港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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シネマ・ポップス…ときどきイラスト

『4月16日』その1

2019-04-15 13:56:48 | 明日は誰の日

【誕生日】

☆チャールズ・チャップリン Charles Chaplin (1889.4.16~1977.12.25)



圧制・不正義・不平等を真っ向から糾弾し自由と愛と平和を訴え続けた偉大な喜劇役者・映画監督です。
ミュージックホールのタレントの両親の元にロンドンの場末に生まれました。1890年に両親が離婚し母に連れられて劇場に
出入りしているうちに舞台に立つようになりました。5歳の時、貧困の中で母が発狂して兄のシドニーとともに孤児院に
送られそこで学校教育を受けました。10歳になった頃劇団エイト・ランカシア・ラッズに入所してパントマイム芸で舞台に
立ち、1917年にはフレッド・カルノーの一座で花形コメディアンになったことによってアメリカ行きのチャンスを掴み、
ニューヨークのアメリカン・ミュージックホールに出演していた時にマック・セネットに見出されて、スラップスティック
全盛の1913年にキーストン社と契約、1914年に第一作の『成功争ひ』に出演して映画界での活動を開始しました。次いで
第二作目の『ベニスのベビーカー競争』の時に山高帽に背広、片手にステッキ、ダブダブズボンにチョビ髭という独特の
いでたちで登場、哀れな紳士の中に抱腹絶倒のマイム芸と痛烈なナンセンス精神によるチャップリンスタイルが形成さました。
1916年にはミーチュアル社、1917年にはファースト・ナショナル社と渡り歩いてハリウッドのサンセット通りにに自前の
スタジオを建て、そこで従来の一発本番ではなく同じシーンを何度も取り直すというシステムを創り上げ、さらにアクション
一辺倒の喜劇に心理描写を取り入れて表現の幅を大きく広げ、1917年までに100本を超える短編に出演を果たしました。
映画初期のスラップスティック喜劇の第一人者として人気者であったチャップリンは、この頃からユーモアの中で徐々に
鋭い社会諷刺を加えるようになり、下町に生きる庶民の哀愁や怒りを代弁する「心優しき放浪者」へと変貌、1917年の
『移民』、1918年『犬の生活』あたりからその傾向が顕著に表れはじめ、官憲やブルジョワを小馬鹿にすることによって
歪んだ社会を糾弾するスタイルが定着していきます。社会の底辺に身を置く観客にとって官憲やブルジョワを小馬鹿に
することがこの上ない痛快を誘い庶民からさらなる支持を受けていきました。
1923年にユナイテッド・アーチスト社と契約して、同年の『偽牧師』で痛烈な悪徳への指弾をする一方で、1923年の
『巴里の女性』では監督に徹して笑い抜きのシリアスなドラマで運命の悪戯と必然を凝視、1925年の『黄金狂時代』で
さすらう孤独と飢えた人生のすべてを笑いに変えました。1928年に苦い涙の『サーカス』を撮った後に映画史の大革命と
なるトーキーの波が押し寄せてきます。1928年にはサイレントで企画した『街の灯』着手していたのですがトーキー誕生
にもかかわらず一部サウンドのサイレント作品として押切り、逆にロマンチックな音楽で捕捉することによって情緒的な
仕上がりに成功、圧制・不正義・不平等という現実社会を激しく風刺しながら人間の真心の大切さを訴えてました。
続いて1936年の『モダン・タイムス』においては文明社会で人間が機械に奴隷化されるという世の中に対する矛盾や不正義
に打ち勝って人間らしく明日を生き抜こうという強い意志で、現代社会の矛盾に対する憤りは思想的な文明批判にまで達
することになりました。
また、以前にも軍国主義を正面切って嘲笑した『担へ銃』があったのですが、1937年にアレキサンダー・コルダの依頼で
ヒットラーを皮肉った『独裁者』の映画化を提案されました。丸二年がかりで構想を練り、内外からの圧力に屈すること
なく、エンディングでは「兵士たちよ、君たちを肉弾にしようと動物のように連れ去っていく人でなしどもに命を捧げては
ならない」という映画史に残る演説で独裁者を手厳しく糾弾しています。
しかし、1947年『殺人狂時代』では戦争による大量殺人は許されるのに保険金殺人はどうして罪になるのかという皮肉を
込めたテーマを提示して公開禁止・中止の憂き目にあい、さらに1952年には芳醇な人間愛の映画詩『ライムライト』を
撮り終えたのですが、当時ハリウッドに吹き荒れたレッドパージ(赤狩り)により作風が共産主義的であるとの理由によって
完成直後に既にアメリカから追放されていました。
レッド・パージによって自由の国と信じていたアメリカから自由を奪われて追い出され、イギリスで沈黙を保っていた
チャップリンは1957年にロンドンで制作した『ニューヨークの王様』においてアメリカ文明に対する皮肉を込めて抵抗を
みせましたが、この反骨精神が認められるのに長い年月を要することになります。

