港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


献立は…  
シネマ・ポップス…ときどきイラスト

『9月28日』その2

2019-09-27 18:35:16 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ブリジット・バルドー Brigitte Bardot (1934.9.28~ )



BB(べべ)の愛称で、可愛い小悪魔として世界中のセックス・シンボルとなったフランスの女優です。
航空会社を経営する実業家の父親と保険会社の重役の娘であった母親というブルジョワ家庭にパリで生まれました。
幼い頃からバレエを習い、16歳の時にモード雑誌のモデルやカヴァーガールをしていた時に、当時はジャーナリストであった
ロジェ・ヴァディムと出会い、彼の推薦でマルク・アレグレ監督の映画に端役で出演しました。これを機にバルドーは18歳
の時に両親の反対を押し切ってまだ助監督だったヴァディムと結婚、その後数本の映画に出演していましたが、1956年に
ヌーヴェルヴァーグのハシリといわれるヴァディム監督の『素直な悪女』に主演、若いバルドーの妖姿を前面に映しだした
この作品は映画界に大きな衝撃を与えました。
しかし、男達を翻弄する小悪魔なのは映画だけにとどまらず実生活も同様で、ヴァディムとの離婚、さらには繰り返しての
自殺未遂など数多くのゴシップを垂れ流しました。特に1960年の『真実』撮影中にアンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督と
恋に堕ちてクルーゾー夫人のヴェラが自殺したことは大きなニュースにもなりました。
その後もセクシーな魅力で映画出演を続けましたが、年齢的な衰えが顕著に見受けられるようになり、1973年のヴァディム
監督の『ドン・ファン』を最後に映画界から引退し、動物愛護活動家として現在も活動中です。

【主要出演作品】
1952年『ビキニの裸女』la fille sans voiles

1953年『想い出』Un acte d'amour
1955年『わたしのお医者さま』Doctor at Sea

1955年『夜の騎士道』Les Grandes manoeuvres
1955年『わたしは夜を憎む』La lumière d'en face
1956年『トロイのヘレン』Helen of Troy

1956年『この神聖なお転婆娘』Cette sacrée gamine

1956年『裸で御免なさい』En effeuillant la marguerite
1956年『素直な悪女』Et Dieu... créa la femme

1957年『殿方ご免遊ばせ』Une parisienne
1958年『月夜の宝石』Les Bijoutiers du clair de lune

1958年『可愛い悪魔』En cas de malheur
1959年『私の体に悪魔がいる』La Femme et le pantin
1959年『バベット戦争へ行く』Babette s'en va-t-en guerre
1959年『気分を出してもう一度』Voulez-vous danser avec moi?
1960年『真実』La vérité

1961年『何がなんでも首ったけ』La Bride sur le Cou
1961年『素晴らしき恋人たち』Amours célèbres

1962年『私生活』Vie privée

1962年『戦士の休息』Le repos du guerrier
1963年『軽蔑』Le Mépris

1965年『ビバ!マリア』Viva María!

1967年『セシルの歓び』À coeur joie

1968年『世にも怪奇な物語』Histoires extraordinaires
1971年『ラムの大通り』Boulevard du Rhum

【主要歌唱曲】
『シドニー』(映画『私生活』主題歌)


『パリ・パリ・パリ』(映画『ビバ!マリア』主題歌)



☆ヘレン・シャピロ Helen Shapiro (1946.9.28~ )



