに対する嫌悪、怒りがあったのではないかと思う。だって、与党も野党も、永田町の小さな平和を守ることだけが大事であって、誰も国民のこと見てないでしょ。
根っこが腐ってる。日本。
>れいわ新選組は、左派ポピュリスト政党、などではない。それはそもそも「政党」ではなく、「左派」でもなく、「ポピュリスト」でもない。
神聖ローマ帝国、、、、でしたっけ?