歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

鳥居の教訓

2014年09月26日 | 日記
そこには永遠とも思えるほど先に続く鳥居があった。

太古からこの国に受け継がれてきた鮮やかな朱色。

ここはずっと前から思い焦がれていた場所だ。

なんの場所なのかは知らない。

ただ京都には鳥居の道があるということだけ知っていた。

何かの本に書かれていたのだと思う。

たまに目にするその写真に、こころの奥の何かが震える。

なぜ惹かれたのかはわからない。

自分の中でいつの間にかストーリーができていたのだ。

長い歴史の中で、想像出来ないほど多くの人々の人生に触れてきた場所。

そこは神聖かつ壮大で自分の想像など及ばない神秘性があるはずだった。



2014年9月某日、高鳴る気持ちを抑えながらその地を訪れた。

伏見稲荷大社、それがこの場所の名前らしい。

一通り神社内を回ると階段を登った奥の方に千本鳥居はあった。

まず朱色の片鱗が見えた辺りでミーハーな感動を味わう。

「これがかの有名な千本鳥居か」



その後、入り口付近にて身なりの整った40代の女性観光客2人とすれ違う。

その際会話からなにやら「電通」なる単語を耳にする。

なぜかお腹の辺りが浮く様な不安に襲われる。



仕切り直して、鳥居の道を進む。

一歩一歩ゆっくり歩きながら、ひとしおの感動を呼び覚まそうとする。

それがなかなかうまくいかない。

写真を撮ってみる。



数分歩いた頃、旅のお供Kがついに「鳥居麻痺した」と言い出した。

触れない様にしていた傷口をピンポイントで刺された気分だ。

しかし納得せざるを得ない。

この途方ない鳥居ループは私たちの頭を麻痺させる。

一つひとつの鳥居が持つ物語などお構いなしに、千本鳥居の中ではそれぞれがa toriに成り果てる。

そのa toriが集まった朱色の長いトンネル。

0.5秒間隔で繰り返される鳥居体験。

なにがなんだか分からなくなってくる。



千本鳥居は人間の一生に似ている。

明確には一つひとつ違うのだが、遠目から見ると同じようなものが連なっている。

途方ない道を歩いてはいるが、確実に終わりはくる。

いつも同じ仕事をしていれば飽きることもあるだろうし、

淡々と繰り返される日々の中でスペシャルを発見するのは結構難しい。

私たちは時間という大きなうねりの中で溺れかけている。



お供Kが「鳥居は右足でくぐらないとだめらしい」と言っていた。

毎回右足の説を意識すると躓いて転びそうになる。

全部を意識するのは難しくてもたまにその説を思い出すことができれば、

それだけで何かが変わる気がする。

いや、ただの願望に過ぎないのかもしれない。



聞けば千本鳥居を制覇するには2時間ほど山を登るルートに入らなければならない。

午後6時を回り日も沈みかけていたので、それは諦めることにした。



「電通」なる言葉の正体は鳥居の奉納元であった。

昔から奉納という言葉を見ると残念な気持ちになる。

奉納元が新しければ新しいほど嘘くさく感じてしまうのだ。

その存在理由を理屈で理解出来てしまうので、

神聖さ、壮大さ、神秘性というのもが削がれてしまう。


それでもその偏見をとることができれば、また違う見え方と出会えるかもしれない。

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