歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

至福のときⅡ

2017年05月12日 | 空想日記
以前「至福」ということについて書いたことがある。

書いたと言うほどのことでもない。

どちらかというとつぶやいたと言う感じだ。

今回もそんな感じになると思う。



他人の幸せには興味がないというのが大抵の意見だろう。

それが身近な人であったなら話は別だけど。

意図的に発せられた幸せオーラは人を嫌な気持ちにさせたり、

無意識的に発せられた幸せオーラは人を嬉しい気持ちにさせたり、

なんとも扱い辛い代物、それが「幸せ」なんてものかもしれない。



「幸せ」「幸せ」と繰り返すと頭が変になりそうだ。

大分受け入れられるようになったとはいえ、やはりその響きはどこか怪しげな空気をまとう。

「そんなことは気にしなさんな」と軽く捉えるのが話の前提。

なんたって私の「至福」は実にばかばかしいものに他ならないからね。



至福のとき、それは自分なりにやらなければいけないことがあったとして、

どうしてもそういう気分になれないときにやってくる。

この場合、選択肢はおおまかに①「嫌々やる」②「少し休憩してからやる」③「その日一日はやらないと決める」の3つがあるとして、

後先考えずにすっぱり③を選んだときに何とも言えない晴れやかな気分になる。

このだらしない自分を認めるという部分に、他では得られぬ何とも言えない「幸せ」があるのだ。

体の末端で滞留していた血液が急に流れ始めるような、

頭の中にルイ・アームストロングの『What's A Wonderful World』が流れてくるような、

どんよりとした重たい雲の切れ間から太陽の光が差し辺りが明るくなるような、気分にしてくれる。

後に待っているものが何なのかも忘れて、怠惰な自分に祝杯をあげよう。



かの有名な落語家、立川流の家元を名乗った立川談志の残した言葉で、

「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」というものがある。

なるほど、こりゃ一本とられましたな。

こういう言葉を言い訳に今日もいい加減でだらしのない自分に勤しむのである。

自分に都合のいいように解釈するというのは、どうやらやめられそうにない。


ずいぶん前の写真だけど、奇麗だったので載せておきます。
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