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関特演と1945年ソ連満洲侵攻作戦

2018-01-06 19:34:03 | 参考資料-昭和(前期)

「逝きし世の面影」さんが、北朝鮮とアメリカの話題のついでに、関特演の話を書かれていた。

米韓軍事演習ですが、これはナチスドイツがソ連を奇襲攻撃したバルバロッサ作戦決行時に、日独伊三国同盟の日本がソ連国境付近の中国『満州』で繰り広げた関東軍特種演習と同じ意味を持っている。(関東軍だけではなく日本本土からの応援部隊も多数参加した演習に対して相手のソ連軍が何も対抗手段を講じなければ、そのまま一気に攻め込んで軍事占領する実戦を想定した予行演習)
日本軍の行った史上最大規模の軍事演習『関特演』の結果、やむなく欧州(ドイツ)と極東(日本)の二正面作戦をとったソ連軍は総崩れ状態でヨーロッパロシアの大部分を失って首都モスクワやレニングラードをドイツ軍に包囲されるなど大敗、壊滅的な大損害をだしている。(米韓合同軍事演習中は、もしもの米朝軍事衝突に備えて北朝鮮の経済活動はほぼ停止されているという)

 http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/87424df450431e50ebff8332f5d12946#comment-list

1941年7月の関特演をきっかけに揃えた関東軍の戦力は、以降、戦意をもってソ連国境をにらんで満洲に存在していた。

1941年7月とは、1941年6月22日にドイツ軍がソ連への侵略を開始した日から間もないわけで、ドイツ軍と日本軍の動きに連携があることは、同盟関係から見てもそうだが、実質的にも明らか。

7月2日の御前会議は『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択し、独ソ戦が有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定した。wiki

関東軍(というより、日本の帝国国策に基づくんだが)の計画にもならない「腹づもり」では、ソ連がドイツに叩かれて人数を西側に割くことになって、極東の兵力が半分になったらソ連を攻めようとしていたが、極東ソ連軍は人数を割かず、相応の装備も維持し続けたので、関東軍の「幸い」は来なかった。

その果てに、1945年8月のソ連軍の満洲侵攻が来る。そうであるのなら、関東軍はどれだけ、みんなが耳にタコができるぐらいに聞いていたであろうその「対ソ戦略」なるものを用意していたのかというと、結果からみるとかなり寒いものだったという他はない。

一般に、関東軍は南方に兵を割かれて往時の力はなかったといわれる。これは本当。しかし、この説を無条件で受け取ってしまう人の多くは、では、その往時付近であろうと考えられる1939年のノモンハンでの戦いにおける日本軍をよく理解していない。この戦いは戦い自体で見れば双方傷つき合った戦いで、ソ連の方が被害者が多いことをもって、日本軍は強かったのだと今ごろになって盛んに言っている人がネット上に多くみられる。言いたきゃ言えばという気もするが、気が付くべきはそこではないでしょう。

一つは、ソ連軍はソ連政府の下にあり、ソ連政府は政治的・戦略的に行為したという点と、もう一つは装備の差とその装備を使ってどう作戦を立て、実行するかの点でソ連の戦略性は高かったという点ではないかと思う。

あ、そうそう、ノモンハンについて、少なからぬ識者は、戦争は目的を達成した方が勝ちなのです、だからソ連の主張が通った国境線になったんだからソ連の勝ちです、といったことをおっしゃるが、私はこれは「カバー」ではないのかと疑っている。本当は、これによって東西挟撃の一里塚が築けなくなったことがわけても大問題だったのだ、と言いたくないからこそ煙に巻いているといったところ。

 

■ 1945年8月の満洲の戦い

それはそうと、その戦略的にものごとを決しようと準備してかかってくるソ連軍の特質がいかんなく表現されたのが、1945年8月のソ連の満洲侵攻でしょう。

私たちはこの戦いを、ただただソ連が条約を破ったのだという感想をつけて終わりにしているが、この作戦の遂行はソ連赤軍がWW2で戦った作戦の中でも屈指のスケールを持ち、またそれを完遂した。

おおむねこんな図で戦われた。

3方向一度にというより、左(西)と右(東)が主な動きで、上(北)からのうごきはそれを見ながら押してくるといった感じの役割分担。

日本は、右側のウラジオ側、あるいは朝鮮に接続するソ連領に近いところには多数の防御陣地を作って固めていたのでこちらは意外ではなかったと思うが(しかし思った以上にソ連は強かったんだが)、西側に対応できていなかったため、モンゴル東部の普通こんなところを機甲師団は通らないと想定されている(少なくとも日本側はそう思っていたらしい)ところを下りて来たソ連軍の兵力はほとんどたいした抵抗を受けずに中央付近に降りてくることができた。

