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光と影の軌跡Ⅱ

つれづれなるおじさんの写真日記

ヒマワリ畑からキャベツ畑へそして農村公園の「稲の刈り干し」

2025年08月18日 | 日記

 昨年7/31にツレと袖ケ浦市飯富のヒマワリ畑を撮影に行きました。約20万本のヒマワリが咲き誇りあたりを圧倒する景観でした。ところが今年はヒマワリがなくキャベツ畑になっていました。ここを主催していたひまわり園芸組合の発表によると、昨年発生した大規模な渋滞や安全面での課題を踏まえ、今後の開催は行なわない方針だそうです。残念ですね。すこし前の木更津江川海岸・海中電柱騒ぎを思い出しました。

 しかしキャベツ畑も余り見たことがないので、撮影してきました。広大なキャベツ畑なので重機が何台も置いてあります。

 袖ケ浦市のキャベツの年間の生産量を調べて見ました。298(トン)千葉県での順位は10位、作付面積は8㌶、これは千葉県で9位だそうです。

  こんなに沢山のキャベツを見たのは初めて。作業している人がいたら色々聞いてみたかったのですが、誰もいません。仕方が無いので引き上げました。

 8/7(木)今度は袖ケ浦市農村公園・ひらおかの里を訪問しました。毎年この時期になると、年末のお飾り用の稲穂を刈り取り、公園一面に干す光景を見ることができるのです。

 訪問したのは午前10時頃。1度は公園の前の道を通り越したのですが、敷地いっぱいに刈った稲わらが敷き詰めてあったので戻って撮影しました。2~3日前から作業をしていたらしく稲わらは茶色に変わっていました。乾燥が進んでいるようです。

 風で飛ばないように竹製の農具が置かれています。

 暫く撮影していたのですが、管理棟から職員の方が出てきました。顔見知りの人だったので、稲刈りのことを聞いてみました。毎年恒例の小学生の稲刈りは9月の初めに行なわれるようです。その頃また訪問する予定です。


八剱八幡神社例大祭③-漁港近くを行く大神輿

2025年08月13日 | 日記

 7/13(日)今日は午前7時頃から木更津内港の船溜り近くの新宿区で撮影です。7時半を過ぎた頃から人が集まり始め、すでに神事が行なわれている吾妻神社方面に向かって歩いて行きます。私たちはここで撮影をしようと神輿が移動してくるのを待ちました。

 7時半頃になると吾妻神社の方から祭り装束の人がやって来ました。その様子が決まっていたので何枚か撮影させてもらいました。すらっとして祭りに馴染んだ雰囲気の方でした。

 そして8時過ぎになるとトラックで神輿を置く台が運ばれてきました。会場にも飲み物や備品が続々運ばれてきます。

 9時頃になると大勢の「まつりびと」が集まってきました。迫力のある人たちです。

 子供連れも多いですね。親子で祭りを楽しんでいるようです。先程置かれた神輿の仮り置き台付近に神輿の一行が到着です。

 ここで神輿に若い衆が集い木更津担ぎで神輿を引き上げ、台に下ろしました。

 すると一人の若衆が台の上に立ち何か宣言のような言葉を発し塩を撒いたようです。周りから白い紙に包まれたお賽銭が投げ込まれ、それを合図に神輿が担ぎ上げられもまれ始めました。凄い迫力です。

 木更津担ぎとは神輿に2本の棒しかなく、神輿に担ぎ手の背中を見せないで担ぐ担ぎ方。掛け声も船の艪を漕ぐ声、網を引く声と伝えられる「オリャオリャ」「ヤサコリャ」と言う独特の掛け声です。それは勇ましく見ている人たちを圧倒する程です。 そして神輿は木更津内港の船溜りを抜け次の神事が行なわれる北方町に移動していきました。私たちの撮影もここで終了です。


