クロアチアの風  ~茶猫の旅カフェ~

アドリア海の国クロアチアと旧ユーゴの風景をお届けします。旅行情報、写真をお楽しみ下さい。番外編では世界の猫も登場!

映画「最愛の大地」

2014-08-18 03:59:49 | ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争をテーマにした映画。
昨年の公開時に見逃してしまいましたが、先日アマゾンで購入しました。

ボスニア紛争時に敵味方にわかれてしまったカップル、セルビア系のボスニア人の男性ダニエルと、モスリム系ボスニア人のアイラに焦点をあてながら、紛争の悲惨さを伝えます。アンジェリーナ・ジョリー長編初監督作品で脚本も担当、渾身の作品にしあがっています。

正直いって最初は期待していませんでしたが、描写や結末などがハリウッド的でなく、作りはヨーロッパ映画のよう。戦時下での主人公の心理描写が淡々と描かれており、、戦場での緊張感も表現されています。長年、国連の難民高等弁務官事務所の親善大使を努め、社会問題にも目を向けてきた女性ならではの視点から撮られており、ついこの間、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでおこった戦争が人々にもたらす影を描写する作品としておすすめできます。ぜひご覧ください。

アップルストアではレンタルもできます。

http://saiainodaichi.ayapro.ne.jp/


ボスニアコーヒーはいかが?

2008-08-31 07:12:08 | ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
  
  ボスニア・ヘルツェゴビナの
  伝統的なコーヒーは
  トルコ・コーヒーと同じ。
  こっちではボスニア・コーヒーと呼んでいるけどね。

  入れ方も飲み方も
  普通のコーヒーとはちょっと違う。  
  すごく細かく惹いたコーヒーの粉を
  フィルターで漉さず、お湯に入れ
  コーヒー専用のポットに入れて沸騰させ
  小さなカップに注ぎ
  粉が沈むのを待って上澄みをいただくというもの。
  
  いくら上澄みをすするといっても
  コーヒーの粉のざらざらした感触が残る。
  茶猫も何度か試したけど、
  味じたいは今でもちょと抵抗がある。
  でも、このコーヒーを頼むと
  コップにお水とお菓子が添えられてきて、
  なんだか、ゆったりした気分になれるんだ。
 
  モスタルの橋の近くにはカフェがたくさんあるから、
  このボスニア・コーヒーとともに
  ネレトヴァ川の川面を眺め
  ゆるりとした時間をもつのもいいと思うな。
 
  このコーヒーにそえられているのは
  ロクムというお菓子で、なかなか美味しいよ。
  
  味はゼリーと餅の間で、
  日光土産の「ぎゅうひ」に似ているよ。
  ピスタチオ味とか、バラ味とかいろいろあって
  日持ちもいいからお土産にいいかもね。
  (写真のものはバラ味)
  ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは
  お菓子やさんで必ず売っているよ。
  
  このお菓子も、コーヒーとともに
  オスマントルコ時代に
  伝えられたものなんだって。

  ちなみに今のトルコ人は
  トルココーヒーをほとんど飲まないみたいだね。
  それにトルコでは、コーヒーより紅茶のほうが
  圧倒的に人気があるようだね。
  一方ロクムは
  トルコでも、今もよく目にするお菓子だよ。



  

モスクがたつポチテリの村

2008-08-30 18:51:41 | ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
 
  クロアチアの国境(メトコヴィッチ)から
  ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入り
  モスタル方面にしばらく走ると
  こんなイスラム・ヴィレッジにであった。

  丘の斜面に
  軒の低い石造りの街並みが続き
  モスクや神学校も並ぶ
  クロアチアからほんの僅かな距離に
  こんなトルコ風の街が出現したにびっくり!

  

  広場にはカフェもあって
  なかなかいい雰囲気だよ。

  おばさんがちが
  チェリーや干しイチジクを
  小さな紙にくるんで売りに来たよ。


モスタルでの結婚式

2008-08-30 17:17:15 | ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
  
  2008年年7月
  茶猫の泊まったモスタルのホテルで
  結婚式のパーティが行われていた。

  幸せそうな花嫁さんと花婿さん、
  みんなの前でダンスタイム。

  モスリム、
  クロアチア人、
  セルビア人が一同に介しての
  結婚パーティだった。
  
  ほんとうにおめでとう!