図を見てもわかる通り、日本軍の満洲におけるお宝はどっちかというと真ん中から南だし、朝鮮側も日本だから、ソ連は東西から日本軍兵力を分断しつつ、北から押していって、南に押し込んで戦闘区域を狭めようというもの。で、これをソ連軍は1カ月ほどの期間で達成しようと計画したが、実際には主要な部分は7日程度でだいたい達成してしまった。満洲の大きさを考えるとものすごいスピードだった。

ではなぜこれほどスピーディーに話が済んだのか。名著「詳細 独ソ戦全史」

詳解 独ソ戦全史―「史上最大の地上戦」の実像 戦略・戦術分析 (学研M文庫)
David M. Glantz,Jonathan M. House,守屋 純
学習研究社


の著者のデビット・グランツさんは、

The Soviet Strategic Offensive in Manchuria 1945:"August Storm"(1945年満洲におけるソビエトの戦略的攻撃:8月の嵐)

The Soviet Strategic Offensive in Manchuria, 1945: 'August Storm' (Soviet (Russian) Study of War)
David M. Glantz
Routledge

 

で、関東軍の負け、ソ連の勝ち自体は動かなかっただろうが(日本全体が西太平洋で負けている、本土は空爆されている etc.の状況を鑑みて)、ではなんでこんなに早く終わったのかという問いを結論部分で論じている。

ソ連は満洲に入って来る時、難しい作戦になるだろうと考えそれ相当に準備し、それがこのような大胆な作戦の構築につながった。ソ連は関東軍の武勇を尊重した。前にも戦って勝っていたので、それと同様に個々の兵士が猛烈な戦いを挑んでくるだろうと考えた。ソ連は関東軍の配置や状況についてかなり良い知識を持っていた。

結果的に、ソ連は関東軍の、特に国境付近の戦力の強さ過大評価していた。もっとずっと強い抵抗にあうだろうと予測していたがそうはならず、そのためソ連の最初の攻撃は大攻撃になった。

ということで、ソ連のプランと準備が、大真面目で、しかもそのソ連はといえば欧州最強のドイツ軍と張り合って、その力を実践で試してきた軍だった、それに対して日本の関東軍は1939年のノモンハン以来何も学んでいなかったように見える、ということで、まぁこうなりました、と純軍事的な視点から述べていた。

平易な日本語で言うなら、大きな抵抗にあうことを予測してガッチリ押そうと計画を立ててその通り実行したら、相手の抵抗が弱くてガーっと行っちゃった、みたいな感じ。

(グランツさんの独ソ戦が翻訳出版されているのに満洲侵攻が翻訳出版されていないって、何か奇妙な話。グランツさんはアメリカ陸軍指揮幕僚大学を出た軍事史の専門家。独ソ戦についてソ連に甘い点をつけているとかいろいろ批判はあったものの、とはいえじゃあ彼を完全に否定できるような人が出てきているのかというとそうはいかない、といった昔にはいた重いタイプの人のようにみえる)

 

■ 自信過剰なのか自己満足なのか、日本の司令官はぞんざいに対応した

さらに、ここに興味深い、関東軍の司令官たち(commanders)に対する評があるのでちょっと訳してみよう。

関東軍は1941年のものではなくなっていたが、それでも多くの評者がいうほど効果がないというものではなかった。停戦の噂もあっただろうし、実際降伏したわけだからそれは影響しただろう。しかし大部分の損害はそれ以前に起きている。

日本の司令部はソ連の行動に対し、自信過剰、自己満足、混乱、ペシミズムのいずれから来るにしてもぞんざいに優柔不断に対応した。ソビエトに対する日本の自信過剰、自己満足は、満洲侵攻の前から、何年も、あるいは何十年も続いていた。

1939年のノモンハンの敗北は日本の司令官たちを驚かせたが、もっと驚くべきことには、そこから彼らはほとんど何も学んでいなかったことだ

おそらく、ソビエトが1939年と1940年にフィンランドで負けたこと、1941年にドイツに負けていたことが、日本の自己満足と自信過剰をよみがえらせたのだろう。

対戦車兵器もないし、機械化もされていない、ソビエトの中戦車T-34に匹敵するようなものもない。関東軍の装備は1939年とたいして変わりがなかった。最低でも、この準備不足は、自己満足と自信過剰を表す尺度だっただろう。