常に社会的弱者の側に立ち、社会の矛盾に憤り、圧制・不正義・不平等を真っ向から糾弾し、社会悪への挑戦をし続け、
自由と愛と平和を訴え、不正義に打ち勝って人間らしく力強く明日を生き抜こうと慰めと励ましを語り続けたチャップリン。
その偉業は後世まで語り継がれることでしょう。

1914年『成功争ひ』Making a Living

1914年『タンゴがもつれる』Tango Tangles
1914年『恋の二十分』Twenty Minutes of Love
1914年『メーベルの結婚生活』Mabel's Married Life
1914年『笑ひガス』Laughing Gas
1914年『彼の逢引きの場所』His Trysting Place

1914年『醜女の深情』Tillie's Punctured Romance
1915年『拳闘』The Champion
1915年『アルコール先生海水浴の巻』By the Sea
1915年『珍カルメン』Burlesque on Carmen
1916年『伯爵』The Count

1916年『番頭』The Pawnshop
1917年『移民』The Immigrant

1918年『犬の生活』A Dog's Life

1918年『担へ銃』Shoulder Arms

1919年『サニーサイド』Sunnyside
1921年『キッド』The Kid

1923年『偽牧師』The Pilgrim
1923年『巴里の女性』A Woman of Paris(監督のみ)
1925年『黄金狂時代』The Gold Rush

1928年『サーカス』The Circus

1931年『街の灯』City Lights

1936年『モダン・タイムス』Modern Times

1940年『独裁者』The Great Dictator

1947年『殺人狂時代』Monsieur Verdoux

1952年『ライムライト』Limelight

1957年『ニューヨークの王様』A King in New York
1967年『伯爵夫人』A Countess from Hong Kong(監督のみ)


最後に、『モダン・タイムス』から『ティティナ』を付け加えておきます。【YOUTUBEより】



『4月16日』その2

2019-04-15 13:31:14 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ヘンリー・マンシーニ Henry Mancini (1924.4.16~1994.6.14)



ピアニスト、作曲編曲家、オーケストラ指揮者でアメリカを代表する映画音楽作曲家の一人です。
オハイオ州クリーヴランド生まれペンシルヴァニア州育ちのイタリア系アメリカ人で、幼い頃よりフルート奏者の父親から
フルートとピッコロの英才教育を受けました。ハイスクールを卒業後、カーネギー音楽学校、ジュリアード音楽院を卒業し
第二次大戦中は軍楽隊勤務をつとめ、退役後はテックス・ベネキーが指揮するニュー・グレン・ミラー楽団にも所属して
1954年の映画『グレン・ミラー物語』の音楽スタッフとしてアレンジを担当しています。この頃に親交があった映画監督の
ブレイク・エドワーズから誘いを受けてエドワーズのTV映画の音楽監督として映画音楽家の第一歩を踏み出しました。
そして1961年に映画音楽家としての一大転機となるブレイク・エドワーズ監督の映画『ティファニーで朝食を』の音楽を
任され『ムーン・リバー』を作曲、映画音楽界のエポック・メーキング的存在となりました。
続いて『子象の行進』『酒とバラの日々』『シャレード』『ピンクパンサーのテーマ』などでヒット曲を飛ばし、1970年
には彼の音楽人生の集大成となる『ひまわり』で一時代を築き上げました。

【主要映画音楽作品】
1961年『ティファニーで朝食を』 Breakfast at Tiffany's

1961年『ハタリ! 』 Hatari!