独特のハスキー・ヴォイスで人気を集めてイギリスで一時代を築いた女性ポップシンガーです。
祖父と母がヴァイオリニスト、兄がドラマーという音楽一家にロンドンで生まれました。兄の影響でそのジャズ・バンドで
バンジョーを弾きながら唄っていましたが、「Foghorn」と呼ばれたハスキー・ヴォイスが注目され、EMIのプロデューサー、
ジョン・シェローダーに認められて、1961年に14歳でデビュー、初のシングル盤『子供じゃないの』がいきなり全英3位の
大ヒットとなり、続く『:悲しきかた想い』と『夢見る恋』が全英No.1となって輝かしいスタートを切りました。
1961年及び1962年と2年続けてイギリス最優秀女性シンガーに選ばれ、ビートルズを前座として引き連れて英国内ツアーを
行うなど人気歌手として一時代を築きました。
しかし、1964年の "Fever" を最後にヒット曲が途絶え急速に人気も下落し、その後はミュージカルやジャズ、ゴスペルなどで
活躍を続けていたようですが日本では全く耳にすることはありませんでした。
日本でもラジオ番組【今週のベストテン】で『:悲しきかた想い』『子供じゃないの』『夢見る恋』の三曲を同時にベストテン
入りさせる輝かしい記録を打ち立てました。

【主要歌唱曲】
1961年『子供じゃないの』Don't Treat Me Like A Child 全英3位【YOUTUBEより】

1961年『:悲しきかた想い』You Don't Know 全英1位【YOUTUBEより】

1961年『夢見る恋』Walkin' Back To Happiness 全英1位 視聴 
1962年『涙のかた想い』Tell Me What He Said 全英2位 視聴 
1962年『恋にハッスル』Not Responsible 視聴

また、若さとパンチの効いた『悲しきハート』のスーザン・シンガーはヘレン・シャピロの従姉妹でした。
スーザン・シンガーはこのコーナーで紹介予定がありませんので、『悲しきハート』を貼っておきます。
↓はスーザン・シンガーの『悲しきハート』【YOUTUBEより】



【ご命日】

★アーサー・ペン Arthur Penn (1922.9.27~2010.9.28)



TVのディレクター出身でニュー・シネマ『俺たちに明日はない』で注目されたアメリカの映画監督。
主な監督作品として『左ききの拳銃』『奇跡の人』『逃亡地帯』『俺たちに明日はない』などがある。


★マイルス・ディヴィス Miles Davis (1926.5.26~1991.9.28)



「モダン・ジャズの帝王」と称されたトランペット奏者、バンドリーダーで20世紀を代表するジャズ・ミュージシャン。
主な演奏曲として『ラウンド・ミッドナイト』『死刑台のエレベーター』『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』などがある。

『9月27日』

2019-09-26 21:55:02 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆アーサー・ペン Arthur Penn (1922.9.27~2010.9.28)



TVのディレクター出身でニュー・シネマ『俺たちに明日はない』で注目されたアメリカの映画監督です。
ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれ、ハイスクール卒業後は地元の素人劇団に入りラジオドラマなどにも出演して
いました。第二次大戦で除隊した後ジョシュア・ローガン主催の劇団に入り公演で各地を回り、1953年にNBC・TVに入社、
そこで数々の番組の演出やプロデュースを手掛け、1958年に映画『左ききの拳銃』で監督デビューを果たしました。
その後、ブロードウェイの演出にも携わり『奇跡の人』の舞台を演出、1962年にはこれを映画化して話題をさらいました。
1966年に重厚な話題作『逃亡地帯』を発表したのに次いで、1967年にはアメリカン・ニュー・シネマの先駆けとなった
『俺たちに明日はない』を監督、ハリウッド色を一掃した生き生きとした青春像を描き上げハリウッドでは考えられなかった
自由な発想・発言でニューヨークの批評家たちを大いに唸らせました。
1969年に『アリスのレストラン』を監督した後は映画のほかにも舞台やTVの演出など幅広い活動を続けました。

【主要監督作品】
1958年『左ききの拳銃』 The Left Handed Gun

1962年『奇跡の人』 The Miracle Worker

1966年『逃亡地帯』 The Chase

1967年『俺たちに明日はない』 Bonnie and Clyde

1969年『アリスのレストラン』 Alice's Restaurant 

1970年『小さな巨人』 Little Big Man



【ご命日】
★クララ・ボウ Clara Bow (1905.7.29~1965.9.27)



