噛噛堂 あと2112冊

遅読、積ん読、併読、乱読。それでも読んどく、70までの2112冊。いよいよカウントダウン。

チム・ラビットのぼうけん

2009年05月25日 | 噛噛堂のできるまで棚

アリソン・アトリー作/石井桃子・訳 中川宗弥・画    童心社  1967年初版

吉四六さんの次に手にした「本」が、チム・ラビット。
オヤジのおみやげだったんだな、これが。
読むとしたら推理小説か歴史モノってオヤジが、よくぞこれを選んでくれたものよ。
イギリスの児童文学が、石井桃子の名訳と、中川宗弥の美しきペン画により、どこか「日本」なうさぎのオハナシという、原作とはまた別の世界が生み出されています。
原作読んでないけど。
&この独特の世界をつくりだすのに貢献しているのが、活字。
今、手元にあるのは2004年の53刷版ですが、装丁も、挿絵も、何より活字が当時のまま。頑固にチムの世界を守ろうとしている童心社の良心よ。
ワープロやパソコンのフォントではとうていお目にかからなくなった、ハネやトメやテンがしっかりと滲まんばかりに紙に打ち込まれているような、「お」や「も」や「を」の美しさ。
だんだん老眼キビしき折りから、文庫の活字が大きくなるのはありがたいけど、新潮ですら講談社のよなまるまるとした活字になっちゃっちゃあ…と、つねづね「活字」ひとつでモノガタリ感がズレてしまうことに憤っていたこの身(目?)には、まったくもって宝石のごとくの「THE・本」であります。

今になってみれば、ものがたりそのものもさることながら、「紙」と「活字」という「本」ならではのマテリアルに魅せられていくことになった一冊だったのだなー、とつくづく思われるのでした。

そしてまた、上におさとうのついている、ぱりっとやけた、きいろいほっとけーきや、大きなほしぶどうけーきや、きのこのふらいという、食べたことはないけど、なんかおいしそうな食べ物の表現を、うっとりと、何度も何度も読み返すようになった事始めの一冊だったのだなー、とも思われるのでした。

Re 2冊目 (全8冊目)


サラリーマン劇薬人生相談

2009年05月23日 | 考え棚

「森に眠る魚」にて煩悩まみれの奥様方(ジブン含む)に遭遇したあとにゃ、なんだか悟りでもひらいてみたくなり…

ひろさちや    ベスト新書  2008年

人生相談の多くは、両方とも手に入れたいという相談者の欲張りに答えようとしています。そうすると、相談者の悩みはますます深まるだけです。わたしはそんな解答はしません。どちらかをあきらめなさいと言います。それが「劇薬」の意味です…(本文より)
その「劇薬」っぷりときたら、
「この人は結局、自分は偉いと思っているだけだと思いますね」 
「放っておきなさい」 
「これはどういう答えを求めているのでしょう?」 

とまあ、びしばしと、いっそ痛快なほど切り捨てて下さるわけですが、
ひろ先生、70過ぎたところでふと、いまさら過激なことを書いて誰かに暗殺されたところでもう元は取っている…と思い至りいよいよ遠慮がなくなったとか。
難を言えば、寄せられている相談があまりにもステレオタイプというところですが、ステレオタイプな分、どこかジブンに通じる範囲も広いというわけで、劇薬はびしばしとこちらに向けて効き目をあらわします。

「森に眠る…」彼女たちには、以下の一節を贈りましょう。(つーか、アタシももっともっと早くこの一節に出会っていたかった、かなー、うん)
われわれはみんな仏の子で、わたしのこの命はわたしのものではなく、わたしがお預かりしている命なのです。わたしの子供はわたしの子供ではなく、仏様の子供を親として預かっている。子供のなかには、目の見えない子供、足の不自由な子供もいるでしょう。
しかし仏様は、この子をオリンピック選手にしてくれなどとは頼んでおられないのです。
「この子を、この足の不自由なままで幸せにしてやってくれ」と頼んでおられる。
目の見えない子は、目が見えないまま幸せにしてやってくれと頼んでおられる。
勉強のできない子は、勉強ができないまま幸せにしてやってくれ、勉強がよくできる子は、勉強がよくできるまま幸せにしてやってくれと頼んでおられる…