木更津総鎮守・八剱八幡神社例大祭②-宮出しから渡御へ

2025年08月09日 | 日記

 7/12(土)午前7時本殿前には神官及び役員氏子たちが勢揃いし、乾杯の儀式が行なわれました。その後神輿が境内に降りていきます。

 神輿が境内に下りると先導役の猿田彦の大神と付き添い人が、出入り口の鳥居に向かって進行です。

 台車に乗った神輿も境内を進み鳥居の前までゆっくりと進みます。

 いよいよ鳥居を神輿が潜ります。ただ神輿の高さが高いので潜るのに一苦労。何人かが神輿に乗り鳥居に接触しないように気を配ります。

 漸く鳥居を通過して町中の渡御に出陣です。

 神輿の後に笛や太鼓を乗せた屋台囃子が続きます。

 こうして神輿が決められたコースを巡幸して回るのですが、私たちはここで帰宅しました。そして翌13日は午前7時頃から木更津内港近くの新宿区で行なわれる神事を撮影に向かいました。

 新宿区の会場に行くには内港公園の駐車場に車を止め海沿いに10分程歩きます。そこの道沿いには船の残骸が沢山捨てられています。まるで船の墓場、どうにかならないのでしょうか。そしてまだ人影のない会場では祭り独特の笹や御幣が風に吹かれ、静かに揺れていました。


夢のあとさき-木更津総鎮守・八剱八幡神社例大祭①宮出し

2025年08月04日 | 日記

 gooブログの終了に伴いこの「光と影の軌跡Ⅱ」も7月末で他のブログに移ろうかと思っていました。ただ約6年4ヶ月も続けてきたので心が残り、もう少し続けさせていただくことにしました。「夢のあとさき」と言うタイトルを付けましたが、調べて見ると夢をみた後という意味のようです。もう少しここで夢を見て歩いて行こうと思います。よろしかったお付き合いの程よろしくお願いいたします。管理人

 7/11(金)恒例の八剱八幡神社(以後は省略して八剱神社)の例大祭が開催され、12日には宮出しが早朝午前6時10分頃開始されました。ツレと少し早めの6時頃木更津駅西口近くの八剱神社に到着。その時はまだ人の姿も少なかったのですが、すぐに祭り半纏の人たちが集まってきました。

 今年の年番は新宿区のようでその文字を入れた半纏の若衆が神輿殿前に勢揃い、扉が開き神輿が姿を現わしました。この神輿は嘉永3年(1850年)6月に創建され、関東三大神輿の一つに数えられる重さ1.5トンの大神輿です。

 

 神輿は本殿前に置かれ、鳳凰に稲穂が取り付けられます。

 それが終了する頃先導役の猿田彦の大神の登場です。

 本殿の中では神事が行なわれ、その後神官が神輿の前でお祓いの御幣をふり清めます。

 そして本殿から白い幕に囲まれて御霊が神輿の前に進み、神輿の中に納められられました。こんな光景は余り見られません。古より続く神話の世界、御霊とは噂では鏡のようですが、見たことがない不思議な世界です。


終わりの始まり-最後の野田の虫おくり

2025年07月26日 | 日記

 7/20(日)ツレと袖ケ浦市野田にある野田神社を訪問しました。この日はこの神社で行なわれていた虫おくりが、今回を持って最後になると言うので見学をさせてもらったのです。

 虫おくりは古来から行なわれてきた農耕儀礼の一つです。稲に虫が付かないように願う儀式で、江戸時代から続いている行事と言われています。この地区では毎年7/31に行なわれてきましたが、諸般の事情により昨年で終了となってしまいました。ただこの行事を残すために使用する神輿を制作し郷土博物館に保存するという事になり、20日に制作が行なわれました。

 20日に虫おくりの神輿を制作するというのは、中心になっている方から連絡をいただきました。袖ケ浦市の教育委員会の人が立ち会い制作記録を撮影し博物館に展示するそうなので、一緒に撮影です。

 虫おくりで使用する神輿は全て手作りです。竹やヒバの枝、竹の皮等を使い有志9人で組み上げられていきます。私たちが神社に着いたのは午前9時頃、もう作業は始まっていました。