「イット・ガール」と呼ばれて一世を風靡したもののスキャンダルなどで自滅してしまったハリウッド女優。
主な監督作品として『あれ』『赤ちゃん母さん』『つばさ』『フラ』『フープラ』などがある。

『9月26日』

2019-09-25 18:16:33 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ジュリー・ロンドン Julie London (1926.9.26~200010.18)



映画の端役からスタンダード歌手に転身して成功したアメリカの女優・歌手です。
カリフォルニア州サンタ・ローザで生まれました。両親はヴォードヴィリアンでラジオ番組を持っていて彼女も幼い頃に両親の
ラジオショーに出演して歌を披露していました。1941年にハイスクールを中退してデパートのエレベーターガールとして勤務
していた時にスー・キャロル(アラン・ラッド夫人)にスカウトされユニヴァーサル社と契約して映画界に入りました。
1944年に『ジャングルの妖女』で映画女優としてデビューしたものの端役ばかりで芽が出ず1950年には一時引退となりました。
1953年頃からボビー・トゥループ(後に夫君)の勧めで歌手として芸能界へ復帰し、ナイトクラブで歌うようになり、1955年に
リリースしたファーストアルバムの一曲『クライ・ミー・ア・リバー』が全米13位の大ヒットとなり、1957年に制作された
映画『女はそれを我慢できない』で歌声を披露しました。
その後も自身のオリジナルは殆どありませんが名曲のカヴァーなどで人気歌手となり、1964年にはボビー・トゥループ楽団
と共に来日してスタンダード曲を熱唱し日本でも根強い人気を保ち続けました。

【主要出演作品】
1944年『ジャングルの妖女』Jungle Woman

1947年『赤い家』The Red House

1948年『愛と血の大地』Tap Roots
1949年『機動部隊』Task Force
1950年『帰って来た男』Return Of The Frontiersman
1957年『女はそれを我慢できない』The Girl Can't Help It

1958年『西部の人』Man Of The West

1967年『ギャング紳士録』The George Raft Story
1967年『0011ナポレオン・ソロ スラッシュの要塞』The Helicopter Spies

【主要歌唱曲】
『クライ・ミー・ア・リバー』Cry Me A River【YOUTUBEより】

『いるかに乗った少年』Boy on a Dolphin 視聴
『帰ってくれたら嬉しいわ』You'd Be So Nice To Come Home To 視聴
『ミスティ』Misty 視聴
『想い出のサンフランシスコ』I Left My Heart In San-Francisco 視聴
『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』Fly Me to the Moon【YOUTUBEより】

『酒とバラの日々』The Days Of Wine And Rose 視聴
『この世の果て迄』 The End Of The World 視聴
『モア』 More 視聴
『蜜の味』 A Taste Of Honey 視聴


☆マーティ・ロビンス Marty Robbins (1925.9.26~1982.12.08)



米国を代表するカントリー歌手として息の長い活躍を続けたシンガー・ソング・ライターです。
アリゾナ州グランデールの貧しい家庭に生まれました。17歳で米国海軍に入隊し、第二次大戦後はアリゾナ州フェニックスの
クラブなどで音楽活動を開始し地元TVで自らのショー番組を担当して人気を集め、1951年にコロンビア・レコードと契約を
交わしました。1952年のシングル "I'll Go On Alone" がカントリー・チャートの1位になるなどカントリー畑で大いに活躍を
していましたが、1957年の『ホワイト・スポーツコート』がビルボード3位のゴールドディスクとなってポップス畑で成功を
収め1960年の『エル・バソ』は全米1位に輝き、以後米国を代表するカントリー・シンガーとして息の長い活躍を続けました。
1962年には西部劇映画に俳優として出演、また、カー・レーサーとしても活躍するなどの多才ぶりを大いに発揮しました。

【主要歌唱曲】
1957年『ホワイト・スポーツコート』White Sport Coat 全米3位【YOUTUBEより】

1959年『縛り首の木』The Hanging Tree 視聴
1960年『エル・バソ』El Paso 全米1位 視聴
1962年『悪魔の女』Devil Woman 全米16位【YOUTUBEより】



