暑くなってくると哲学はどうしてもはかどらないというか、特に休日はやる気がしない(笑)。今日なんかはもう暑くて何もしてないわけである。
実際、これまでもこの季節はこのblogは休業していることが多かったわけである。しかし今年の場合、THNの私訳は全然始まったばかりであるわけで、ここで休業すると、再開する頃にはやる気がなくなっているに決まっている(笑)のである。だから今年は休業にはしないで、単にペースを落とすことにする。また、書くネタもあんまりアタマを悩まさずに済むようなものを主軸にしてみる。
その「あんまりアタマを悩まさずに済む」ネタのひとつがこの外為相場分析である。つべこべ言っても実際に賭けてはいない、ヒストリカルデータをいじくり回して面白がってるだけだから、まあ正真正銘のお遊びである。
最近気づいたことのうちでまだ書いていなかったことのひとつは、エントリ/イグジットの合理的な条件ということである。
多くの場合、というか99%はそうだという気がするのだが、エントリにせよイグジットにせよ「レートが××円になったら」という条件で行われているわけである。あるいは何か別の指標と組み合わせた条件になっているにしても、その指標は過去のレートに基づいて算出されているわけだから、結局はレートで判断しているのだと言っていい。けれどもざっくり言って、こうした判断には何であれ合理的な根拠がないのである。エントリの側で言えば、いったいどんな条件でエントリするのであるにせよ、その判断は有限の未来においてレートが上がるとか下がるとかいう予測に根拠づけられているわけである。そして一般的に言ってそのような予測には合理的な根拠はないのである。
もちろん非常に曖昧な傾向性のようなものは認められる。それもなかったら外為相場は、システムリスクが何もなかったとしても(たくさんあるのだが)勝てる道理がないことになってしまう。事はそこまでひどくはない。何かは確かにある。ただそれがあるということを合理的な判断と呼ぶことができないだけである。多くの失敗は、というか確実に失敗をもたらす戦術上のオカルトは、根源的なところで合理的でないものを合理的であるかのように見なしてしまうところから生じているように思える。つまり根源の嘘を、さらなる嘘と屁理屈で上塗りしているうちに正真正銘のオカルト相場理論が出来上がってしまうのである。
(つづく)
実際、これまでもこの季節はこのblogは休業していることが多かったわけである。しかし今年の場合、THNの私訳は全然始まったばかりであるわけで、ここで休業すると、再開する頃にはやる気がなくなっているに決まっている(笑)のである。だから今年は休業にはしないで、単にペースを落とすことにする。また、書くネタもあんまりアタマを悩まさずに済むようなものを主軸にしてみる。
その「あんまりアタマを悩まさずに済む」ネタのひとつがこの外為相場分析である。つべこべ言っても実際に賭けてはいない、ヒストリカルデータをいじくり回して面白がってるだけだから、まあ正真正銘のお遊びである。
最近気づいたことのうちでまだ書いていなかったことのひとつは、エントリ/イグジットの合理的な条件ということである。
多くの場合、というか99%はそうだという気がするのだが、エントリにせよイグジットにせよ「レートが××円になったら」という条件で行われているわけである。あるいは何か別の指標と組み合わせた条件になっているにしても、その指標は過去のレートに基づいて算出されているわけだから、結局はレートで判断しているのだと言っていい。けれどもざっくり言って、こうした判断には何であれ合理的な根拠がないのである。エントリの側で言えば、いったいどんな条件でエントリするのであるにせよ、その判断は有限の未来においてレートが上がるとか下がるとかいう予測に根拠づけられているわけである。そして一般的に言ってそのような予測には合理的な根拠はないのである。
もちろん非常に曖昧な傾向性のようなものは認められる。それもなかったら外為相場は、システムリスクが何もなかったとしても(たくさんあるのだが)勝てる道理がないことになってしまう。事はそこまでひどくはない。何かは確かにある。ただそれがあるということを合理的な判断と呼ぶことができないだけである。多くの失敗は、というか確実に失敗をもたらす戦術上のオカルトは、根源的なところで合理的でないものを合理的であるかのように見なしてしまうところから生じているように思える。つまり根源の嘘を、さらなる嘘と屁理屈で上塗りしているうちに正真正銘のオカルト相場理論が出来上がってしまうのである。
(つづく)