CocoMani Diary

♪日進月歩日々炸裂日々色々思う事♪見た事 聞いた事云わんとする事♪ブライトサイドとダークサイドの共存場所♪

終 末 論

2008-03-14 02:46:57 | レギュロギー
 いつの時代にも週末ロン、、、ってマージャンじゃなくて、「終末論」たるモノがついてまわる。それで、その起源ってなによ、と思ってみると、それが聖書だったり預言書だったり、地元の霊媒師さんのお告げとか、いろいろな「源」がある。
で、なんでそんなに人類は終末論とともに生きているんだろうか、と思っていた。ワタシ自身は「形ある物はいつか壊れる」と思っているので、それが「肉体」だったり「生態系」だったり、身近な物で言えば「生活用品」だったりもする。

 でも、形のないもの、、、すなわち「見えていないもの」には終わりはないんだろうか?と、ふっと疑問に思う。それは結局死後に「魂」の存在を信じるか信じないか、というような宗教的発想に基づく思考になっていくんだろうと思う。ワタシ自身は「死後の魂は有った方がいい」と思っている。なぜならば、「死んで全てが終わり」だったら、ゲームのごとく、失敗したり、
今が嫌だったら「リセット=死=END」してしまえば、何も残らない。だから、今をがんばる努力ができなくなってしまう。

 でも、仮に「死後の世界」、いわゆる「霊的な世界」というものが存在していて、それが、今ワタシが生きている(=自意識を認識している状態で肉体がある)時に自分がおこなったこと、経験したこと、などが、その霊的な世界に関係してくるとすれば、「今」をどれだけ経験できるかが大事になってくるんだと思う。

 経験っていったって、ただ単に沢山何かを行ったとか、そういった表面的なことじゃなくて、その行動を通してどれだけ「考え、試行錯誤し、悩み、苦しみ、喜び」を「自他共の成長のための栄養にできたか」という、結局見えない部分の経験なんだと思う。これは履歴書の類なんかには書かれない項目だし、口でいったところで、それこそ「ふ~ん」とよくわからない分野でもある。

 なのに、そんなに経験が大切で、喜びや楽しみもある、この世の中に生きていて、なぜに「終末論」だけは消えないのかー。まだまだ結果は先になるがー。

 この人類自体、意識と形を持った生き物だ。ほかの生物も同じだ。
最近流行りの「クジラを獲ることは悪で、他の動物を撃ち殺すハンターを趣味とすることは悪くなくて、もっと以前の問題で、牛やブタや鳥や馬、その他の動物を獲って食べることは悪くなく、しかもあまれば廃棄される、、、」なんて、「生」の基準自体一環した軸が存在していない。ましてや「戦争で無垢な人達を殺すことを正当化している輩の存在」こんな理不尽な理屈とか。
すくなくとも人間という生き物の間では命の重さは平等なんていう言葉、、、いうまでもなく矛盾の極みだ。。。

 人間以外の動物は趣味で他の動物を殺したりはしない。あくまでも生き残りのための必要最低限の営みだ。

 人間を生き物と考えてみると、人間がいかに知能が高いかということは否定することもないが、ただ、どうもその高い知能の代償で「精神」がおかしくなってきたような気がする。
笑いながら生き物を殺す。
感情で命をうばう。
家族であれ、友人であれ、殺す。それが感情のもつれかカネ目的なのか、それぞれである。

 そして、資本主義経済上で、今社会は音をたてて崩壊している。
国というまとまりは、「金」に事実上「支配」されている。「カネ」は人を依存させるためのツールだった。でも、見事にその旨みを知ってしまった人間は、その支配に負けてゆく。

「猫に小判」「ブタに真珠」一般的には「たかが動物に、この価値なんてわからないよ」という意味合いで使われるが、発想をひっくりかえせば、全くそのまま逆の意味である。
人は「カネ」や「装飾品」に支配されて、「聖なる生/性」の深い意味なんど考えない愚かな生き物になってしまった。

 それで...普通に考えて「今の人間社会」は「異常」だとおもうし、地球温暖化だのなんだの、結局私たち一般人はエネルギー利権のマリオネットにすぎないと思う。
でも、この文章を書いている今でさえ、電気を使っているし、炊事洗濯すら便利にできるよう、いろいろ工夫されている。便利な電話だって、メールだって、すべてエネルギーのオカゲだ....でも、本当に「地球と共存」しようと思って現代社会をつくるべきというのなら、今全ての経済活動を一転しない以上は無理だと思う。軍需産業、原発産業、、、その廃棄ブツの処理のメドすら出来上がっていないのに。

 もし「自分が地球だったら。地球の気持ちになったら」
まっさきに人類は淘汰されるべき生き物ではないか、と、ワタシは感じた。地球を守るなんていうが、その守る対象である地球を壊したのは人類でもある。ようするに自業自得である。ワタシも同罪だ。しかし、人間は動物以上に喜怒哀楽と思慮の深い生き物だ。だから本来ならば深くて面白いものなんだろう。

それで、たぶん「人間の奥深くに無意識集合体が存在」(または連結して)あって、将来的に自分達は淘汰されなければ、これからの自分らの「成長、向上」が不可能になる。という自爆的な希望が少なからず存在しているんじゃないかと思った。それだけではない。女性の生理の原理だって同じようなものだ。わざわざ周期的に胎盤を剥がし捨てるのだから。

 実際、太陽系レベルでの変換期もあるようだし、太陽の光の伝達の仕方も、目に見えて変化している。

 生きているものはいずれ「死ぬ」。これは全ての生きているものに共通する宿命だ。そして、それは「実は縮小された未来図」であって、いずれもっと大きな存在にも(宇宙?地球?)「淘汰の波と新しい波」がサイクルしている、ということなんじゃないかと思う。
いままで「終末論」に怯えてきた昔の人々は、「その世の中の終わり」の前に、自分の肉体が「終わってしまった」。でも、その古き意識はどこかで生きていて、その「自然の摂理」という、ごく普通のサイクル、または生態系の変化という「1時代の終わり」が、その時代時代の「終末論」に繋がっているんじゃないかと思った。

 死への恐怖が、どういったものか、ワタシはまだわからない。もし自分が感じる死の恐怖といえば、この世から去ってゆくという「寂しさ」のようなものかもしれない。ちょうど、卒業式に、胸から込上げてくる熱い感情のようなものだ。でも、周りの人間が死んでしまったら、肉体の儚さと、人を失うことに、非常に大きな悲しみが自分を包むであろう。これが恐怖かもしれない。
「失うこと」これが一番怖いのかもしれない。

 人間が今を生きる中で、無意識に感じている「矛盾と淘汰」&「自然の摂理」、これが実は集団意識として「終末論」としての概念で感じ・伝えられているのではないかと、実はそんなふうに考えた。

 ちなみにワタシは終末論に対して恐怖はない。むしろ、いずれ向かえなければならないと思っている。理由は「それが自然の摂理だから」という自論の上に感じることだからだ。というけど、これがワタシが生きている間にドウニカなっちゃうのか、それともまた一世紀ほど形を変えて云われ継がれるのか、そりゃその時になってみないとわかんないけどねっ。

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...でも...痛いのとか、苦しいのとか、そういった現実的な苦痛って、やぱりヤダ。。。痛いのヤダ~~~!