 なお『養蚕秘話』という江戸時代の本に虫おくりを描いた場面があるというので、国立図書館のウエブサイトで探してみました。漸く見つかったのでUPしました。

  この本によると虫おくりは全国各地で行なわれ、五穀豊穣や無病息災を祈願する風習で、形式は各地で異なっていたようです。時期は主に春から夏にかけて行なわれ、藁で出来た人形や神輿を笛や太鼓を鳴らしながら人々が行列となって田んぼの畦道をを練り歩いたようです。掛け声も独特で野田神社では「わっしょい、ほうねん」と言う掛け声を子供たちがかけながら、各家を回っていました。

 午前9時50分頃になると骨格ができ中に御幣が置かれます。

そして組み上がった神輿にヒバの枝をさして行きます。

 いよいよ最後の行程、一番上には稲穂を咥えた鳳凰が置かれます。この鳳凰が実に神秘的です。現在の飛行機のようです。

 私はこの鳳凰を見た時、うわ!旧日本海軍の十七試単戦烈風ソックリだと思いました。逆ガル翼がよく似ています。

 午前11時頃ようやく完成、約3時間もかかって作り上げました。お疲れ様です。そして神社の前で記念写真を撮影です。幹事の方がこれで野田神社の虫おくりは最後かも知れないが、何時かまた復活させたいとおっしゃっていました。終わりの始まりです。このブログもここで終了です。また虫おくり是非見たいものです。

 

 


英伸三・写真展「一所懸命の時代」に感動した長野県の茅野市巡り

2025年07月18日 | 日記

 6/14(土)の東京新聞を見て驚きました。写真家英伸三氏の記事が1枚の写真「乳価闘争」と共に大きく掲載されていたのです。写真は1966年に秋田県大曲市(現在は合併して大仙市)で撮影した物。私とツレは9年前の2016年5月13日に長野県茅野市の茅野市美術館で開催された昭和の記録、一所懸命の時代 英伸三展を見に行っています。

 この写真展の中にこの「乳価闘争」があり深く感銘を覚えました。写真は1960年代から80年代高度経済成長期の日本社会の農民や庶民の姿を的確に捉えており、農村でトランジスタ等電子部品を組み立てていく姿に驚愕しました。バブル期日本の電気産業は農家が支えていたのです。

 この日は特急あずさで新宿から茅野まで行くという快適な旅でした。残念ながら歌で有名なあずさ2号ではありませんでしたが、揺れの少ない新型特急あずさでした。茅野駅に着いたのは午前10時頃。駅に隣接する茅野美術館で英氏の昭和の記憶を見た後、少し茅野市内を散策することにしました。

 駅のコーンコースには御柱祭という幟や御柱の模型や巨大な注連縄が飾ってありました。今年は7年(数えで)に1度という御柱祭の年なのです。

 御柱祭の行なわれる諏訪大社は諏訪湖周辺にある4つの神社のことで、前宮と本宮、秋宮と春宮です。茅野駅からは諏訪大社の前宮と本宮が徒歩30分で行ける距離とのことです。また諏訪大社の祀る神はタケミナカタ神。もとは出雲の国を大国主の子として納めていました。

 出雲の国譲りの際に武神タケミカズチの神に果敢にも挑み、破れて諏訪に封じ込められた神様です。しかし劣勢でも容易に屈しない強い武威を示す神と言われ、日本三軍神に入り、武田信玄をはじめとした戦国武将にも尊敬されています。

 茅野の町は御柱祭一色ですね。市内を流れる上川に架かる橋にも御柱祭を告げる幟がかけられていました。

 橋を渡り県道197号線を青柳駅方行に進むと古い3階建ての倉庫のような建物が見えてきました。トップの写真の建物です。建物の前に説明板があり、それによると寒天倉(かんてんぐら)との由。

 これは長野県岡谷地方で盛んに行なわれていた製糸が昭和になり下火になったのですが、代わりにこの地方で寒天づくりが盛んになりました。そこで岡谷地方で使われていた繭倉(まゆぐら)を移築し寒天倉として使用したそうです。繭倉として建てられてから築百年以上とのことです。この周辺300㍍に同様な規模の寒天倉が4棟在るそうなので探してみることにしました。

