CocoMani Diary

♪日進月歩日々炸裂日々色々思う事♪見た事 聞いた事云わんとする事♪ブライトサイドとダークサイドの共存場所♪

偽という皮肉 フィルター越しでの何か

2007-12-22 14:45:45 | レギュロギー
偽。。。
この漢字は皮肉な存在である。
人が為す/人の為/人の為り
人による人のための、、結果それは人のいつわり...

リンカーンがが言ったのは、[of the people, by the people, for the people,]
まぁこれは政治用の言葉だけど、peopleを人と解釈すれば、まさに「偽」を英語で解説したようなもんだ。深読みすれば、政治は偽...なんちって。

~~~本題~~~
どの世界でも共通して起こる現象がある。

「結局...、文句、疑問は張本人に言わない」

ようするに外野で野次とばしをしていたり、他人から聞いた話、他人が解釈した話をモトにして持論を展開する現象だ。または、自分の目で見たとしても、その「見た物」は、結局誰かが作ったり編集してあるもので、決して「エッセンシャル」なものではなかったりする。それを承知で何かを語ろうとしても結局は本質から逸脱した内容になってしまって、あまり建設的ではない。

ウェブの世界でも同じだ。ワタシも自分で経験があるので苦い思いをしたことがある。もっぱら英語だったので、その話されている内容も直に理解することが出来、結果的には理解への道に繋がったのだが。
その理解への道に繋げてくれたのは、「ワタシと直接連絡をとる人物が正直であった」ことが幸いしていたのであろう。
ワタシが全く意図していないような事を、ありとあらゆる憶測と偏見で作り上げ、それが正論かのように振舞い発言する。そういった持論を展開するのは勝手だが、基盤の違う上に正義・正論の仮面を被って言われるのは、非常に悲しいものだ。

疑問に思うことは良いことだし、その疑問を投げかけることは大切だ。
しかし、その疑問も、「否定姿勢ありき」で進んでしまうと、それは実は「感情論」でしかなくなる。
実際、「否定する意識」には、「感情」からくる何かがある。
その何かを見つけ出せれば、たいていバランスの取れたディベートが出来るはずだ。
だから、出来れば、自分自身が「肯定派・否定派」の両サイドに入れ替わって、同等の仲間とディベートできることが好ましい。しかし、「同等レベル」でないと、それはディベートではなく喧嘩になってしまうが。 笑

また、本来「○」について話しているはずが、いつのまにか対象がずれてしまって、「○を利用して◎を批判した」という、本末転倒な結果もあるようだ。

話はもどるが、そういったように外野でワイワイ言うのはもちろん勝手ではあるが、それが否定的な見解である場合は、礼儀として「本人に聞く」ことが当たり前であろう。そこで矛盾が出るのか、理路整然としているのか、何かの理由があるのか、考えればいい。
だいたい、「そんな意図はないのに、ネガティブに解釈されていたみたい」ということは多いものだ。または、「そんな意味ではないけど、こちらがわの言葉が足りなかったみたいね」と両方にとって気づくきっかけにもなるから、頭から否定的な言動をする前に、疑問を投げかけてみよう、と思うのだ。

否定的な感情の反対側に存在する感情、すなわち肯定的に思う対象がひとつくらいはあるはずである。
そして...。
肯定した度合いが片方に偏っていればいるほど、比例したかのように否定的な度合いも同様に偏ってしまい、自分と反する意見のものを排除しようとする。
この現象は、全くの逆の立場にも当てはまる。
あまりに否定しすぎて、疑問をを持たないと、疑問の材料となる肯定的要素を排除してしまおうとする。

不思議なことに、これをを書いていても、その相反する立場というものを考察するのに両方の存在が必要になっている 笑
肯定派を肯定する
肯定派を否定する
否定派を肯定する
否定派を否定する
その真ん中を見出すのにも、この両者が必要だ。難しい。しかしわざわざそんな定義付けが必要があるのか、と、それこそ疑問に思ってしまった。笑
でも、うだるような暑さと凍えるような寒さの真ん中が楽に感じるのと同じで、それもまた、極暑と極寒があって、それで24℃がちょうどいい、という体感での勉強とも似たものなのかとも思ってみたり...。

このバランスを保ってゆくのは、非常に難しいし、かなりのエネルギーをも必要とする。もちろん感情的なものには感情コントロールも必須になってくる。
