黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

清盛の父の死

2012-04-22 00:02:41 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたび、清盛の父・
忠盛がこの世を去った。1153年、享年58歳。
このとき清盛は36歳、源義朝は31歳、
そして常盤は16歳ということになる。
なお、このたびはドラマの最初の約10分間を
見ることができなかったので、公式HPを
見ることでその分を補った次第である。


摂関家の藤原頼長はこのたび「氏の長者」の
座を得たようだが、少なくともこのころが
彼の最も得意の頃だったと思われる。
その頼長は、平忠盛の死を知ると、忠盛の
事を自分の日記のなかで次のように評した
という:「数国の吏を経て富は巨万をかさね、
奴僕は国に満ち、武威は人にすぐれる。
しかるに人となりは恭倹にして、いまだかつて
奢侈の行ひあらず。時の人これを惜しむ」と。
そして、この人物評を引用している
『別冊太陽 日本のこころ190 平清盛
王朝への挑戦』(平凡社 2011年)では、
「ふだんのあからさまな諸大夫蔑視に似ず、
忠盛を褒め上げた。忠盛は、複雑な人間関係の
中で気配りを怠らず、宮廷のうるさ型の
好意的な評すら得たのである」と、
解釈している。少なくともこのドラマや
『平家物語』では、忠盛は彼の昇殿に反対する
貴族たちの差し金で闇討ちに遭いそうになった
こともあり、そこで貴族たちに対する気配りの
重要性を学んだということでもあろう。
ただ、ドラマの頼長がこんなふうに
忠盛を褒めるようなシーンなど、
どうも期待できそうにない。

それと、ドラマのナレーションや公式HPには
「忠盛が清盛や武士に残した功績は
はかりしれないものがあった」とあった。
これは私個人の推測にすぎないが、たしかに
忠盛は武士のなかでは前人未到の高い位や
官職を歴任したとか、海外貿易に目をつけたとか、
土地や財産を莫大に増やしたといった功績は
あったようである。
しかし――このドラマで忠盛が見せてきた姿は
主に清盛を遠くで暖かく見守る父親の姿であり、
それなりに志は持っていても、一人の男として
志と正面から向き合って仕事に打ち込むといった
「夢中に生きる」姿は、ドラマ上、
必要最小限しか見せてこなかったという印象が
あったので、その死に際になって
「忠盛が残した功績は計り知れない」などと
言われても、ちょっと取って付けたような言葉に
聞こえた。ここはむしろ、「父・忠盛の死を
察した清盛は、父の遺志を受け継いで
果たしていく事を強く心に誓うのであった」
という言葉の方が、私には適切に感じる。
まあそれでも、この取って付けたような言葉に
よって「清盛の栄華は一代にして成らず」という
点がちゃんと述べられた印象も受けるので、
全く不満に感じた訳でもなかった。

一方、源氏では、あくまで摂関家に忠実な
為義と、院権力に近くなった義朝とで
相変わらず対立している。
別冊歴史読本『源氏対平氏』によると
義朝が院権力に近くなった直接的な理由は
義朝が清盛に倣って院にも仕えるようになった
からだそうだが、なぜ義朝は清盛に倣おうと
考えたのだろうか。また、ドラマの義朝は
東国から京へ帰ると鳥羽院のために水仙を
送って鳥羽院にとりいったが、
なぜ義朝はそうしようと考えたのだろうか。
正しい認識なのか自信も持てないが、
私の認識では、源氏にとって鳥羽院は、
今まで仕えてきた摂関家の敵対勢力だった
はずである。なにやら別冊歴史読本
『源氏 武門の覇者』によると「義朝の従えた
在地武士たちが摂関家領の荘官としてよりも、
国衙の在庁官人たる側面を自らの存在基盤として
主張する方が得策とさせるような在地状況の
変化」が当時あったそうなので、
義朝はこれを冷静に感じ取って院権力との
接近を図った、ということではあろう。
だが、このような「変化した在地状況」とは
具体的にどんなものだったのか、そのへんが
私にはちょっと想像つかないので、
あいにく今の私には完全には解決できない
謎となっている。


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