☆オリヴィア・ニュートン・ジョン Olivia Newton John (1948.9.26~ )



日本のイルカ捕獲問題で物議を醸したオースリラリア育ちのイギリス人女性ポップシンガーです。
イギリスのケンブリッジに生まれ、父親の仕事の関係で5歳の時にオーストラリアのメルボルンに移りそこで育ちました。
14歳の頃から学友とバンドを組んでバーなどで歌い始め、1965年に出演したオーディション番組で優勝し、ソロでリリース
したアルバムが英国で評判となって母親と英国へ帰国しました。1966年にはソロ歌手としてデビューしましたが失敗に終り
あらためてクリフ・リチャードの事務所でバックコーラスとして活動を再開しました。
1971年にリリースした『イフ・ノット・フォー・ユー』がヒットし、続く『カントリー・ロード』に続いてリリースした
『愛の告白』と『そよ風の誘惑』が全米No.1の大ヒットとなりました。
また、日本のイルカ捕獲に反対して来日を拒否するなど物議を醸しましたが、後日にはイルカの件に理解を示してそれ以降
何度も来日して日本のファンの期待に応えました。

【主要歌唱曲】
1973年『カントリー・ロード』Take Me Home Country Roads 全英15位 視聴
1974年『愛の告白』I Honestly Love You 全米1位 視聴
1975年『そよ風の誘惑』Have You Never Been Mellow 全米1位【YOUTUBEより】



【ご命日】

★ビリー・ヴォーン Billy Vaughn (1919.4.12~1991.9.26)



サックスをフィーチャーした独特のサウンドで1950~60年代に人気を博したビリー・ヴォーン楽団の指揮者。
主な演奏曲として『浪路はるかに』『星を求めて』『港の灯』『峠の幌馬車』『真珠貝の歌』などがある。


★ポール・ニューマン Paul Newman (1925.1.26~2008.9.26)



演劇・舞台・ブロードウェイ・TVドラマから映画界入りしたアメリカの男優。
主な出演作品として『傷だらけの栄光』『栄光への脱出』『ハスラー』『明日に向って撃て』などがある。


★ティノ・ロッシ Tino Rossi (1907.4.29~1983.9.26)



囁くようでセンチメンタルな歌唱法が「魅惑のシャンソン」と称されて人気を博したフランスのシャンソン歌手。
主な歌唱曲として『マリネラ』『小雨降る径』『アマポーラ』『夜のヴァイオリン』などがある。


『9月25日』

2019-09-24 16:53:03 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ロベール・ブレッソン Robert Bresson (1901.9.25~1999.12.18)