「勉強がよくできるまま幸せに…」 それが一番難しいかも。知と智の違い。

new 6冊目 (全7冊目)

情報は1冊のノートにまとめなさい

2009年05月21日 | やってみたいん棚

やってみたかった。けど。ねぇ…


    


1、スケジュール(食べた物記録兼用)
2、かむかむ流家計簿
3、読書記録(インデックスのみ)
4、読書記録(気になったフレーズ書き留め用 ジャンル別に数冊)
5、読みたい本リスト
6、かむかむ流12年日記
7、健康記録(自分のと親の分で計2冊)
8、スクラップブック数知れず…
以上が一冊になるならそうしてみたかったんだけどね…

奥野宣之    ナナ・コーポレート・コミュニケーション  2008年

え?パソコンも使うの?
冒頭の、この段階で、すでにこの方法パス!

え?結局スケジュールは別にするわけ?
んじゃ結局一冊にならないじゃん!

え?(人にもよるが)だいたい2週間~1ヶ月で1冊だとお?
結局その時使ってるノートは1冊でも、過去ストックが膨大になるもんだから検索するのにパソコンが必要になるってわけか!

そしてなによりかにより。
スクラップ魔のあたしにゃあ、ページに貼りきらない記事は一部を貼って折る なんて罰当たりなことは生理的に無理っ!


かむかむ流家計簿とかむかむ流12年日記の方がネタとして売れそうな気がするな、こりゃ。

途中リタイアで冊数カウント外。

竜馬がゆく (二)

2009年05月20日 | 「この人」を見よ棚

あんまりつるつる読めるので、2巻目以降は図書館本利用~

司馬遼太郎    文春文庫  (初出版は1963-1966)

日本各地でカッカカッカと燃え始めた「尊王」の志士たちの中にあって、
竜馬は火の玉型ではない。というより、よほど巨大な火の玉なのか、一見タドンのごとくして容易に火がつかないのである。すくなくとも播磨介に逢ったころは、竜馬はまだ巨大なタドンにすぎなかった…(本文より)
タドンだよ~、タドンっ(大爆)
そんでまた、そのタドンっぷりの良さときたら、嗚呼…
タドンのくせして、剣を振ればシビれるほどのカッコ良さ、
女を前にすればピュアーで茶目でつねっちゃいたいほどのカワユさ。

男が惚れ、女が惚れる、ほんとーーーーの、俺様キャラ。 ここに在り。

new 5冊目 (全6冊目)

閉鎖病棟

2009年05月16日 | that's ものがたり棚

あっちゃあー!完全に勘違い。医療ミステリーだと思いこんでたー。

帚木蓬生    新潮文庫  1997年(1994年単行本)

だって裏表紙あらすじに「…その日常を破ったのは、ある殺人事件だった。彼を犯行へと駆り立てたものは何か?その理由を知る者たちは…」とこうきちゃあ。
確かに、最後の最後の最後に、殺人へと結実(?)はするけれど。
大部分はその理由を知る者たちやその知る者たちと同じ病棟にいる精神病患者の、各々の、ものがたり。

精神分裂病という病名は、人間を白人や黒人と呼ぶのと大して変わらないのではないだろうか。白人にもさまざまな人間がいるように、精神分裂病にもさまざまな人間がいるのだ。そんなふうに考えてから、チュウさんは自分の病名をとんと気にしなくなった。黄色人種という呼び名と同じだと思い、それなら主治医もやはり黄色人種だろうに、と少しばかり可哀相になるのだった。(本文より)

どうしても、「患者」を徹底的に描いた幸田文の「闘」と比べてしまいます。
すると、殺人に至らせる原因も、殺人そのものも、どこかつくりものめいて見えてしかたがないのです。
殺人なんてものを抜いたところでも、十分に勝負できそうな気もするのです。
まあ作者としては、敢えてもっともっとギリギリのところへと読者をひっぱりこみたかったんでしょう。
ただ、その意図が意図として丸見えになっている、というか。

