クロアチアの風  ~茶猫の旅カフェ~

アドリア海の国クロアチアと旧ユーゴの風景をお届けします。旅行情報、写真をお楽しみ下さい。番外編では世界の猫も登場!

総督邸の影に~ドブロヴニクの歴史を少しだけ

2010-02-28 14:56:52 | ドブロヴニク
 
 春から夏のシーズンに観光客でごった返している旧市街の中心も
 冬はひっそりと人影も少ない。

 アドリア海は冬が雨期にあたる。
 すっきりしない曇天が続き、
 ブーラという台風級の強い北風が吹きつけ、海も荒れることが多い。
 ヴェネチアの船もこのブーラを怖れて冬は航海を控えたという。
 冬のドブロヴニクは観光客も少なく
 夏とはまったく違う表情を見せてくれる。

 写真の左はドブロヴニクの旧総督邸。
 今日は、右の大聖堂と並び、ドブロヴニクで最も重要な歴史的建造物、
 旧総督邸を紹介してみたい。

 総督邸はドブロヴニク共和国時代に、総督がここで住み込みで勤務したところだ。
 現在、かつての総督の執務室、勤務机や家具、寝泊まりした部屋やベット、
 会議場、ボールルームなどが公開され
 そう多くはないが、各国の特使からのプレゼントなども展示されている。

 共和国時代のドブロヴニクは、貴族から選ばれた議員たちが共和制で政治を行ってきた。
 もともと総督はいなかったが、14世紀から置くようになった。
 任期は1ヶ月の名誉職でしかなかった。

 なぜ国のトップの総督の任期がたった1ヶ月、しかも無給だったのだろうか。
 その問いには「専制政治を防ぐため」という決まりきった答えが用意されている。
 だが実際にそんな単純な理由だけのことだったのだろうか。

 総督が置かれた頃のドブログニクの歴史を少し紐といてみよう。

 ドブロヴニクは長きにわたり独立国家だったといわれる。
 しかしその実像は、「独立」ということばから私たちの重い描くような
 英雄的で果敢な面だけを持っていたわけではない。
 
 バルカンの政治地図のまっただ中に位置し、常に侵略の危機と隣り合わせだった宿命。
 ろくな軍備も持たないこの小国に、ヴェネチアやオスマンなどと正面きって向かいあう力など
 はじめから最後までありはしなかった。
 それを自覚していたラグーサの市民たちは
 「頭」と「金」を使って独立を守る道を選択した。

 ビザンチン、ヴェネチア、ハンガリー、オスマントルコ‥‥
 いつの時代にも、ドブロヴニクは周辺の強国への朝貢を欠かさず行い続けた。
 ドブロヴニク市民は名目上の君主に首を垂れながら、名より実をとる海の民の街であり続けた。
 強国を保護国としてまつり、つまり安全保障を約束させながら
 一時たりとも彼らを信頼する事はなく、
 その逆に、稼いだ金を城壁の増強、補強、整備に湯水のごとく注ぎ込み、
 まさにそれら保護国からこの小国の自治と独立と誇りを守り抜いた。
 他国の軍隊も総督も置く事はなく、外交を牛耳られることもなく
 一度も王が存在したこともなく、
 常に貴族たちから選ばれた議員による協議で国の方針を決めてきた。

 ヨーロッパの多くの共和国の地図が王政、帝政に再編成され、塗り替えられていく時代のうねりの中で
 ドブロヴニクは、時代遅れなまでに、その後も一貫して共和制を貫いた。
 これに一番近い政治形態をとっていた国は、やはりヴェネチア共和国ではなかっただろうか。

 総督のおかれた時代に話をに戻そう。
 14世紀半ば、ラヨシュ1世のもとでハンガリーが力をのばし、
 ダルマチア北部、中部の海岸上の拠点都市をヴェネチアから一時的に奪い取った。
 このチャンスをドブロヴニクは逃さなかった
 ヴェネチアからハンガリーに保護国を代えた。
 より実質的な脅威であったヴェネチアの影響を避けようとしたのだ。

 しかしハンガリーが自国の総督をドブロヴニクに送ろうとしたとき
 ドブロヴニクは断固としてそれを拒否し
 逆に自分たちの国から総督を選ぶことを提案した。
 それはハンガリーの申し出を体よく断る口実、自国の独立を守るための方便であった。
 このようなハンガリーとの政治的な駆け引きの中で
 ドブロヴニクは共和制国家にとって全く必要のなかった総督を頭にすえることに決めた。
 ドブロヴニクには専制政治を防ぐ必要など、最初からなかったのだ。
 そのシステムはすでに国にできていたのだから。
 
 給料を払われる事のない総督は、任期の1ヶ月間は妻子からも市民からも隔離され、
 この屋敷に寝起きし、城門の鍵を守り、
 議会できめた事項にサインし、賓客を迎えた。
 交代で形式的な実務に専念し続けた。

 ハンガリーからオスマントルコに宗主国を鞍替えした後も
 ドブロヴニクは決してどの国からも支配されることなく、
 新大陸発見後、縮小の一途をたどる地中海交易の中で
 アドリア海の光の中に溶けてゆく一粒の塩のかけらのように、
 この小さな共和国の独立を1807年まで守り抜いた。
 
 総督邸の見学コースの終わりに、最後の総督の肖像画が飾られている。
 彼がナポレオン軍に城門の鍵を渡した時、この国の独立の歴史は幕を閉じた。
 それは同時に新しい歴史の試練の扉が開いた瞬間でもあった。

 アドリア海に朝の光がそそぎはじめるころ、
 漁船が港に音をたてて戻り、桟橋に綱を投げる。
 城壁の外から来る野菜売りが荷車をひいて城内へ向かう。
 裏通りからパンの焼ける甘い匂いが漂ってくる。
 今、そのまどろみの中にいる街は
 自らの宿命と戦い続けてきた剣を持たぬ戦士達の街でもあった。
 


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2 コメント

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独立とは・・ (ルイス)
2010-03-03 06:27:14
気合いの入った文章、じっくり読ませて戴きました。
この建物の内部には入ったのですが、歴史背景の知識を欠いていたので、史実としての意味までは読み取ることはできませんでした。

総督としての実権も報酬も与えられず、任期は僅か1か月、有名無実の名誉職に過ぎないという都市国家は他に類を見ないですね。
中世から近世を通じて、異なった宗教世界の狭間にあり、ベネチア、ハンガリー、トルコと列強の三つ巴の戦国時代を、独立を守って生き永らえてきたことだけでも奇跡のようです。その秘密はこの絶妙な政治システムにあったのですね。

しかし、それを何世紀にも亘って維持するには、高い市民意識の支えなしには到底実現できないでしょう。ドブロブニクの人々の自主独立への希求がいかに尊いものであったかが伺われると同時に、真の精神の独立とは何かを考えさせられます。
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街の歩み (ちゃねこ)
2010-03-04 01:02:36
ルイスさま
いわんとすることを汲み取ってくれてありがとうございます。
バルカン半島の国々の歩みは複雑で、特に日本人にはなかなか理解しにくいものがあります。それを自分自身がどう理解し、また人に伝えればいいのか‥‥悩みはつきません。
ただわかるのは、街の美しさの裏に隠された歴史や影の部分を知ることで、その街の美しさがさらに奥深さを増し、心に沁みるのではないかということです。
あまり固いことは、このブログでは書かないようにしようと努めてはいるのですが、まあたまには、ということで。 
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