 地図もないので、駅に戻る途中出会った人に聞いて漸く見つけました。

 寒天倉は現在は使用されておらず、多目的ホール等に改造して使われるようです。築百年以上とのことなので大分傷んでいます。

 綺麗に整備されている寒天倉もありましたが、物置等の目的で使用されているようです。

 もうじき午後1時になるので駅に戻るべく来た道を引き返しました。途中藤の花の綺麗な場所がありましたが、廃業したお風呂屋さんの庭先でした。

 そして漸く茅野駅に到着、近くのレストランに入りランチをいただきました。この地方の名物という分厚い(厚さ約3~4cm)トンカツがのったソースカツ丼です。柔らかくてジューシーな豚肉がとても美味でした。(値段は失念しました)

 その後駅に入り、特急あずさ18号で帰宅しました。写真展だけでなく寒天倉等を見られとても有意義な旅になりました。


2つの太陽と幻日

2025年07月14日 | 日記

2016年1月27日15時22分撮影

  今年の5/5(月、祝)ツレが自宅付近を散歩中太陽の左右に光る幻日を見て写真を撮ってきました。時刻は午前5時05分左側の幻日は半分ほどしか写っていませんが、確かに太陽が3つ在るように見えます。そして私も2016年1/27の15時11分に自宅近くを散歩中、幻日を目撃し写真に撮っています。

 なお少し幻日について調べましたが、大正4年(1915年)の国民新聞の記事によると、沖縄の那覇で寛政4年(1792年)7月29日と7月30日に太陽が3個見えたとの由。この現象は相当昔から観察されていたようです。

 私が見たのは9年前になりますが、一人で木更津の自宅付近を散策中ふと太陽の方を見上げると、太陽の右に虹の塊のような物が見えたのです。一瞬これが幻日と言う物かと思いシャッターを切りました。15時11分の事でした。

 カメラに付けていたのは高倍率ズームなので、UPも撮って見ました。

 漸く田んぼの近くまで来て空の全景が見渡せたので広角で撮影しました。ただ左の方に幻日は見えなかったですね。ですから私の見たのは2つの太陽と言う事になります。15時19分撮影。

 この幻日は朝や夕方等太陽の位置が余り高くない時間が出会いやすいそうです。太陽の高度が高い時間帯(仰角60.75度より高い位置)だと氷の粒で光の屈折が起こらず幻日は出現しません。上の写真は15時21分撮影。トップの写真はその1分後に撮影した物です。

 最後は環水平アーク(逆さ虹とも呼ばれ太陽の上に現れる虹色の現象)を撮りました。時間は15時23分、15時11分から12分間の素敵な天体ショーでした。


江戸前海苔づくり体験記②-漁師飯の鉄砲巻きを作って食す!

2025年07月10日 | 日記

 手作りした海苔を乾燥させる間に、皆で味噌汁や海苔巻きの具になるバカ貝を清掃し始めました。バカ貝は通称アオヤギと言われよく食しますが、食べるまでにこんなに手間がかかるとは思ってもみませんでした。

 バカ貝がこんなに砂を咬んでいるとは、今までそんな事はつゆ知らず気楽にツマミで美味しくいただいていました。何度も砂を取り終わったのが40~50分後位でした。

 公民館の中では高根さんのスタッフが、鉄砲巻きの芯になる鰹節を削っていてくれました。他にもご飯は炊きたてそして太巻きの具材、お味噌汁等も用意しておいてくれました。至れり尽くせりです。

 いよいよ鉄砲巻きを作るときが来ました。この郷土料理は忙しい漁師が、船を片手で運転しながらでも食べられるようにこの形になったとか。その細長い形が鉄砲に似ていることから「鉄砲巻き」と呼ばれたそうです。

 巻き簀に海苔を敷きご飯をひろげます。中央に醤油で味をつけた削り節をのせ巻いていきます。

 巻くのも慣れていないと中々旨くいきません。崩れたのは全て自分で食べました。ご飯は少し柔らかめ、酢飯ではありません。炊きたてご飯のおかか海苔巻き、最高に美味しかったです。食べ放題で、残った鉄砲巻きはお土産にどうぞと言われたので、今回用事で参加できなかったツレに3本程いただきました。