日本の対ソ戦略は、1939年の経験からもう一つ学びそこなっているか、無視した。それは、ソビエトは不可能に見えるようなことをやろうとする強い傾向があるということだ。モンゴル東部の荒れ地を満洲への大規模侵攻のための足場として使ったことがその例だ。(注:西正面の侵攻の場所の選定のこと)

日本は、それが自己満足からなのか自信過剰なのかはともかく、ソビエトを過小評価するという伝統的な傾向を示した。この過小評価が関東軍の運命を決した。理由はどうあれ、日本の司令官は自分の軍を台無しにした。上層部は混乱し、方面軍と軍令は矛盾し、結果的に多くのユニットが戦闘から離れ、他は使いつくされてしまった。

 

だそうですよ。ほとんど司馬遼太郎のノモンハン評をさらに辛辣にしたような感じですね。

で、やっぱり、関東軍のソ連に対する見下しの姿勢というのは、有名だったんだろうかなどとも思ったりして興味深い。

まんまこの話ですね。

ロシア弱体化という願望

 

■ あらためて一体何がしたかったのだろうか

私は別にここで関東軍をなじりたいとか、精強百万関東軍だのと強い強いと国民に思わせておいてなんだいそのざまは、などと言いたいのではない(多少言いたい気分ももちろんあるが)。

そうではなくて、関東軍という存在が改めて不思議だと思っている。

1941年に関東特殊演習をして50万人もの若い兵力をわざわざ船を使って日本本土から連れ出して関東軍を膨らませて、ソ連にものすごい強気な態度を取ったのは、ドイツが勝てばそれでお釣りが来ると思ったんだろうな、で理解できる(いいとは言わないが)。

問題はその後でしょう。ほどなくして、ドイツ軍が思っていたほど破壊的に強かったわけではないことがわかり、1年半ぐらいした後には、次第に、ソ連を一気に粉砕なんてことはできねーよになっていった。転回点だった1942年末のスターリングラード攻防前でも、だいぶ危なくなっていたでしょう。なぜなら、ドイツ軍は日本軍と同様、他人の地に入っていっている侵略軍だから、長引けば、住民の敵対心と補給の問題で、次第に敵対心を持った多数の人間たちの中に入っていく運命にある。ヒトラーはあくまで「冬までには片付く」といった調子でソ連に侵攻した。

さてここで、関東軍はどういう見通しだったのだろう? 対ソ防衛、対ソ防衛といい、南方に兵を引き抜かれた後も兵員を増強し形だけはそのまま対ソ防衛のままでいた。が、もし本当に戦略レベルの戦争になれば(実際なったわけだが)、勝てそうにないことは1939年以来わかり切ったことだったのではなかろうか? もしそうでないというのなら、グランツさんならずとも、なんで兵器ラインが1939年のままなの?なわけですよ。

つまり、1941年12月8日に日本が本格的に戦争状態になったその1年後には、ドイツはもう絶対勝てないことがわかっている。ということは、圧倒的に強いドイツを頼みにしていた関東軍は、もはやソ連に対抗することはできない。やられたら負けるし、自分からかかっていくのも無理。

(状況的にソ連領内に侵攻できるような体制が万全だったようにも思えない。そもそも絶望的に機械化されていないから、長距離を移動するようにできていないと思うのだが、陸軍の参謀の頭の中ではこのことは大した問題ではなかったらしい。)

これはちょうど、海の側でミッドウェー海戦の敗北後は、どうやって負けるか(願わくばどこかで講和を)しか目的がないのと似てる状況。陸側はほとんど開戦と同時にそうだったということ。

 

というわけで、1944年5月頃、重光葵がソ連に工作していたという話につながるのでしょう。

これはつい最近、奇跡的に出ていた外交文書ですね。東京新聞がスクープしたもの。

終戦1年3カ月前「対中終結を」 重光外相、ソ連仲介構想 新史料で判明

阿修羅に記事が保存されているのでそのページをリンク

http://www.asyura2.com/14/senkyo169/msg/788.html

 

で、これとは別に、終戦間際にソ連に頼って終戦工作をしていたのだ、しかし、ソ連に騙されたのだ、みたいなのが日本の戦後数十年の通説みたいなものですが、よく考えれば、この外務省主導の終戦工作って到底本気じゃないですよね。

だって、日本の場合、出先の軍が勝手に行動してしまって大陸の事態が悪化したのだから、関東軍、支那派遣軍、朝鮮派遣軍の意思と行動を確認しない限り、相手(この場合ソ連、より複雑には中国)は何もできないでしょう。外交官と合意したって、無意味