1962年『酒とバラの日々』 Days of Wine and Roses

1963年『シャレード』 Charade

1963年『ピンクの豹』 The Pink Panther
1965年『グレートレース』 The Great Race
1966年『アラベスク』 Arabesque
1967年『いつも2人で』 Two for the Road
1967年『暗くなるまで待って』 Wait Until Dark
1970年『ひまわり』 I Girasoli


いずれも見事な作品群ですが、個人的には映画『ピンクの豹』の挿入歌となった『今宵を楽しく』がお気に入りです。
↓はフラン・ジェフリーズの『今宵を楽しく』【YOUTUBEより】



☆ボビー・ヴィントン Bobby Vinton (1935.4.16~ )



ミスター・ブルーと呼ばれて大ヒット曲を連発したアメリカの青春ポップ・シンガーです。
父親が地方のバンドリーダーであったことから幼いころからいろんな楽器演奏に関心を持ちハイスクールでバンドを結成、
地元クラブなどで演奏活動を始め、大学卒業、兵役終了後の1960年にエピックレコードと契約します。しかし、これと
いったヒットを飛ばせずに解雇寸前となりましたが、1962年に『涙の紅バラ』をレコーディング、自らプロモートして
4週連続で全米No.1という奇跡を起こしてエピック・レコード社に最初のミリオン・セラーをもたらしました。
続く1963年には『ブルー・ヴェルヴェット』、1964年には『ミスター・ロンリー』がともに全米No.1に輝き、アメリカの
ポップス界に一時代を築きました。
その後もエンターテイナーとして活動を続け2015年7月の公演を最後にツアーから撤退したようです。

↓はボビー・ヴィントンの『涙の紅バラ』【YOUTUBEより】


↓はボビー・ヴィントンの『ブルー・ヴェルヴェット』【YOUTUBEより】


↓はボビー・ヴィントンの『ミスター・ロンリー』【YOUTUBEより】



☆ダスティ・スプリングフィールド Dusty Springfield (1939.4.16~1999.3.02)



カンツォーネのカバー曲『この胸のときめきを』がヒットしたイギリス出身の女性シンガー。
ロンドンに生まれ、幼い頃から音楽が大好きで、1960年に兄2人とザ・スプリングフィールズを結成して音楽活動を始め
デビュー曲の “Dear John” がヒットしてアメリカでも注目を集めました。やがて1963年にはソロ歌手として独立し、
「二人だけのデート」で再デビュー、1966年にサン-レモ音楽祭入賞曲の『この胸のときめきを』の英語カヴァー盤が
大ヒットし、その後も米チャートの常連となり世界的な成功を収めています。
その一方で、彼女は非常に気難しい完璧主義者だったと言われており、時にはミュージシャンやエンジニアを怒鳴り
散らすことも多々あったようで、制作現場ではトラブルが絶えず、そのためかドラッグやアルコール依存するようになり
長期のスランプに陥ったまま急速に消え去ってしまいました。

↓はダスティ・スプリングフィールドの『この胸のときめきを』【YOUTUBEより】


↓はダスティ・スプリングフィールドの『行かないで』【YOUTUBEより】



【ご命日】

★デヴィッド・リーン David Lean (1908.3.25~1991.4.16)



第二次大戦後にキャロル・リードと共に衰退していた英国映画界を復活させたイギリスの映画監督。
主な監督作品として『逢びき』『超音ジェット機』『旅情』『アラビアのロレンス』などがある。


★モリス・ストロフ Morris Stoloff (1898.8.01~1980.4.16)



クラシック畑から映画界に転向し数多くの作品を残したアメリカの映画音楽作曲家。
主な映画作品として『愛情物語』『ピクニック 』『夜の豹』『ファニー』などがある。

『4月15日』

2019-04-14 12:19:56 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆クラウディア・カルディナーレ Claudia Cardinale (1938.4.15~ )