独自の厳格なスタイルで映画史に傑作を残した孤高のフランス人映画監督です。
ピュイ・ド・ドーム県ブロモン・ラ・モトで生まれ、パリ近郊のリセラカナルで絵画を学び画家・写真家などを経て脚本を
書くようになって映画界入りしました。1934年には風刺的な中編喜劇『公共問題』を監督したものの後に自らの手で破棄
してしまいました。1940年に第二次大戦に従軍したのですがドイツ軍の捕虜となり、この時にブリュックベルジェ司祭と
捕虜収容所で遭遇、これがブレッソンの人生の岐路となりました。一年半後に釈放されると同司祭の依頼を受けて1943年に
ベタニ修道院を舞台にした『罪の天使たち』を監督、職業俳優を一切使うことなく修道女たちの葛藤や憎しみそして友愛を
清澄かつ簡潔という映像の基本に立ち帰って描き上げ、その斬新な手法が大いに注目されました。次いで1945年には哲学者
ディドロの小説『運命論者ジャック』の逸話を現代風に書き換えた『ブローニュの森の貴婦人たち』を監督し、この作品で
台詞を担当したジャン・コクトーたちと「カイエ・デュ・シネマ」の母体とも言うべき組織「オブジェクティフ49」に参加、
そこでアンドレ・バザン、アレクサンドル・アストリュックたちと意見を交わすようになりましたが組織の主宰者であった
ジャン・ジョルジュ・オリオールの死去に伴って1950年に解散となりました。
その1950年にはカソリシズムの内面に深く分け入った『田舎司祭の日記』を監督、文学と対等となる清澄な映像を切り開き
ヌーヴェルヴァーグを予告した作品として高く評価されました。
次いで、1956年の脱獄劇『抵抗』で全編を通じて一人の男を事細かく凝視、1959年の『スリ』において青年の疎外感・孤独感・
虚無感を鮮明に浮き彫りにし、1962年の『ジャンヌ・ダルク裁判』では裁判の再現を通じてジャンヌの苦悩と葛藤を独特の
手法と映像で克明に描き切り、孤高の世界を確立させました。
ブレッソン作品の特徴は、映画は主張や雰囲気を物語る挿絵ではなく、作家自身の魂そのものであるという作家主義の原則
に基づいており(当然そこには商業性は存在しません)、またプロ俳優の人工的な芝居がかった演技を嫌い職業俳優を排除した
ことで感情表現を抑制し、前衛映画を思わせる一切遊びのない視覚的映像の創造によって、結果的に独自の厳格な作風を
築き上げています。
ブレッソンはその後も『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』などの作品を残しましたが長編作品はわすが13本に
とどまり、その半数以上が日本で劇場公開されていないのが残念です。

【主要監督作品】
1934年『公共問題』Les Affaires publiques
1943年『罪の天使たち』Les Anges du péché

1945年『ブローニュの森の貴婦人たち』Les Dames du Bois de Boulogne

1950年『田舎司祭の日記』Journal d'un curé de campagne

1956年『抵抗』Un condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut

1959年『スリ』Pickpocket

1962年『ジャンヌ・ダルク裁判』Procès de Jeanne d'Arc

1966年『バルタザールどこへ行く』Au hasard Balthazar

1967年『少女ムシェット』Mouchette



☆ジャン・ソレル Jean Sorel (1934.9.25~ )



二枚目を売り物にフランス、イタリアなどで主役級の活躍をしたフランスの俳優です。
父方がフランスの侯爵家という名家にマルセーユで生まれました。中等教育を受けた後にエコール・ノルマル(フランス国立
高等師範学校)に入り、1957年頃にアルジェリア戦線に従軍、その時同じ部隊にいた俳優のクロード・ブラッスールに勧められ
除隊後にパリに出て舞台俳優になりました。1959年にジャック・ブールドン監督に認められて映画『殺したいほど好き』の
主役に抜擢されて華々しいデビューを飾りました。その後も二枚目のマスクを買われてフランス、イタリアなどで主役級の
活躍を続けましたが、1980年代以降は活動の場をテレビに移しました。

【主要出演作品】
1959年『殺したいほど好き』Les Lionceaux
1960年『十七歳よさようなら』 I dolci inganni 

1960年『狂った情事』 La giornata balorda 

1962年『橋からの眺め』A View from the Bridge

1962年『祖国は誰れのものぞ』 Le quattro giornate di Napoli
1963年『めんどりの肉』 Chair de poule
1964年『輪舞』 La ronde
1964年『スタンダールの恋愛論』 De l'amour
1965年『バンボーレ』 Le bambole
1965年『熊座の淡き星影』 Vaghe stelle dell'orsa

1967年『昼顔』 Bell de jour 



☆ウーゴ・ブランコ Hugo Blanco (1940.9.25~2015.6.14)



