クロアチアの風  ~茶猫の旅カフェ~

アドリア海の国クロアチアと旧ユーゴの風景をお届けします。旅行情報、写真をお楽しみ下さい。番外編では世界の猫も登場!

月面世界のようなクルク島

2012-02-22 20:58:30 | クロアチアの島々

海の向こうに見えるのはクルク島。アドリア海最大の島です。

本土の岸辺から見ると、海と空と白い陸地が見えるだけ。島には木が一本もなく、まるで月面のよう・・でもここは、68の村に16000人ほどの人が住んでいます。

なぜ、この島はこんなに白ちゃけているのでしょうか? 

クロアチアでは、冬に寒い北風ブーラが吹きあれることがあります。この風の強さは、ちょうど台風から雨をとって風だけ残した強烈さ。この北風が吹くと、車の運転もハンドルをとられてしまうため、アドリア海岸道路も封鎖されることがしばしばです。ダルマチア海岸では、海の方に傾いている松林をよく見かけますが、これもこのブーラのなせる技。

だからこの島も、ブーラがもろに吹きつける北東部は植物が育たず、村もなく、石灰岩がむき出しのこんなハゲ地になってしまっているのです。人々はブーラをさけて、南西部や入江などに住んでいます。クルク島はワインの産地でもあり、白ワインのジュラフティナが知られています。

見た目にはすっごくシュールな島。でも背後には人々の暮らしがある。見えるものだけがすべてではないのですね。


十字軍に占拠されたザダ―ルの町

2012-02-21 23:01:14 | ザダール

 ザダールにあるもうひとつの大事な教会は聖ストシャ大聖堂です。四重のアーチとバラ窓が美しいこの聖堂は、12世紀にロマネスク様式で建設が開始されましたが、1202年、ザダールの歴史に残るおそろしいできごとが起こったため、建設は中断され、百数十年後の1324年に完成したものです。

ザダールの歴史に残る恐ろしいできごととーーそれは第4次十字軍による攻撃でした。

当時ハンガリーと覇権争いをしていたヴェネチアは、アドリア海沿岸をヴェネチアの貿易船の航路とするため、領土にしようと狙っていました。当時資金繰りに苦労していた金欠の十字軍に対し、ヴェネチア共和国の総督エンリコ・ダンドロは、船の支払い残金は後払いにしてやるから、ザダールの町を攻め落とすよう十字軍と取引をしたのです。

1202年、200艘を超える十字軍艦隊が、聖歌「聖霊来たり給え」を奏でる楽隊に見送られ、ヴェネチアの港を出港しました。イスラム勢力と戦うためにカイロに向けて出発したと誰もが思っていましたが、このとき本当の行き先と陰謀を知らされていたのは一部の指揮官だけだったようです。

計画はザダール上陸まじかに明かされました。イスラム軍と戦うための「キリスト教徒の聖戦」に参加していたはずの十字軍が、同じキリスト教徒の町を攻略するよう命令されたのです。これに驚いた兵士の一部は離脱しましたが、ザダール奇襲計画は予定通り実行されました。突然の十字軍の攻撃と略奪に町は破壊されました。キリスト教を守るべき十字軍がキリスト教徒の血を流すという悪行が、ここザダールを舞台におこなわれたのです。十字軍は、スポンサーであるヴェネチアの手足となって剣をとり、この地を占領しました。

これによりザダールは、ほかのダルマチアの町より、200年以上早くヴェネチア共和国の領土に組み込まれるようになりました。

ザダールの旧市街への入り口の門には、今もヴェネチア共和国のシンボル・翼の生えたライオンのレリーフが残っています。

1204年、十字軍は、占領したザダールから艦隊を送りだし、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルを攻め落とし、1204年に「ラテン帝国」を築きました。ヴェネチアは東地中海に「海洋帝国」を展開するための大きな足がかりを打ちたてました。

時のローマ教皇インノケンティウス3世は、ザダール攻略を聞いて激怒し、十字軍を全員破門にしました。後に事情がわかり、十字軍の破門はとかれましたが、ヴェネチア人だけは許されなかったといわれています。老齢のヴェネチア総督エンリコ・ダンドロは、その後コンスタンティノープルで没し、第4次十字軍の悪行は歴史に刻まれましたが、ヴェネチアでだけは、ダンドロは英雄として賞讃されました。

西暦2000年の大聖年、キリスト教の節目の年に、当時のローマ法王ヨハネパウロ2世は、このとき東方正教会に対して十字軍が行った行為を、コンスタンティノール総大主教に対して初めて正式に謝罪しました。800年も前の攻略が、いまだにカトリックと東方正教会との間のしこりになっていたのです。


ザダールの巨大ウェディングケーキ?

2012-02-10 02:18:55 | ザダール

北ダルマチア地方の中心地ザダールは、この地方で最も古い町のひとつです。旧市街にはローマ遺跡も残っています。そんな旧市街のまん中、かつてローマ時代のフォロがおかれていた広場にすくっと立つまっ白なウェディングケーキのような聖ドナット教会。9世紀に建てられました。

西ヨーロッパのラテン十字の教会とはひとあじ違う筒型のこのユニークな形は、東方ビザンチンの集中式でありながら、二階の回廊をもつとても珍しいかたち。こういった筒型のビザンチン教会は、ヨーロッパ広しといえども、かつて首都がおかれていた宮廷礼拝堂でしか、ほとんど見ることができません。

イスタンブールの聖セルギウス・カイ・バッコス教会(東ローマ帝国の首都が置かれていたコンスタンティノープルに建てられたユスティアヌス帝時代の教会)、イタリア・ラヴェンナのサンヴィターレ教会(西ローマ帝国最後の首都がおかれていたラヴェンナにあるモザイクで有名な教会)カ-ル大帝の宮廷礼拝堂(そのラヴェンナを訪れたカール大帝(シャルルマーニュ)がサンヴィターレ教会をモデルにたてた礼拝堂)、いまは遺跡になっていますが、第一ブルガリア帝国の首都プレスラヴにあった黄金教会など、いずれも二階部分があるビザンチン時代の教会は、宮廷礼拝堂や、首都の聖堂をたてるときに用いられた特別の建造物でした。

(これは内部。二階に回廊がある。ローマ時代の列柱が再利用されているのにも驚かされます)

中世クロアチア王国は、アドリア海の片隅に180年ほど続きました。けれど歴史的資料に乏しく、最初の首都が置かれていた場所が特定されていません。ニンからザダール周辺におかれていたようですが、学者のあいだでも諸説があり、はっきりとした確証はないようです。

9世紀、ビザンチン支配のもとに置かれていたこの地方を独立に導くきっかけをつくったのは、ザダールの北にある町ニンのブラニミル公。その後継者である初代国王トミスラヴがビザンチンから独立し、ローマ教皇から冠を得て建国したのが中世クロアチア王国です。

それとほぼ同時代のザダールにある二階回廊をもつこの都市形のビザンチン教会は、ことによるとクロロアチア公、あるいはクロアチア王の宮廷礼拝堂として使われていた可能性があるのではないかとも推測してみたくもなります。

1000年以上の時を超え、青空をバックに今も堂々と立つこの建造物に、中世クロアチア王国の謎を解く鍵が潜んでいるのではないかと、仰ぎ見るたびに夢想してしまう茶猫です。