野性的で薄幸な田舎娘という強烈なイメージと良質な作品に恵まれて開花したイタリアを代表する女優です。
シチリア移民の子としてチュニジアで生まれ、カルタゴの学校で教員免許を取るために教育を受けていましたが、1955年に
フランスのルネ・ヴォーティエ監督の短編映画に出演し、これがベルリン映画祭で上映されたことで地元で有名人になり、
女優になることを夢見ました。
1957年にチュニスで開かれたイタリア映画週間で在住イタリア人美人コンテストで優勝し、その副賞としてヴェネチア
映画祭に招待されたのが映画界入りのきっかけとなり、その足でローマの国立映画実験センターに入って演技の基礎を学び、
1958年のマリオ・モリチェリ監督の『いつもの見知らぬ男たち』で映画デビューを果たしました。
ところが、この時期に未婚の身で妊娠という重大事が発生し、その上自殺念慮に苦しみ鬱状態に陥ってしまいました。
当時のイタリアは厳格なカトリックの国で未婚の母は絶対に許されない風土があり、このままでは俳優人生に終止符を
打ちかねない事態となるため妊娠の件は厳重な秘密にされ、それをカムフラージュするために英語の語学研修を名目として
ロンドンに渡って極秘裏に男児を出産し、その子は年の離れた弟として育てられることになりました。
そしてこの一連の出来事が女優カルディナーレに大いなる成果をもたらすことになります。
そんな隠れた経歴に影響されたのでしょうか、彼女は野性的魅力を有する一方で陰鬱で薄幸な田舎娘というイメージが
つきまとい、逆にそれがの女優としての最大の商品価値となってイタリア映画界の巨匠たちに重宝されることになります。
1959年にはピエトロ・ジェルミ監督の『刑事』で、泥臭い田舎娘のお手伝いさん役で一気にスターの仲間入りを果たし、
以後も『若者のすべて』『ビアンカ』など陰のある役どころで強い印象を与え、まるでカルディナーレ自身を描いたかの
ようなヴァレリオ・ズルリーニ監督の『鞄を持った女』で一気にブレイクしました。妊娠・出産が公表できず、そのことで
鬱病を患い自殺まで思いつめた彼女が皮肉にも男に翻弄される陰鬱な女を演じて好評を得ることになったのです。
そして作品にも恵まれてついにイタリアを代表する大女優へと開花しました。
しかし、1963年にハリウッドに招かれて『ピンクの豹』でお姫様役を演じたのが間違いで、カルディナーレ取扱説明書を
全く理解しなかったハリウッドのB級作品に出続けたことで女優としての商品価値は一気に低下してしました。
イタリアに残っておりさえすれば…と思うと残念でなりません。

【主要出演作品】
1959年『暗殺指令』Vento del Sud

1959年『刑事』Un Maledetto imbroglio

1959年『上と下』Upstairs and Downstairs
1960年『汚れなき抱擁』Il bell'Antonio

1960年『女は選ぶ権利がある』Il Magistrato
1960年『若者のすべて』Rocco e i suoi fratelli

1960年『太陽の誘惑』I delfini

1961年『鞄を持った女』La ragazza con la valigia

1961年『ビアンカ』La viaccia

1961年『大盗賊』Cartouche

1963年『8 1/2』Otto e mezzo

1963年『山猫』Il Gattopardo

1963年『ピンクの豹』The Pink Panther
1963年『ブーベの恋人』La Ragazza di Bube

1964年『サーカスの世界』Circus World
1964年『気ままな情事』Il Magnifico cornuto

1965年『熊座の淡き星影』Vaghe stelle dell'Orsa…

1965年『めかくし』Blindfold
1966年『名誉と栄光のためでなく』Lost Command
1966年『プロフェッショナル』The Professionals
1967年『サンタモニカの週末』Don't Make Waves
1968年『ウエスタン』C'era una volta il West
1970年『赤いテント』 La tenda rossa


【ご命日】

★グレタ・ガルボ Greta Garbo (1905.9.18~1990.4.15)



スエーデン出身でサイレント期並びにトーキー初期に人気を博した伝説的なハリウッド女優。
主な出演作品に『イエスタベルリングの伝説』『アンナ・カレニナ』『マタ・ハリ』『征服』『ニノチカ』などがある。


★シャルル・ヴァネル Charles Vanel (1892.8.21~1989.4.15)



舞台経験を持ち、映画では準主役級ながら大きな存在感のあるフランスの性格俳優。
主な出演作品に『背信』『恐怖の報酬』『埋れた青春』『悪魔のような女』などがある。


『4月14日』

2019-04-13 16:50:24 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆エドガルド・ドナート Edgardo Donato (1897.4.14~1963.2.12)