こういった現象はいろいろなことにも当てはまるであろう。


また、よくテレビで見かける人々もそうである。あくまでもこれは一例だが。
一躍有名になったが為にいわゆる「有名税」と呼ばれるイヤガラセなどを受ける代償である。
たとえば、その有名な人が「◎○■」という何かで有名になった。しかし、ソレ=その人 という「ブランド(+)、レッテル(ー)、」という二つの面を持つことになる。幾度か有名人に会って話を聞く機会があったのだが、テレビ・雑誌等のイメージ等とは随分違う印象があった。彼ら彼女らは、そのブランドとレッテルの中で、出来るだけ自分らしさを殺さずに自分らなりに生きてゆく道を歩んでいるようだが。
しかし、そのブランド名が大きければ大きいほど、本来求めていたものに近づけなくなることもある。その殻を破って捨てるのか、利用するのかは、本人の自由ではあるが、かなりの感情コントロールが必要であろう...。
ようするに、「伝えられたその内容は全てではないし、本質・事実は伝えられていないかもしれない」と。

小学生の時に「伝言ゲーム」というゲームを何度もやった。今でも学校で使われているかは知らぬが、これはどんな事柄にも当てはまる「人による伝達のされ方の事実」を客観的に、かつ単純に教えてくれたゲームだと思う。


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2 コメント

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憶測の憶測による憶測のための… (K.Qawa)
2007-12-22 15:45:19
以前、自分の予知夢に本格的にこだわりだしたごく初期の頃、匿名某所に書き込みをしたことがありました。
そしたらそこでは、本人からいわせればまるで真実ではない「誰と誰とはチームを組んでいる」とか「この人物は○○だ」とかいう憶測がさも真実であるかのように語られるのですね。
そうやって「真実」が容易く捻じ曲げられていってしまう。ウソがウソを呼んで巨大なウソのカタマリになる。「本人」が「これが真実だ」と述べたとしても、誰もそれを信じない。
メディアも金儲けや視聴率など「目先のこと」に囚われ過ぎだし。
こないだのおばあちゃんと幼女二人の殺害事件の時なんかもまさにその典型だったんではないでしょうか。

…そんなわけで、「自分で確かめたこと」以外は態度保留にしてそのアイマイさに耐えることが大事かなとその時学んだっす。
それに、「自分自身がときどき夢で未来を見る」というのはどうやら疑いようのない事実だしね。
http://hamoblo.com/kqawa/index.php?type=1&entryId=547
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肯定しすぎな感じ感 (CocoMani)
2007-12-23 02:05:56
K.Qawaさん:
22日の追記で書かれていた部分についてです。
やはりメディアの取り上げ方というものには不安がありますね。
これが危惧していた「木を見て森を見ず」であって、ジュセリーノ氏を何としてでもヒーローに仕立て上げるが、後は何があっても責任を取らないマスコミという未来図です。
ちょっと不安に思っていたんですが、肯定した演出が派手だったな、と。

その状況を是非とも日テレさんとプロデューサーさんに聞いてみたいものです。そしてジュセリーノ氏は、どういった状況と説明されてその撮影をしたのかも本人に聞いてみたいですね。
なんかこういう状況よく耳にしますから(笑

テレビで取り上げられることの代償の大きさと、情報操作と世論操作をしているのは小泉政治の時から顕著でした。みのもんたなど、ちょっと節操の無い人物が司会だったのも不安な材料の一つでしたがー。
こうしてまた幼稚な論争が始まるのかと思うと、もう仕方無い気持になります。いろんな意味で淘汰されるべき時代なんでしょうか。

あまり深追いしません。自分は自分であることに変わりないというスタンスは、予知夢をみた人、第三者的でもそれを体験したりした人にはゆるぎないことでしょうし。それを利用したい人は利用すればいいでしょう。なんて思っています。(^^;
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