  

モスタルオールドブリッジ 2 傷跡

2008-08-30 17:11:50 | ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
 

 そんな調和をかき乱したのが
 ボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦だった。
 ユーゴスラヴィアからの独立をめぐり
 旧ユーゴを維持しようとするセルビア人に対抗するため
 当初手を組んでいたクロアチア人とボスニア人の間で
 争いがおこり、ついに戦いが始まってしまった。
 
 モスタルの町には、
 今も銃弾や砲撃を受けた家が廃屋となり、
 いまだに傷跡をあらわにしたまま、残されている。




 ふたつの民族は、この橋の両側に分かれて戦い
 1993年の内戦のさなかに、この橋も破壊されてしまった。
 この橋を破壊したのは、本当に残念なことだけど、
 茶猫の大好きなクロアチア人だったんだ。
 
 ここから先の話は
 茶猫のごく個人的な体験。
 もう何年も前、
 茶猫がこの町に泊まったとき、
 そこでお世話になったペンションのオーナーの女性だよ。

 茶猫が訪ねたとき、彼女は
 内戦で壊れた建物の銃弾のあとを修繕し
 内装のペンキをご主人と塗っている最中だった。
 廊下や階段には塗料よけの白い布が敷かれていた。
 まだペンキの匂いのする部屋に、茶猫はひとりで泊まった。

 ある夜、ひょんなことから
 彼女が自分が生まれ育ったモスタルの町の話を始めた。

 彼女の父はイスラム教徒でボスニア人
 母は正教徒だった。
 両親共にこの町の生まれで
 父親はイスラム教徒といってもスラブ系の白人、
 兄はイスラム教徒。
 自分もイスラム教徒と結婚し、
 妹はカトリックのクロアチア人と結婚したが、
 自分はユーゴスラヴィアの時代に
 無宗教で育ったという。
 
 宗教や民族の違いは、この町で
 結婚の障害になることではなかった。
 「あの戦争が起こるまでは」
 と彼女は語った。

 家の近所にはユダヤ教徒も住んでいた。
 ユダヤ教徒の家からは
 過ぎ越し祭にいつもごちそうが届いた。
 復活祭には正教徒の家から、
 クリスマスにはカトリックの家から、
 ラマダン開けにはイスラム教徒の家から
 やはりお祝いのごちそうが届けられ
 彼女の家でもお返しをしていたそうだ。

 「川の両側に両民族が分かれて暮らしてきたと
  マスコミは書きたがるけれど、それは違うわ。
  ここでは何百年もみんな一緒に暮らしてきたのよ」

 その調和を壊してしまった「あの戦争」
 それがボスニア戦争だった。

 大勢の人が死に、その死体を埋葬することさえできず
 夜になると、命がけで空き地にでかけ、
 死体を埋めたという。
 悪夢のようなできごとの連続にうなされ続けた。

 戦争の中で、それまで仲の良かった隣人達から
 あの家は母親が正教徒だから、本当には信用できない、
 とささやかれた。
 皆が懐疑心の塊になっていた。
 
 彼女の兄はクロアチア勢力に捕まって捕虜となった。
 戦争が終わり、収容所に家族が迎えにいった。
 身長が2メートル近くあり、立派な体格だった兄の体重は
 50kgにまで落ち、顔立ちも表情も別人のようで、
 最初は誰なのかわからなかったという。
 その後兄は国を離れ
 今はアメリカで暮らしているそうだ。
 戦争のことは一切語らず、国には二度と帰りたくないという。

 彼女の妹はクロアチア人と結婚し子供もいた。
 クロアチア人が悪いと皆がいっている中で
 子供を育てなければならなかった。
 子供にとってそれは父親を非難する言葉と映った。
 なぜ大好きな父が悪く言われるのか、
 幼い子供に理解できるはずもなかった。
 両親の苦悩とともに、
 子供の成長にも複雑な影を落とした。