イタリア系移民の父がチェロ奏者という恵まれた環境下でブエノスアイレス生まれ、直後にウルグアイのモンテビデオに
移住、そこで子供の頃にモンテヴィデオのフランツ・リスト音楽院でヴァイオリンを習得しました。
やがてブエノスアイレスに戻り、14歳でプロのヴァイオリニストとしてデビュー、エドゥアルド・アローラス楽団などを
転々とした後に1927年にロベルト・セリージョと共同で楽団を立ち上げました。しかし、セリージョがチリに移住したため
4年で解散し自前のエドガルド・ドナート楽団を立ち上げました。
1930年代に気風が良い演奏とドナートによるヴァイオリンの曲引きで一躍人気楽団になりました。
また、作曲活動にも力を入れ、彼の代表作となった1925年『淡き光に』1932年『台風』など十数曲を世に送り出しています。

↓はエドガルド・ドナート楽団の『淡き光に』【YOUTUBEより】


↓はエドガルド・ドナート楽団の『台風』【YOUTUBEより】



☆ダニー・ロバン Dany Robin (1927.4.14~1995.5.25)



容姿端麗で踊れる素材として1950年代のフランスを代表した女優です。
パリ近郊のクラマールに生まれ、幼いころからバレエを習い17歳の時にコンセルヴァトワールのバレエ科を首席で卒業、
さらに演劇科でも優秀な成績で卒業して将来を約束されました。卒業後はヴィユ・コロンビエ座で舞台を踏み、1946年の
ルネ・クレール監督の『沈黙は金』の準主役に抜擢されて注目を集め、1952年にはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の
『アンリエットの巴里祭』で主役をつとめました。
清純で愛くるしい容貌によってその後も一線級の女優として幅広い活躍を続けました。

【主要出演作品】
1946年『沈黙は金』Le Silence-est d'Or
1946年『夜の門』Les Portes de la nuit
1952年『アンリエットの巴里祭』La Fete a Henriette

1953年『巴里の気まぐれ娘』Julietta
1955年『ナポレオン』Napoleon
1955年『フルフル』Frou-Frou

1955年『巴里野郎 』Paris-Canaille

1957年『正午に銃殺の鐘が鳴る』Quand Sonnera Midi
1959年『今晩おひま?』La Francaise et L'Amou

1960年『フランス女性と恋愛』La Francaise et L'Amour
1961年『素晴らしき恋人たち』Les Amours Celebre
1961年『パリジェンヌ』Les Parisiennes
1963年『渚のデイト』Topaz
1969年『トパーズ』Topaz


☆ロッド・スタイガー Rod Steiger (1925.4.14~2002.7.09)



TV出身でヨーロッパで大いに活躍した「ハリウッド嫌い」のアメリカの俳優です。
ロングアイランドに生まれ、海軍除隊後の1946年にニューヨークのアクター・スクールに入り演技力を磨きました。
1948~1953年にかけてはTVが主戦場となり約250本のドラマに出演した後、1954年の『波止場』で準主役となりましたが
その後は作品を選びすぎて『武器よさらば』や『マーティ』の主役を逃したうえB級娯楽作品に甘んじてしまいました。
これを機にヨーロッパに渡ることを決意し、イギリスや西ドイツの映画・TVに出演し、1963年にフランチェスコ・ロージ
監督の『都会を動かす手』により国際舞台で一躍脚光を浴びました。そしてTVで10年の付き合いがあったシドニー・ルメット
監督がこの好評を聞き及んで1964年『質屋』の主役に抜擢、強烈な個性と味の深い演技でアメリカでもトップクラス
の映画俳優となり、1967年の『夜の大捜査線』でその地位を決定づけました。
また、ロッド・スタイガーのハリウッド嫌いは特に有名で、この当時に「ハリウッドは俗物的刺激を求める孤独な人間の
世界である。彼らは大プールを持つ金のために狂奔する。彼らの心は抜け殻と同じだ」という名言を残しています。
そんな彼は1967年以降は主としてヨーロッパを中心に活動を続け、2001年まで俳優としての生涯を全うしました。

