光と影の軌跡Ⅱ

つれづれなるおじさんの写真日記

ヤマトタケルと弟橘媛伝説を訪ねて①-吾妻神社・弟橘媛の御陵

2023年11月17日 | 日記

 11/11(土)以前から調べてみようと思っていた袖ケ浦市三黒(みくろ)417に在る吾妻神社をツレと訪問しました。ここは先日撮影した袖ケ浦の田の神様近くにあります。一見田んぼの中の小山のような森ですが、妙に目を引く場所です。

 鳥居を潜るといろいろな巨木や石の祠等がありました。江戸時代には松見寺というお寺が建てられており、富士塚碑や虚無僧に関する説明板が設置されています。

 

 広い境内の左端に社がありました。木造の小さな社で、大分傷んでいます。ここが吾妻神社の社殿のようです。

 ここでヤマトタケルと弟橘媛ついて説明をしておきます。ヤマトタケルは景行天皇の次男と言われていますが、実在の人物ではないというのが学問上の定説。従ってヤマトタケルの東征伝説も架空の作り話というのが一般論です。しかし日本各地に数多く残っている証左は、何もないところに在る話にしてはつじつまが合いません。確かに元になる人物や物語が存在したのです。

 この神社には臂松古墳(ひじまつこふん)という古墳があります。この臂松古墳という文字が刻まれた石柱の向こうに、2~3mの高さの円墳が鎮座しています。これが妃の弟橘媛を埋葬した御陵と言われているのです。

 ヤマトタケルが東征の際、速水の海(浦賀水道)で嵐に遭い、妃の弟橘媛が海に飛び込み漸く上総の地に着かれました。弟橘媛の遺骸は七日後に木更津の畔戸(くろと)の浜に流れ着きました。この遺骸と櫛を茂原市本納の橘樹(たちばな)神社に移動する際、この地で御車が動かなくなってしまいました。その為本納には櫛(一説には首飾り)を送り、亡骸(なきがら)はここに葬ることになりました。これが臂松古墳です。そしてこの地は御骸(みくろ)村と名付けられ、やがて三黒(みくろ)となりました。

 この上下の写真が臂松古墳です。あまり手入れがされていないので、木や草が茂っています。

 またこの近くで年配の男性が田んぼの手入れをしていました。そんなのどかな光景を見ながら、ツレとこの古墳にお参りし、4世紀に造られたと言う弟橘媛の御陵が本当にここなのか、それともただの伝説なのか?考えながら帰宅の途につきました。