どこかひっかかりの残る感動(?)作でした。

正直いうと、「パンティー」という単語表現が使われた段階で(しかも最初の方)、
「げげっ。使うか?その単語?!」
とまあ、生理的に引いちゃった違和感があとあとまで尾を引いたといいますか。
単語は吟味してお使いいただきたいものです。
え?
じゃあなんて表現すりゃいいんだよ、って?
ま、「ショーツ」じゃ時代背景的に早すぎますが、ならばクラシックに「したばき」あたりが妥当かと。
パンティーがまっとうな意味として許されるのは、下にストッキングと続く時だけなのだと男性諸氏は御心得くだされ。

new 4冊目 (全5冊目) 積んどく山制覇1冊目

森に眠る魚

2009年05月15日 | that's ものがたり棚

角田光代    双葉社  2008年
 繁田繭子が江田かおりの住む同じマンションに越してきたときに、ある歯車が回り始める。
久野容子と高原千花と小林瞳の子どもたちが同じ幼稚園に通い始めたときに、もうひとつの歯車が回り始める。
出会っただけのはずだったのに、幸せになれるはずだったのに、出会いは嫉妬と猜疑と葛藤と、途方もない孤独を連れてきた。
子どもたちの小学校受験を軸に、ものがたりは緊張を孕みつづけ、やがて訪れた臨界の後に、はたして「幸せ」を手に入れられたのは誰なのか…


はー。
「お母さんどうしのつきあい」ってのをほとんどやって来なかった…というより、
絶対、無理。 な体質気質にて、敢えて働き(すぎ)続けてきたわけで。
よって中盤までの不快感たるや! あっしにゃ関わり合いのない世界だよ感たるや!

しかし。
一人一人の小さいような大きいような些細なような重大なような、それぞれの事情がそれぞれの事情にからみあって、うえーどこまでぐちゃぐちゃになるんかいっそ楽しみなほど、ラストに向けて急速に疾走感は高まり、、、ある「臨界」を迎えるのですが。
その「臨界」で描かれるエピソードは、彼女としか表現されていないのです。
その彼女は、薫なのか。容子なのか。千花なのか。
でも、それを詮索する必要はないのです。
なぜなら、「彼女」は、だ。
と、そこで、「私のものがたりだったのだ」と、一緒に号泣するのですから。(ま、号泣じゃなかったけど)

森を抱えながらも歩き始めて行けるのは、誰なのか。
いっそ眠ったままだったなら…と眠りから覚めた身を持て余し続けるのは、誰なのか。
1996年から始まる4年の月日の果てに、誰がどうなるのか。
そういうミステリーとして読んでもいいかもしれません。

尚、思うことは多々あれど、好き嫌いでいえば単に好きではないので

new 3冊目 (全4冊目)

ゆかいな吉四六さん

2009年05月13日 | 噛噛堂のできるまで棚

絵本ではない「本」として、初めて手にした記念すべき「本」。
それが吉四六さん。
おばあちゃんが買ってくれた40年以上前の、そのまんまの装丁・挿絵で存在していようとは…
我が市の図書館にはなく、隣市から取り寄せていただいたわけですが、
窓口で受け取ったときには、思わず知らず「嗚呼…」とカンドーのため息でした。

富田博之  /装丁・挿絵-箕田源二郎
講学館 日本の子ども文庫3  1960年初版


どのハナシももちろん覚えていますとも。
擦り切れるほど何度も読んで、実際擦り切れて、学級文庫なんぞにも供出したもんだから更に擦り切れて、結局いつの間にか手放したわけで。
中でも忘れられないのは、豆腐の中にもぐり込んだドジョウ。
皆がドジョウ鍋をしようと鍋を囲んだところに「おっかあに食わせる豆腐をあっためてくれ」とやってきた吉四六さん。あっためるだけならとOKが出て、しばらくクタクタと豆腐は鍋の中…。「おっかあが待ってるから、じゃあ…」と吉四六さんが豆腐をすくって帰ったら、、、ドジョウがいないじゃんっ!
生きたまま鍋に放り込まれたドジョウたち、冷たい豆腐が投げ込まれたらこれ幸いとばかりに豆腐の中にズブズブもぐって避難していたとは…!

