歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

水面浮遊

2016年02月29日 | 日記
ふわふわふわふわすいー



感覚的な話。

生活の中ではっとするような、

これだ!という確信を与えてくれるような、

新鮮で瑞々しい瞬間というのがある。

その瞬間を手がかりに思考して充実した気分になる。



例えばラジオから流れてきた音楽に深く感銘を受け、

そのシチュエーションに浸ってみたり、

気持ちいい風にさらされて季節の変わり目に遭遇したり、

誰かの画集を眺めて胸の中に蠢く何かに出会ったり、

小説の一節にぴーんときたり、

そこから妄想して自分の世界が広がったり狭まったり。



そういう瞬間に自分という存在が輪郭を持ち始める。

方々に飛び散った自分の破片が少し戻ってくるような、

水を与えられた枯れ木のような、生を実感するのだ。



そういう瞬間はどんどん連鎖していくから何かを創造するにはうってつけ。

その一瞬に出会うためには感覚を開いていないといけない。

反対にそればっかり求めると疲れるけどね。



他の人は分からないけれど私はそんな感じで、

いとんなことに鈍感な時間と敏感な時間を行き来することで、

なんとなく日々に納得している部分がある。



それがなんだか最近はふわふわふわふすいーっと、

メインストリームの上をずっと浮遊している感じなのだ。



図にしてみた。



思いつきの図なのであしからず。

今回ここでいう感覚を三段階に分けてみた。

まず上からいろいろなことに鈍感な時間、無関心・無自覚的時間。

次に青は瑞々しい瞬間に触れて充実していると錯覚している時間、また思考している時間。

黄色が瑞々しい瞬間、新鮮な出会い。

そして私の感覚はその三段階を行ったり来たりするのだ。



理想の状態は②の繰り返しだが、最近は①のようにずっと感覚の表層部を浮遊している。

浅いところをふわふわふわふわすいーっと。

こういう状態の時に湧いてくるのはこれでいいのかという焦りに似た思い。

何かを考えていなければという義務感。



しかし、いくら何かについて考えたくても出発点が自分の時点で限界がある気がする。

自分の感覚すら思い通りにできないのだけど、

それはある意味で自分から解放されるチャンスでもあるのかな。



思い通りにいかないから世界は広がっていくのかもね。

とりあえず流れに身を任せておこう。

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