 まだ小さな自分の息子に
 なぜあんな戦争がおこったのかと聞かれたら
 一体なんと答えたらいいのだろう、
 と私の前で彼女は自問し続けた。
 私は返す言葉が見つからず、、
 ただ黙って下を向いているばかりだった。

 1995年、
 ボスニア内戦は大きな傷跡を残し終わった。
 モスタルの橋はユネスコや世界銀行などの援助のもと
 2004年7月、往時のままに復元され
 記念式典では、平和の訪れが全世界に向けて宣言された。

 先月、モスタルを訪れたとき、
 数年ぶりにこのペンションに立ち寄ってみた。
 オーナーの女性に会いたかったが、
 夜遅かったせいか、あいにく彼女は不在で
 受付には若い女性がすわっていた。
 デスクには新しいパソコンが置かれ
 室内は見違えるようにキレイになっていた。
 日本からのお土産を届け、
 夜道を歩いて自分のホテルに戻った。
 ペンションの経営がうまくいっているようでほっとした。
 
 帰りに立ち寄った夜のモスタルの古橋は
 幻想的にライトアップされ
 周囲のカフェはまだ観光客で賑わいざわめいていた。
 きれいに修復された橋の上から、
 ライトが灯されたモスクの尖塔が浮かびあがって見えた。
 そのとき、周囲の音は遠ざかり
 ふと、自分の居場所がわからなくなったような気がした。
 橋のたもとには、以前訪れたときと同じように
 「1993年を忘れるな」と書かれた
 小さな石碑がまだ置かれていた。

 戦争の終結から10年以上が経った今、
 あの戦争の原因がなんだったのかを
 人々は再度問いかけ冷静に分析しはじめている。

 当初、民族や宗教の対立が原因だったように
 報道された戦争が、実は
 当時の経済界や政界の思惑によって起こされたのではないか、
 ユーゴ時代の自分の権益を守ろうとする一部の政治家が
 民族や宗教の違いを利用し
 あおったのではないか
 とという見方が主流になっている。

 大勢の家族や隣人が引き裂かれたこの戦争の意味を
 国の人々は、今後さらに
 自らの過去や苦悩と向き合いながら
 探っていかなければならないのだろう。
 

モスタルのオールドブリッジ 1

2008-08-30 17:10:15 | ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
 
 モスタルを流れているのはネレトバ川
 クロアチアへ流れ、アドリア海に注いでいる川だ。
 緑色の美しい川は、この町をふたつのエリアに分けている。

 その両岸をつないでいるのが
 モスタルのオールドブリッジ。

 オスマントルコ時代1566年に作られた石橋は
 川面から20メートルの空中に美しいアーチを描き
 絶妙なバランスを保ちながら
 両岸の住民たちの往来を結んできた。

 橋の両岸には
 カトリック教徒、イスラム教徒、正教徒などが
 橋の両側に混在して住み、
 お互いに結婚し、親族や友人をもっていた。
 
 

 
 
  
 

モスクが建ち並ぶモスタルの旧市街

2008-08-20 18:27:12 | ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
  

  バチンスカ湖を過ぎ
  ネレトヴァ川を遡ると
  メトコヴィッチという町がある。
  クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナとの
  国境の町だ。

  この国境を越えネレトヴァ川に沿って走ると
  10分もしないで車窓の村に
  モスクが現れ、まずびっくりする。

  カトリック圏のクロアチアから入ると
  眼から鱗の世界。
  それがボスニア・ヘルツェゴヴィナだ。

  400年以上もオスマントルコの支配下にあったこの地域では
  オスマン時代に、たくさんのスラヴ人が
  イスラム教に改宗していった。
  今もその末裔達が暮らし
  キリスト教徒、東方正教徒に混じり
  このヨーロッパの中で
  独得の多民族文化を築いてきた。

  写真はモスクが建ち並び、
  美しくエキゾチックな旧市街が残るモスタルの町だよ。
  まるでトルコの街角に迷い込んだみたい。
  一方、川の対岸にはモスクだけでなく、キリスト教会もある。

  クロアチア国境からわずか45分。
  異文化のワンダーランドに到着だ。