【主要出演作品】
1954年『波止場』On the Waterfront
1955年『オクラホマ! 』Oklahoma!
1961年『悪の報酬』An einem Freitag um halb zwölf
1962年『史上最大の作戦』The Longest Day
1963年『都会を動かす手』Le mani sulla città

1964年『質屋』The Pawnbroker

1965年『ラブド・ワン』The Loved One
1965年『ドクトル・ジバゴ』Doctor Zhivago
1967年『夜の大捜査線』In the Heat of the Night



☆ジュリー・クリスティー Julie Christie (1940.4.14~ )



新感覚のファッションをこなす新しいタイプの女優として現在も活躍しているイギリスの女優です。
紅茶栽培をしていた父の仕事の関係でインドのアッサムに生まれましたが、8歳の時に帰英してそこで義務教育を終え
ました。16歳の時に美術の勉強のために一時パリに留学、ロンドンに戻ってからは演劇を志しました。1962年に映画の
端役を得た後、1965年の『ドクトル・ジバコ』で大きく開花、翌年にはジョン・シュレシンガー監督の『ダーリング』で
自由奔放に生きるヒロインを演じ、新タイプの女優としてその地位を固めました。

【主要出演作品】
1965年『ドクトル・ジバコ』Doctor Zhivago

1964年『ダーリング』Darling

1966年『華氏451』Fahrenheit 451

1967年『遥か群衆を離れて』Far from the Madding Crowd


『4月13日』

2019-04-12 18:47:21 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ロベール・アンリコ Robert Enrico (1931.4.13~2001.2.23)



1961 年 の短編『ふくろうの河』がカンヌで絶賛されて一躍注目を集めたフランスの映画監督です。
ソルボンヌ大学に在学中にテオフィリアン劇団に参加するなど演劇や映画に興味を持ち、1949年に映画高等研究所に入り
本格的な勉強を始めました。卒業後の1951年に映画業界に入り、編集・助監督をつとめたのち1952年から自ら監督して
短編映画の制作に取り掛かり、1961年に短編『ふくろうの河』を監督、自由ながらも計算されたカメラワーク、そして
みずみずしい映像に加えてラストの衝撃の結末により、ヌーヴェルヴァーグに刺激を受けたアヴァンギャルド的映画作家
として注目を集め、翌年のカンヌ映画祭において絶賛を受けることになりました。
また、1963年にはペシミスティック要素を織り込んだ長編『美しき人生』を監督、この作品においても衝撃の結末により
映画通を唸らせる作品に仕上げましたが、いずれも興行的には成功と言い難い結果に終わりました。
しかし、1966年の『冒険者たち』で商業監督に転向、スターの特性を活かしながら独自のロマン主義を確立、恋愛関係に
あった主演女優ジョアンナ・シムカスの売り出しに成功、『若草の萌えるころ』『オー! 』で彼女の魅力を引き立てました。
残念ながらそんなジョアンナ・シムカスとの蜜月は長くは続かなかったようです。

【主要監督作品】
1961年『ふくろうの河』 La Rivière du hibou

1963年『美しき人生』 La Belle vie
1966年『冒険者たち』Les Aventuriers

1968年『若草の萌えるころ』 Tante Zita

1968年『オー! 』Ho!
1971年『ラムの大通り』 Boulevard du rhum 


☆モーリス・ロネ Maurice Ronet (1927.4.13~1983.3.14)



舞台経験を持ち良質の作品群にも恵まれて1950~60年代のフランスを代表した二枚目俳優です。
舞台俳優のエミール・ロネの息子としてニースに生まれました。幼いころから演劇に興味を持ちシャン・ルイ・バローに
演劇の手ほどきを受けパリのコンセルヴァトワールに入り、在学中にジャン・コクトー演出の舞台劇『恐るべき親たち』に
出演するなどして腕を磨きました。やがて1949年にジャック・ベッケル監督の『七月のランデヴー』で映画デビューを
果たし、『野性の誘惑』『宿命』などに出演、そして1957年のルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』で一気に
ブレイクしました。その後も『太陽がいっぱい』『鬼火』『マンハッタンの哀愁』などの良質の作品にも恵まれるなどで
フランスを代表する二枚目スターとしての地位を築き上げました。
しかし、癌に侵され、1983年の『さよなら夏のリセ』(Surprise Party)が遺作となってしまいました。

