アメリカ文明は欠陥品である西部邁ゼミナール 2015年2月22日放送
深いお話をされているなぁ・・・。
でもって、タイトル通り確かにアメリカの文明はまったくの欠陥品だという話はその通りなので特に目新しい話はないんだけど、前半、ジョージ・ケナンがアメリカニズムとボルシャビズムは同列、両方とも弱くなった国家に取りつく病気だと語っていたという話は面白かった。
西部先生の年来の持論みたいになってる、日本の戦後の思想がとち狂ってるのは、アメリカに付くのが保守で、ソ連に付くのが革新みたいな狂った基準を持ったから、という話からすれば、要するにどっちにしてもおかしい一派しか目に入らなかったのが日本の戦後って話になりますかね。わはは、とか笑えないけど。
さらに、で、日本がなんでそのアメリカを真似せざるを得なかったのか。
保守派は左翼が日本をダメにしたみたいなこと言ってるけど、それだけじゃない。そもそも、明治以降の学問のあり方が立身出世主義、つまり得するために勉強するという話になっていたことも大きいだろう、と。つまり、ここでしっかりアメリカ的な、物質的豊かさ、富が大ならそれがエライという価値観に接続されちゃうってのが大きかっただろう、と。
で、さらにお話が進んで、でもそれって戦後じゃなくてそもそも明治維新がそうなんですよ、という話が25分あたりであって、伊藤氏が最後にしみじみ、
年を取れば取るほど、明治維新は、あれってやってよかったのかねと思う。廃藩置県も、もったいなかったなと思う
とおっしゃる。
私も実にまったく同意見なんですよ。実にまったく考えれば考えるほどここに行き着く。
明治維新なる変化の総体は、なにもあんなやり方をしなくてもよかったと思うわけですよ。幕府は開国を限定的に行いながら国境というハードルを高く維持しつつ国内を固めようという発想でしょ?それで何が悪いのよ、って話なのよね。
特に、長州は余計だったとしみじみ思う。あれは長州を第一次長州征伐で徹底的に叩きのめしてしまう方がよかったんじゃないかと思うし、それができなかったのは江戸幕府という統一政権としての自負そのものの故だったんだろうなぁと思うと猶更やりきれない。関ヶ原以前と異なるのはここ。
つまり、現在の価値でいえば、自国民の暴発を抑えるところまでは仕方ないけど徹底的に叩き潰すなんてことはまずいっしょと政府は考えるが、長州勢力は「公儀」の感覚がゼロなので、御所に殴り込みかけても全然無問題だし、勝手に外国と戦争をしてその支払いを幕府にやってもらってもまったく無問題という勝手ができる。
さらにいえば、王政復古でものごと決着したというのは神話でしょう。実際には不信感を持つ人々を躊躇なく武力制圧したことによって政権を取った、その意味で著しく暴力革命的な政権奪取だったし、そのための方便として天皇という日本人にとって等しく大事な存在を「玉」だのと道具扱いして使っても全く痛痒を感じないという意味で、正直、あたかも外国人による王権簒奪を見るようだ、とかも思う。
今更言っても仕方がないけど、でもこのへんの明治の革命とは何だったのかを冷静にレビューしない限り、日本って多分アメリカ二ズムに溶かされちゃうんでしょう。何者でもないただの地名としてのジャパンが残るみたいな。
でね、よくよく考えてみると90年代までには結構このへんの見直しに関する議論、いや議論とまではいかないが証拠固めみたいなことは進んでいたんだと思うわけです。猪瀬直樹氏が週刊誌というマスを相手とした媒体に多数書いていたのは、ある意味で見直しに対する地固めだったかもしれない。殿(しんがり)だったかもな、みたいな。
ミカドの肖像 (日本の近代 猪瀬直樹著作集) | |
猪瀬 直樹 | |
小学館 |
ミカドの肖像も良かったけど、個人的には「天皇の影法師」を挙げてみたい。明治の日本というのは表から見れば立派かもしれないがかなり間に合わせにいろんなことをして楽屋裏には釘跡が目立つ。後の世代はそれをただ批判するが、その間に合わせぶりが理解できる森鴎外の世代は影で必死になって国体の屋台骨を支えようとするという顛末に結構胸を打たれたりもした。
天皇の影法師 (中公文庫) | |
猪瀬 直樹 | |
中央公論新社 |
ところが、最近になってまた明治維新とは日本を開国させたすばらしい出来事だったみたいな話がちらほら出て来てる気がする。NHKの龍馬、日露戦争ものなんかがその代表例だろうし、大河ドラマがしつこく幕末にフォーカスをあててるのも思えば異常だ。
これってなんでこうなったの? 再洗脳をする必要が生まれたってことなのだろうか?
自滅するアメリカ帝国―日本よ、独立せよ (文春新書) | |
伊藤 貫 | |
文藝春秋 |
世界を操る支配者の正体 | |
馬渕 睦夫 | |
講談社 |