別の言い方をすれば、連合軍からみれば、海で、1944年10月のレイテ沖海戦を頂点とする一連の海戦で、日本のほとんどの海戦戦力を失わせ、陸で、1945年8月に、満洲にいた、相対的にいえば日本の陸軍の中で最も戦力として強かった関東軍を敗走させるまで、対日の戦争は何も終えられないという恰好だったというべきだろうと思う。

さらに言うなら、これは私の推論に基づく仮説だが、日本のインナーサークルの人たちはそれを理解していたのではなかろうか。だからこそ、ソ連が参戦したことを契機としてポツダム宣言を受領することにした。つまりここまで負けを確定できないと理解していたということなのではないだろうか。これって結構重要な問題だと思ってる。

 

それはまた、昭和の時代の日本国内の議論として、統帥権の問題がありましたので、とかいって話を寸止めにしているそれそのものの意味と合っているとも言えるかもしれない。要するに、日本国では、軍の指揮権は政府にはありませんでした、控えめに言ってもないも同然でしたというお話をしているのだが、しかしそこに着目しすぎると軍の指揮権を持っていた人に責任が行くので、常に、最終的に話があっちゃこっちゃで今に続いている。

 

■ まとめ

関東軍は1941年7月以降、対ソ連で吠え続けていたが、結果的に大敗北したことを認識しましょう。

終戦時の関東軍の様子を、wikiはこんな具合に書く。

一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎えた。正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった。「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜10時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もあった。

ちゃんと反撃したら勝てたみたいなニュアンスを残した書き方をしている。こういう書き方をするから、いつまでたっても、関東軍は強かった伝説が生きているのじゃないのか。しかし、どう考えても、軍事的に大敗北を喫したわけです。ここは間違えない方がいい。

また、中立条約を破ったソ連が悪いというのは、外交官が外交交渉として持ち出す分にはいいと思うし、その分には有意だと思うが、戦争の常識からするとまったく話にならないでしょう。1945年までの全期間を通じて日ソ双方は有意に対立している。

東西挟み撃ち体制が見たくなかったらしい

そして、ソ連が侵攻してくることは各方面の情報から関東軍は知っていた。ただ、時期を10月と考えていたと言われているんだが、これって本当なんだろうかとここは謎(だって、ソ連のオペレーションの大きさから言って、そこら中の人がソ連は準備中だと気付いていたでしょう。そもそも、ドイツ降伏の5月以来、満洲にいた中国人他の人たちが日本はもう終わりだと様々なことを言っていたという証言は多数ある。)

 


 

 


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関東軍特種演習 (一読者)
2018-01-06 20:02:24
私の両親家族は開拓団として満州に行っていたので亡き父から直接聞いた話です。
敗戦間近の1945年7月頃、根こそぎ動員で満州居留邦人の成人男子のほとんどが召集されましたが、
既にその頃には関東軍特種演習によって満州に集積・装備されていた武器の多くが南方戦線に移送されていて武器らしい武器はほとんど無く、
ソ連軍が侵攻して来た時の召集された日本兵には、「こんなんでは戦争にならん、早いこと逃げようぜ」というような雰囲気だったそうです。
但し、関東軍特種演習の時に集積されていた膨大な関東軍の食料が、広大な満州平原のあちこちに野積みにされていて、
この膨大な軍用食料が、敗戦後に満州に取り残された150万人の満州居留邦人の食料となって助かったそうです。
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新年おめでとうございます (蔵権)
2018-01-06 20:05:12
>これはちょうど、海の側でミッドウェー海戦の敗北後は、どうやって負けるか(願わくばどこかで講和を)しか目的がないのと似てる状況。

ヒトラー最後の12日間という映画の中でナチスの終戦工作のやり取りに触れられているのですが、以下のセリフが出てきます。ヒムラー『連合国はソ連との戦いで必ず我ら(SS)の力を必要とする』、ゲッペルス『降伏はない。米英の本質的な敵はソ連だ。徹底交戦して我々の有能な力を(米英)に見せつける必要があるのです』。もちろん映画なので、史実とは違うフィクションが盛り込まれていますが、終戦間際、ドイツ上層部は米英とソ連の開戦(第三次世界大戦の勃発?)を前提として連合国との終戦工作を進めていたことが描かれています。敗戦が確定的となっても戦争を継続する理由として、時間稼ぎをしていれば米英のソ連は必ず戦争になる、その時に米英はナチスを必要とする。というストーリーで説明されている。

極東側、日本の終戦工作を同じ視点で観てみると、つまり、関東軍は米国との講和のための交渉材料だったのでは?日本の上層部(関東軍?)が米ソ開戦を期待していたと考えれば、絶望的な戦争の継続も合理的な理由が付くし、太平洋戦争以後のストーリーも結果的にそうなっているでしょう。
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ナチを仕掛けた人たちは本当にうざい (ブログ主)
2018-01-06 20:31:16
蔵権さん、