オルキデアのリズムで世界を魅了したベネズエラのアルパ(インディアン・ハープ)奏者、楽団指揮者。
カラカスで生まれ、15歳の時にクワトロと呼ばれる四弦ギターを習得して後に民族楽器のアルパもマスターしました。
1958年にベネズエラ中央大学で治金を学んでいた時に自身が考案したリズム「オルキデア」による『コーヒー・ルンバ』を
作詞・作曲しました。登録上の作詞・作曲は彼の叔父のホセ・マンソ・ペローニとなっていますが、一説では本当の作曲は
ウーゴが当時18歳の未成年であったことから、ウーゴの代理として代わりに叔父の名前で登録されたともいわれています。
また、リズムの「オルキデア」はベネズエラの国花に敬意を表して「蘭」(Orquidea)と名付けられそうです。
この軽快で陽気な『コーヒー・ルンバ』は瞬く間に世界中を駆け巡る大ヒットになりましたが、この曲はタイトルにあるように
「コーヒー豆を挽きながら」という意味で、コーヒー農場の製粉所で夜中までコーヒー豆を挽き続ける混血児マヌエルの悲哀を
歌ったもので、農園で強制労働させられてまともな恋もできない奴隷の身分を嘆く悲しみがテーマとなっていまいす。その
歌詞も「夕陽が傾き夜がやってくると、いつものようにうめき声のような悲しい歌が聞こえてくる」、「サンボ(混血児)の
マヌエルは恋することもできない悲嘆の中で夜は更ける、コーヒー豆を挽きながら」と綴られていて、日本語歌詞にある
「みんな陽気に 飲んで踊ろう 愛のコーヒー・ルンバ」 というような底抜けに明るい内容ではないようです。
この曲が作られた時期は、ベネズエラでは資本主義と共産主義が激しく対立していた時期でもあり、後に名曲『悲しきルンバ』
にも表れていますように富裕層によって人々が社会の底辺で奴隷のように働かされている現状に対するある種の叫びであると
受け取られます。

【主要演奏曲】
1960年『蘭の花』Orquidea

1960年『コーヒー・ルンバ』Moliendo Cafè

1961年『鍛冶屋のルンバ』El Herrero  視聴
1961年『かえるのルンバ』El Cigarron  視聴
1962年『君去りし夜』 La Noche De tu Partida(唄:ラ・ダマ・エキス)

1962年『夢見る兵隊』Soldadesca 視聴
1964年『悲しきルンバ』Dos Esclavos

年代不詳(1964年前後)『ベネズエラの夜』Madrigal 視聴


『9月24日』

2019-09-23 18:55:05 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆イヴェット・ジロー Yvette Giraud (1916.9.24~2014.8.03)



フランスを代表する叙情的な女性シャンソン歌手で、日本との文化交流に貢献した親日家です。
パリに生まれの純粋なパリジェンヌです。若い頃はレコード会社のタイピストやラジオのアナウンサーをしていましたが
戦争直後の1945年にプロ・シンガーとしてデビューし、翌1946年には『あじさい娘』がヒットし彼女の代表曲となりました。
その後はオリジナル・ヒットは少ないものの既存のスタンダード曲や他の歌手のカヴァーなどで好セールスを記録しました。
1955年に初来日を果たし、叙情的で聞きごたえのある低音の歌声で、また「ジロー」という親しみある名前も手伝って人気を
博しました。その後も毎年のように来日して全国各地でコンサートや老人ホームの慰問などを続け、1995年にかけて14回もの
来日があり、日本にフランス文化を伝えた人物として日本政府から勲章を与えられています。
ご本人も「私は1916年にパリで1955年に日本で二度生まれた」と語るほどの親日家でしたが、1999年に惜しまれながら歌手
としての活動を退きました。

【主要歌唱曲】
『あじさい娘』Mademoiselle Hortensia

『ポルトガルの四月』Avril au Portugal 視聴
『バラ色の桜と白い林檎』Cerisier rose et pommier blanc

『ミラボー橋』Le pont Mirabeau 視聴
『詩人の魂』L'âme des poètes

『花祭り』La fête des fleurs 視聴
『ポルトガルの洗濯女』Les lavandières du Portugal 視聴


【ご命日】

★ロドルフォ・ビアジ Rodolfo Biagi (1906.3.14~1969.9.24)



短いスタッカートと巧みなピアノさばきで「妖しき手」と呼ばれたアルゼンチン・タンゴのマエストロです。