【主要出演作品】
1949年『七月のランデヴー』Rendez‐vous De Juillet
1952年『七つの大罪』Les Sept péchés capitaux
1953年『ボルジア家の毒薬』Lucrèce Borgia
1956年『野性の誘惑』La Sorcière

1957年『宿命』Celui qui doit mourir
1957年『死刑台のエレベーター』Ascenseur pour l'échafaud

1960年『太陽がいっぱい』Plein soleil

1963年『鬼火』Le Feu follet

1963年『勝利者』The Victors
1964年『輪舞』La Ronde
1964年『リーザの恋人』Donde tú estés

1965年『マンハッタンの哀愁』Trois chambres à Manhattan

1966年『名誉と栄光のためでなく』Lost Command
1968年『ペルーの鳥』Les oiseaux vont mourir au Pérou
1969年『太陽が知っている』La Piscine


☆スタンリー・ドーネン Stanley Donen (1924.4.13~ )



ダンサー、コーラス・ボーイを経てミュージカル映画の振付・演出などで名を上げたハリウッドの映画監督です。
サウスカロライナ州コロンビアで生まれ、7歳の頃からダンスのレッスンを受けました。少年の頃の夏休みにに両親と
ブロードウエイを観劇してダンサーを志し、大学を一年で中退してニューヨークに出て「パル・ジョーイ」のコーラス・
ボーイでスタートしました。ここで10歳年上のジーン・ケリーと運命的に出会うことになります。やがて舞台に立ち、
ソロ・ダンサーとして活動を始め、1942年にジーン・ケリーとハリウッドに乗り込んでMGMと契約にこぎつけ、最初は
アシスタント・ダンス・ディレクターとしてミュージカル映画に携わりました。
1945年にジーン・ケリーが『錨を上げて』で成功、続いて1949年にはジーン・ケリーと共同監督となる『踊る大紐育』で
注目を集め、1952年の『雨に唄えば』 では歌をきっちりと生かしながら洒落たタッチにペーソスを加えることによって
大成功、ミュージカル監督としてその地位を確固たるものとしました。
その後も『掠奪された七人の花嫁』『パジャマゲーム』などのミュージカル映画を監督するとともに、『シャレード』や
『アラベスク』 などサスペンスなどにも演出の幅を広げ1980年まで娯楽作品の監督としてその手腕を見せてくれました。

【主要監督作品】
1949年『踊る大紐育』 On the Town
1952年『雨に唄えば』 Singin' in the Rain

1954年『掠奪された七人の花嫁』 Seven Brides for Seven Brothers
1957年『パリの恋人』 Funny Face
1957年『パジャマゲーム』 The Pajama Game

1958年『くたばれ!ヤンキース』 Damn Yankees! 
1960年『芝生は緑』 The Grass Is Greener
1963年『シャレード』 Charade

1966年『アラベスク』 The Grass Is Greener
1967年『いつも2人で』 Two for the Road
1967年『悪いことしましョ!』 Bedazzled


【ご命日】

★マリアノ・モレス Mariano Mores  (1922.2.18~2016.4.13)



ポピュラリティーでモダンな演奏スタイルにより人気を博したアルゼンチン・タンゴのマエストロ。
主な作曲・演奏として『さらば草原よ』『タンゲーラ』『ラ・カレシータ』『ウノ』などがある。
詳細は当ブログの『2月18日』をご参照ください。


★ニコール・ベルジェ Nicole Berger (1934.6.12~1967.4.13)



青春スターとしてデビューし、ヌーヴェル・ヴァーグ作品でも重宝されたフランスの女優。
主な出演作品に『巴里の気まぐれ娘』『青い麦』『宿命』『今晩おひま?』『ピアニストを撃て』などがある。


★エディ・フォンティーン Eddie Fontaine (1927.3.06~1992.4.13)



日本では『ギャラントメン』で有名になにましたが、何かとスキャンダルの多いロカビリー歌手。
主な活動として、TVシリーズの『ギャラントメン』とその主題歌『戦場の恋』の歌唱がある。
詳細は当ブログの『3月6日』をご参照ください。