そのエピソードはむしろ、ドイツと日本を使った人たちがどうやって口説いたのかをはしなくも表しているのではないでしょうか。つまりナチを仕掛けた人たち。

しかし現実にはそうはなっていない。極東はさらにそうなっていない。米陸海軍はむしろソ連を支援して戦争を終結させた。

極東に関しては、ソ連が「解放地」を中国共産党に渡したことが極めて重要。で、これを米軍は妨害していないしやろうとしてもできなかったでしょう。つまり、極東に関する限り英米vsソ連なんて成り立たない。陸地におけるソ連が圧倒的に強かった(米にはそんな陸軍はないし日本の陸軍は人数はいたけど限界ありすぎ&中国人に嫌われ過ぎて作戦組めない)。

ということで、Aチーム(戦争終結から国連へ)とBチーム(なんとかして英 or 英好みの英米優位に)という人たちのバトルがあり、今もあるって話じゃないでしょうか。
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そもそも足りてない (ブログ主)
2018-01-06 21:04:14
一読者さん、
コメントありがとうございます。私もそんな感じの話は実際に聞いたことがあります(親族ではありませんが)。

しかし、私がここで問題にしているのは、南方に引き抜かれる前の、張鼓峰、ノモンハンといった国境紛争の頃から、関東軍とソ連軍では持ってる武器の性質、性能、火力で負けている。特に戦車、対戦車、航空機が圧倒的に足りてない、にもかかわらず、強い強いと言い続けて来た、ということです。

調子の強い書き方になってしまいました。すみません。
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Unknown (蔵権)
2018-01-07 01:03:47
プーチンがビクトリーデーを語るとき、戦争に勝利したという小さな意味だけではなく、世界がファシストに勝利した日としているのはそういうことなんでしょうね。プーチンがアメリカの勝利を祝福するのは、紆余曲折はあったにせよファシストから国を取り戻した、君たちはファシストに勝ったんだという意味でしょう。

現在のシリアに例えると、最後は米が助けてくれると信じてISISは徹底交戦したけど、トランプとフリンが主導権を握って、ロシアと共同して叩き潰されたみたいな感じ? で、ISISは米Bチームに最初から最後までコントロールされていたのに、公式ストーリーでは、アメリカはテロと戦う正義の味方という史実になって、一番苦労したロシアの功績はスルーされ、アメリカがISISを潰した最大の功労者ということになった。しかし、ISIS残党軍とBチームの関係は継続してロシア潰しに利用される。

WW2の日独とその後の冷戦の流れはこんな感じじゃないかな。
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侵略戦争関特演の目標は (Симомура, И.)
2018-01-07 06:58:09
今私は蒙古聯合自治政府が成紀734-737年にかけて発行したポスターを眺めているのだが,その一枚に「赤色政権壊滅(右から左書き),新東亜建設(同右から左書き)」とスローガンがあり,スターリンの似顔絵の下で,日の丸と鉤十児のの腕章を着けた腕が握手をし,徳王政府旗を振る人物が描かれている.「関特演」という侵略戦争が発動されたとして,その戦略目標は共産主義政権を打倒するということだったのか.つまりスターリン圧政下にあるロシア人民を解放するために80万人の大軍をソ連に侵攻せしめるということなのか.しかしこの厖大な軍勢をどのようにして遥かモスクワまで進軍させるのか.首都を陥せない征服戦争など無いのだから.それとも昔言われたように,ウラル山脈の東西でロシアを山分けし,その後はドイツと日本が天下分け目の最終戦争を行うつもりだったのか.軍事少年の知識水準でも,この作戦のむつかしさは分かる.バルバロッサ作戦も実はこの「関特演」程度の杜撰なものだったのではないのか.
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杜撰さは東西挟撃の一大特徴かもいしれません (ブログ主)
2018-01-07 18:32:01
Симомураさん、

「赤色政権壊滅、新東亜建設」という煽りで人々を鼓舞していたんでしょうね。
で、この東西挟撃チームは本当におかしいと思うのは、おっしゃる通り、ドイツの計画が杜撰なんです。短期でできると考えてる。しかし日本はそのドイツが絶対勝つと思ってついていくばかりで、自分の方の計画も信じられないほど杜撰。

総じていうなら、これは計画などというものではなく、宣伝パンフレット上の文言をあわせて、それをそのままやってしまったみたいな話だと思う。こんな企みのために死んだ人たちが気の毒でならない。
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