 ほかにバカ貝や色々具をいれた「上総の太巻き寿司」も作っていただき大満足です。

 最後に生海苔や高根さんが制作販売している焼き海苔も一帖いただきました。午後4時頃に解散。タクシーでJR内房線巌根駅まで送ってもらいました。色々得るところの多い体験学習でした。


江戸前海苔づくり体験記①-木更津市

2025年07月07日 | 日記

 もう大分前になるのですが、「風の旅行社」が開いた海苔つくりの体験講座に参加しました。講師は木更津市会議員兼漁師の斉藤高根さん(左側の男性)です。

 江戸前の海苔作り体験、会場は畔戸海岸に近い中央公民館畔戸分館です。最初は高根さんがデモンストレーションを見せてくれました。海苔1枚の大きさの木枠に生海苔を入れるのですが、木枠には水を切るためと海苔を固定させるスノコがひいてあります。私もトライしてみましたが、難しいです。入れた海苔が平らにならないのです。

 海苔を木枠に入れた後、水分をとるのでキッチンペーパーで押さえます。水気が切れたところで、やっと海苔の形が見えてきました。

 この日参加したのは15名位。女性が多く男性は2名だったと思います。殆どの人が初めての海苔づくり体験。苦労して海苔を木枠に入れていました。

 

 木枠からスノコを外して今度は乾燥です。直ぐには乾かないので、後日郵送してくれるそうです。この後は公民館分館の中で海苔を使った木更津の郷土食「てっぽうまき」に挑戦しました。(続く)


JR外房線安房天津駅付近を行く-千葉県鴨川市

2025年07月04日 | 日記

今から9年前になるのですが、外房線の安房天津駅を訪ねました。内房線の終点安房鴨川駅を大原方面に進み1つめの駅です。これまで蘇我駅から安房鴨川駅までの内房線の駅を全て乗降してきたのですが、安房鴨川から一つ目の外房線の駅を訪ねてみようとツレと話し安房天津駅に向かいました。到着したのは2/17の午前9時でした。

駅から海岸方面に10分位歩くと国道128号線。それを超えると2~3分で海岸通りに出ました。犬を連れたおばさん2人組や、海岸で作業をしていた漁師さんに出会い写真を撮らせてもらいました。

ここは二タ間海岸と言う遠浅の砂浜で知られた場所でもありますが、海水浴場としては解放されていません。その分自然が残り綺麗な海がひろがっています。

途中漁師を引退したおじさんがこの浜について色々話しをしてくれました。最後に漁港の場所を聞いて別れましたが、この辺の人は親切で、屈託のない人が多いですね。感心しました。

海沿いの道を5分ほど歩くと天津漁港です。岸壁には海鳥が沢山いて驚きました。私たちを見ても逃げないのですから。

天津は、昔東条郷天津村と称していたのですが、江戸時代初期に紀伊国(現在の和歌山県周辺)の漁民が移住してイワナ漁を始めたと言われ、漁業の拠点として有名でした。また江戸時代には東廻海運の避難地としても使われていました。漁港にはそのような歴史があるせいか漁船が沢山列んで、壮観です。

漁港でイカの切り身を並べ赤い色を付けている漁師さんがいました。何をしているのか聞いてみると金目鯛を釣る餌にするとのことでした。金目鯛が赤く揺れ動くイカの切り身をエビと間違えて食いつくそうです。そばでネコも不思議そうに見ていました。

漁港を暫く撮った後、128号線を戻り駅に行く道に入りました。人の姿が殆どありません。内房線の駅で見てきた過疎化はここも例外ではないようです。

 

そして開いていた八百屋さんでミカンなどの果物を買って駅に戻りました。なにせ自宅のある内房線木更津駅まで約3時間位かかるものですから、早めに切り上げました。途中天津小湊小学校を通りましたが、子供たちが元気に校庭で体操の授業を受けていました。沢山の子供たちを見ていると元気がでてきます。