当時、ドジョウが好きでした。
その当時、魚屋さんには生きたドジョウを売る大きな木桶が必ずあったものです。
豆腐にもぐり込んだたくさんのドジョウ…
子ども心に、うっとりするよな美味の予感と共に記憶に残ったのは、吉四六さんの悪知恵。もとい頓知の数々。
庄屋さんにもお殿様にも、頓知でもって真っ向対決。
今の日本に必要なのは、こんな首相じゃないでしょうかね。

Re 1冊目 (全3冊目)

無宗教こそ日本人の宗教である

2009年05月11日 | 考え棚

島田裕巳    角川oneテーマ21  2009年
…無宗教は信仰の対象ではない。それは世界そのものであり、私の中にも広がっている。可能性はそこにしかないとも言える。まだ、無宗教についての考察ははじまったばかりなのである… (本文より)


タイトルで、どーんと引き込もうと企む昨今の新書事情からすると、
「○○である」
って、この言いきり型は、ヘタすりゃトンデモ本かもねと思いつつも、
「あなたは宗教を信じますか?」多くの日本人は、答えることができない(帯広告より)
ハイ、その一人ですから。
何か新興宗教にでもすーっと引き込まれるかのように(笑)、思わず手にとっちゃいましたよ。

いやいやいやいや、どうしてどうして、
他の宗教に対して排他的にならざるを得ない一神教。
「森」をダメにしてきたのも、この一神教ではないのか、ということを、名著「魂の森を行け」でも宮脇先生がおっしゃっており、つい先日の感銘がここでまたつながる読書リンクの醍醐味を味わいましたな。

キリスト教ではないし、ましてやイスラム教でもなく、
仏教かと言われてもうーんちょっと言いきれず、かといって神道もどうなんでしょ。
でも、無信心、というわけでもないのです。
そう思ったらぜひともご一読。
日本における各宗教のこれまでの浸透の経緯から、各宗教の特徴からを織り交ぜ、
そこはかとなく無宗教を自認するすべての日本人に自信と誇りと希望をもたらす、
スカッと爽やか解明本 でございます。

new 2冊目 (全2冊目)

竜馬がゆく (一)

2009年05月09日 | 「この人」を見よ棚

司馬遼太郎    文春文庫  (初出版は1963-1966)

「武士が敵をみて弱音を吐くか」
「吐くわい」
「されば、おんしァ、武士ではないのか」
「武士武士とがみがみいわンすな。耳が鳴るわい」
「されば、おンしァ、何じゃい」
「坂本竜馬じゃ」 ……(本文より)


寝小便たれの土佐の郷士の次男坊、竜馬。剣の修行に出た江戸で、不思議な魅力を周囲に感じさせる男となり、やがて「幕末」へ踏み込んでゆく青春の、はじまりはじまり…


司馬遼太郎。
15年ぶりくらいでしょうか。
たいてい、「上中下巻」「1~8巻」てな大作には‘対策’が必要な昨今。気力体力ととのえて、時間もアレコレやりくりし、
何より「他に読みたいヤツはこの間ストップかいっ」という難題をかかえつつ、おそるおそる読みだしたなれば。

あらま。こりゃ漫画。(いい意味で)
竜馬というキャラ勝ち男のせいでもあるのでしょうが、んまー、笑えること笑えること、つるつる読めること読めること。

考えてみればこの15年のあいだに、
宮城谷昌光とか(おもしろいけど大河モノばかり)、
吉村昭とか(長くはないけどかなり歴史資料チック)、
司馬級ジャンルもそこそここなしていて、基礎体力はさほど衰えてはいなかった様子です。

今のところ、つい先年の「篤姫」竜馬の玉木宏がどうしても浮かんでしかたがないのですが。
ですがしかし、残っている竜馬の肖像写真を見る限りでは、山西惇(サラリーマンNEO)あたりをハメるのが正解なのか。
久しぶりに、次巻の待ち遠しい読道のスタートです。

new 1冊目 (全1冊目)