そんな調和をかき乱したのが
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦だった。
ユーゴスラヴィアからの独立をめぐり
旧ユーゴを維持しようとするセルビア人に対抗するため
当初手を組んでいたクロアチア人とボスニア人の間で
争いがおこり、ついに戦いが始まってしまった。
モスタルの町には、
今も銃弾や砲撃を受けた家が廃屋となり、
いまだに傷跡をあらわにしたまま、残されている。
ふたつの民族は、この橋の両側に分かれて戦い
1993年の内戦のさなかに、この橋も破壊されてしまった。
この橋を破壊したのは、本当に残念なことだけど、
茶猫の大好きなクロアチア人だったんだ。
ここから先の話は
茶猫のごく個人的な体験。
もう何年も前、
茶猫がこの町に泊まったとき、
そこでお世話になったペンションのオーナーの女性だよ。
茶猫が訪ねたとき、彼女は
内戦で壊れた建物の銃弾のあとを修繕し
内装のペンキをご主人と塗っている最中だった。
廊下や階段には塗料よけの白い布が敷かれていた。
まだペンキの匂いのする部屋に、茶猫はひとりで泊まった。
ある夜、ひょんなことから
彼女が自分が生まれ育ったモスタルの町の話を始めた。
彼女の父はイスラム教徒でボスニア人
母は正教徒だった。
両親共にこの町の生まれで
父親はイスラム教徒といってもスラブ系の白人、
兄はイスラム教徒。
自分もイスラム教徒と結婚し、
妹はカトリックのクロアチア人と結婚したが、
自分はユーゴスラヴィアの時代に
無宗教で育ったという。
宗教や民族の違いは、この町で
結婚の障害になることではなかった。
「あの戦争が起こるまでは」
と彼女は語った。
家の近所にはユダヤ教徒も住んでいた。
ユダヤ教徒の家からは
過ぎ越し祭にいつもごちそうが届いた。
復活祭には正教徒の家から、
クリスマスにはカトリックの家から、
ラマダン開けにはイスラム教徒の家から
やはりお祝いのごちそうが届けられ
彼女の家でもお返しをしていたそうだ。
「川の両側に両民族が分かれて暮らしてきたと
マスコミは書きたがるけれど、それは違うわ。
ここでは何百年もみんな一緒に暮らしてきたのよ」
その調和を壊してしまった「あの戦争」
それがボスニア戦争だった。
大勢の人が死に、その死体を埋葬することさえできず
夜になると、命がけで空き地にでかけ、
死体を埋めたという。
悪夢のようなできごとの連続にうなされ続けた。
戦争の中で、それまで仲の良かった隣人達から
あの家は母親が正教徒だから、本当には信用できない、
とささやかれた。
皆が懐疑心の塊になっていた。
彼女の兄はクロアチア勢力に捕まって捕虜となった。
戦争が終わり、収容所に家族が迎えにいった。
身長が2メートル近くあり、立派な体格だった兄の体重は
50kgにまで落ち、顔立ちも表情も別人のようで、
最初は誰なのかわからなかったという。
その後兄は国を離れ
今はアメリカで暮らしているそうだ。
戦争のことは一切語らず、国には二度と帰りたくないという。
彼女の妹はクロアチア人と結婚し子供もいた。
クロアチア人が悪いと皆がいっている中で
子供を育てなければならなかった。
子供にとってそれは父親を非難する言葉と映った。
なぜ大好きな父が悪く言われるのか、
幼い子供に理解できるはずもなかった。
両親の苦悩とともに、
子供の成長にも複雑な影を落とした。
まだ小さな自分の息子に
なぜあんな戦争がおこったのかと聞かれたら
一体なんと答えたらいいのだろう、
と私の前で彼女は自問し続けた。
私は返す言葉が見つからず、、
ただ黙って下を向いているばかりだった。
1995年、
ボスニア内戦は大きな傷跡を残し終わった。
モスタルの橋はユネスコや世界銀行などの援助のもと
2004年7月、往時のままに復元され
記念式典では、平和の訪れが全世界に向けて宣言された。
先月、モスタルを訪れたとき、
数年ぶりにこのペンションに立ち寄ってみた。
オーナーの女性に会いたかったが、
夜遅かったせいか、あいにく彼女は不在で
受付には若い女性がすわっていた。
デスクには新しいパソコンが置かれ
室内は見違えるようにキレイになっていた。
日本からのお土産を届け、
夜道を歩いて自分のホテルに戻った。
ペンションの経営がうまくいっているようでほっとした。
帰りに立ち寄った夜のモスタルの古橋は
幻想的にライトアップされ
周囲のカフェはまだ観光客で賑わいざわめいていた。
きれいに修復された橋の上から、
ライトが灯されたモスクの尖塔が浮かびあがって見えた。
そのとき、周囲の音は遠ざかり
ふと、自分の居場所がわからなくなったような気がした。
橋のたもとには、以前訪れたときと同じように
「1993年を忘れるな」と書かれた
小さな石碑がまだ置かれていた。
戦争の終結から10年以上が経った今、
あの戦争の原因がなんだったのかを
人々は再度問いかけ冷静に分析しはじめている。
当初、民族や宗教の対立が原因だったように
報道された戦争が、実は
当時の経済界や政界の思惑によって起こされたのではないか、
ユーゴ時代の自分の権益を守ろうとする一部の政治家が
民族や宗教の違いを利用し
あおったのではないか
とという見方が主流になっている。
大勢の家族や隣人が引き裂かれたこの戦争の意味を
国の人々は、今後さらに
自らの過去や苦悩と向き合いながら
探っていかなければならないのだろう。