惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

今は心に不謹慎を

2011年03月15日 | situation
輪番停電の間は近所の商店街を歩き回って時間を潰している。ほんのすぐ隣町が停電対象外なのは有難いことなのだが、パチンコ屋でさえ営業時間を短縮しているくらいで、さすがにいつもの活気はない。今日は天気が悪いのに店内照明も半減させたりしているためにどこを見回しても薄暗い。おまけに寒い。

まあさすがに当面は、ない袖は振れない、ない電気は使えないということで、どうしようもないことではあると思う。だからこそ、ということで上の題を改めて掲げてみたい。言ってみれば突然の電源供給不足で、いま日本社会全体がある種の鬱状態に陥っているわけなのである。この状態で精神だけは明るく強く、頑張れ頑張れなどと連呼するのは、鬱には一番よろしくないことである。

とはいえ鬱だからというのでひたすら塞ぎ込んでしまうのも、たぶんよくない。それが恒常化すると「物理」の方が回復しても精神の惰性は鬱のままだということになってしまいかねないからである。いまこの時に無理して明るくある必要はない。強くある必要もない。自宅待機を命じられたハケン労働者が頑張るったって、別に何を頑張ることもできはしない。ではどうすべきなのか。自分の心の不謹慎を保つことだとわたしは思う。目下の現実が強いてくるストレスを、不謹慎な思いが和らげてくれそうに思える限りは、である。

それが口にするのも憚られるようなことだと思うなら、わざわざ口にする必要はない。我々が日常営んでいる人間関係は、どんなに親密な間柄でも思いのたけをそのままぶちまけても互いに気まずくならないようには、絶対的にできていない。どうも流通が滞りそうだと思われたとたん、我先にトイレットペーパーの買い溜めに走るような人々どうしが強い絆で結ばれているとか、その絆を支えるコミュニティのようなものが存在するなどということは、可能性としてもあるはずがないのだ。それしきの絆を強調するのも賞賛するのも、ありもしないものをあるように言い募るという意味で全部茶番であり偽善であり大嘘つきの所業である。これらの所業が肯定されないまでもそれ以上に否定されるいわれはない、と言うことができる唯一の根拠は、どんな時でも心の不謹慎は肯定されなければならない、少なくとも当人の内側では(その内側が存在することそれ自体を含めて)絶対に肯定されなければならないということである。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高速募金入門(1) | TOP | 八雲紫 »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | situation