いやいやほんと、日本列島というのは自然災害の多いところだとまたまた思った。バックビルディング型の降水といっていいんだろうと思うけど、雨雲が動かず(というより次から次から形成される)レーダーで真っ赤が同じところにあるという状況は恐ろしい。
鬼怒川の堤防が決壊、水につかった茨城県常総市(航空写真)
http://www.huffingtonpost.jp/2015/09/10/kinugawa-flood_n_8114720.html
決壊カ所がはっきり映ってる。水が落ち着いたまま湖みたいになっちゃっている。悲しい話ですよ、ほんと。その前の、水が流れ込んでくる様も映像で見たけど川の流れが速くて怖かった。
各地の河川氾濫で取り残された方々の無事が一刻も早く確保されることを祈ってます。また避難された方たちがとりあえずちゃんと眠れる状態が確保されるよう関係機関のみなさんが奮闘してくださっているものと信じます。そして、その努力に賞賛をおくりたいと思います。ありがとう!
■ 恐ろしい川を持ってる茨城県
いやしかし、日本の河川は恐ろしい。しかしなんでそうなるのかといえばそりゃ日本列島の8割近くが山で、その上中緯度地帯にある島だから雨が降らないわけもなく、結果的にいったん雨が降ったら水は平地を求めて急流となって降りてきちゃうと。
川はみんな山から下りてくる水が主体なわけで、その水が大量に集まって大きな河川を作って今に至るとしたら、その地にあってのその構造自体は、江戸時代だろうが平安時代だろうが、グローバリストが跋扈する平成時代だろうがあんまり変わらん、ってことでもある。
その意味で、治水って戦争に似てると思う。geography is destiny、地理地形は宿命だ、つまり変えようがない、ってこと。
とはいえ、多少は変えられる部分もあるわけで、その代表例がいわゆる川の付け替えというやつ。利根川東遷事業とか有名ですね。
利根川の付け替えというと、江戸湾に流れていたものを銚子方面に流したところだけを言う人が多いけど、これは実際には北関東全域の問題でもあるでしょう。鬼怒川は、元は今見たいにきれいに利根川に合流するんじゃなくて、現在の印旛沼、手賀沼、霞ヶ浦あたりに流れ込んでいた。で、ここらへんは、今は陸地の中に川や沼があります、って感じだけど、昔は全体として香取海という内海だったと考えられている。
このあたりはもう、とにかく流れ込んでくる水をどうするのかがなかなか大変な場所。ではどうしてそうなるのかといえば、北関東の平野部には分水嶺になるような山がないから、だろうね。
別の言い方をすれば、栃木県西部、茨城県北端部にある山の連なりに降った水はだーっと平野部に流れてくる以外に行きようがない、と。
そういうわけで、茨城県は、鬼怒川、小貝川、那珂川と、なかなか手ごわい川を抱えているが、なんかこういう風に、つまり、山で大雨降ったら大変なことになる土地でっせと考えている人がそう多くはない印象が私にはある。東京に近いのよ、みたいな感じでしか語られないような・・・。
■ 江戸時代以前の布陣
この平野部で有名な豪族といえば、結城氏とか佐竹氏とかを思い出すけど、結城氏の本拠地が栃木県の小山というのは、これは結局氾濫が見込まれる平地からちょっと離れたところ、っていうことだったのだろうかなどと思ったりもする。小・山だしね。
ついでに、佐竹氏なんかは、ここらあたりに平安時代から張り付いてるのに常陸太田という、今行くとなんでこんな山の中?みたいなところが本拠地なんだけど、それも結局阿武隈高地というか八溝山地というかの端っこのちょとした高台みたいなところが安心だったから、ということなのかも。台地って大事なんだよね結局。
北関東は江戸時代以前をみないと何がなんだかわからんところなんだろうと思う。これはどこでもそうだけど、でもここは特別そうだと思う。なぜなら、徳川氏は北関東にとってはニューカマーなので潜在的には危険な地だというのに、江戸を守るためにはこのノッパラを敵に渡すわけにもいかない、で、そのためにいろいろ作り変えたからでしょうね。でもって、その変革に伴い人々の認識も江戸を中心にものを見るようになっちゃって、江戸からの近さ以外に興味がなくなっていったようにもみえ、これは残念。茨城、栃木の人は地域史をほじくってほしい。
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でも、坂東太郎以外でもそれ聞いたことがあります。河川の付け替え、合流点の調整をしても、元の流路に沿って洪水になることがあるというの。
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