じいたんばあたん観察記

祖父母の介護を引き受けて気がつけば四年近くになる、30代女性の随筆。
「病も老いも介護も、幸福と両立する」

「かわいい、かわいい」と。

2006-08-10 22:53:21 | じいたんばあたん
先日、ばあたんと一緒に過ごしていたときのこと。
 
その日、ベッドで眠っていたばあたんを起こすと、
彼女は目を覚ますなり淡く微笑んだ。

「わたし、まだ眠いわ。」

と口では言うのだけれど
それなら、と思いもう一度寝かしつけようとしても
眠気にさらわれまいとするかのように、必死で起き上がろうとする。

日によっては起きないときもあるし、
じいたんがいても無関心な日もあるので
「ああ、今日はよさそうかな」
と内心よろこんだ。

 
でも、起こしてからが少し大変だった。

薬の量を少なめにしているせいか、
比較的表情豊かで、自分の意思も伝えようとするのだけれど、
一方で多動が収まらない。
とにかくじっとしていないのだ。
 
例えば、お昼の時間、
わたしやじいたんが行っているときは
わたしたちがばあたんの食事を介助するのだが、
ばあたんは、一口食べたら立ち上がってしまう。
 
どうやら「食事の支度をしなければ」と思っているらしい。
 
けれど、ばあたんはもう、一人で歩くのは危険な状態なので
わたしとじいたんが、周囲を一周しては
また、ばあたんを食卓につかせて、
食事の続きをする、といった具合だ。
 
ばあたんは、じいたんに
「こちらへ行かなくてはだめでしょう」
など、色々と指示をしたりして(その指示の内容はよく理解できないのだが)、
元気だったころの面影をのぞかせる。

普通の声がけだと最後まで食べてもらえそうにないので、
「調理実習で作ったの。先生、味見をしてね」
 (ばあたんは高校と短大で家政科の先生をしていた)
などと声をかけたりしながら、なんとか最後まで食事をしてもらう。
 

以前なら、食事が終わったら、病院の最上階まで散歩に出ていた。
けれど最近のばあたんは、その距離ですら連れて出るのが難しくなった。
その日も、やはり入院しているフロアを歩き回るのが精一杯だった。

歩くの自体はとてもよく歩くのだ。
というより、じっと座っていることがとても苦手なようだ。
ただ、突然身体の力が抜けてその場に座り込んでしまったり、
その座り込んでしまった身体で、足元も確かめずに
また、立ち上がろうとしたり…
 
お手洗いに行きたくなったときも、知らせるのがうまくいかず、
いろいろ不具合が出て、病棟の看護師さんを呼ばざるを得ないときも増えてきた。

この日はお手洗いの後、おしもを綺麗にするまでに
ばあたんの不安が大きくなってしまい、
「表へ出してちょうだい」(言葉にならないときもある)と、
わたしの身体を押しのけて、
下着もつけないまま外へ向かおうとする…そんな状態だった。

トイレ騒動で少ししょんぼりしたのか、
じいたんはやがて、来客用のソファで転寝をしはじめた。
 

  ばあたんにはいつだって、彼女自身の意思があって、
  それに基づいて動こうとしているのだ。
  そんなとき、ばあたんは本当に一所懸命だ。

  だけどわたしは、その全てを理解することはできなくて、
  観察の末、見当をつけては色々とためし、
  失敗してはまた観察をして…と、そんなことの繰り返しに終始する。

  そしてそのうち、ばあたんはくたびれてしまう。
  脂汗が額や首筋に浮いてきて、つらそうだ。
  それでも彼女は歩くことをやめようとはしない。
 

  多分…多分だけれど
  ばあたんは、必死で逃れようとしているのだと思う。
  漠然とした不安から、意識をにごらせようとする眠気から、
  それから、ただじっと座って記憶が消えてしまうのを待つ恐怖から。

  その「逃れようとする」というのは決してネガティブな意味ではなく
  ばあたん流の、精一杯の「戦い方」なのだと思う。
  「わたしはわたしでありたい」という彼女の叫びだとわたしは思っている。
 

それでももうくたびれ果ててしまったときには
ばあたんは、少しでも自分の記憶にある場所
―自分のベッドへ戻ろうとする。
 

//////////////
 

その日もやがて、ばあたんはベッドへ戻ろうとしはじめた。

今日もじいたんに淋しい思いをさせたな…
と、来客用のソファで転寝しているじいたんを振り返りつつも、
もう精一杯がんばっているばあたんを
見るに忍びなくなったわたしは
じいたんを放ったらかしにしたまま、ばあたんについていくことにした。


 
ほとんど思うように動かない足をひきずり、
わたしの手をひっぱって、
自分の部屋を探し当て、ベッドへたどり着こうとした
その瞬間、
 
ばあたんの身体が、大きく傾いだ。
その向こうには、ベッドの鉄の柵が。
 
 
「あっ…」

とっさに、ばあたんの身体の下に自分の身体を敷きこむ。
ばあたんの全体重が自分の上にかかる。
下はベッドのマットレスだから背中は痛くない。

だけど、
  「こないだ頭に大怪我をしたときは、
   真夜中に、ひとりぼっちで、
   このスピードで、これだけの重みがかかった状態で転んだのか」

そう思うとぞっとして、そしてひどく悲しくなって、
わたしはばあたんを抱きとめたまま、暫くの間呆然と転がっていた。
 
 
すると。


「かわいい、かわいい。よしよし。」
 

頭の上から、ばあたんの声が降ってきた。

見上げると
身体を起こしたばあたんが、
わたしを抱きしめて、頭や身体をさすってくれている。
さっきまでは殆ど意思疎通ができなかったのに。


「ばあたん、だいじょうよ…」

言いかけて、はっとした。


ばあたんは、うっすらと涙ぐんでいた。

鼻のあたまを真っ赤にして、それでも満面の笑顔で
わたしの頭を自分の胸に抱え込もうとしている。

 
「たまちゃん、かわいい、かわいい。
 かわいい、かわいい。よし、よし。」
 
たぶん他の語彙が出てこないのだろう。

それでも、ばあたんの指の先から全てが伝わってくる。
 

暫くの間わたしは、目を閉じて
ばあたんのなすがままになっていた。