東京大阪ラプソディー

私が生まれ育った故郷「東京」の友人たちへ、また私の「大阪」での生活を知る心優しき人たちに、徒然なるままに綴っています。

術後4ヶ月 この夏の暑さにはまいる~

2010-08-31 09:58:16 | 日記
 4月26日入院、28日手術、術後15日目の5月13日退院…通算17日間、医療センターのお世話になってから約4ヶ月が経過し、少しずつ日常を取り戻しつつある・・・。

月日の経つのは早いもので明日からもう9月。。。
しかしちっとも秋の気配は感じられない。今年の夏は記録づくめの暑さである。
大阪は14日連続の猛暑日(35℃以上)を記録。明日からも連日37℃の予報だ!!
沖縄が涼しく感じる大阪の夏はバナナが育つほどで、今や亜熱帯の毒虫が越冬したりして何の自慢にもならない気候といえる。
特に半病人のような人間にこの暑さはこたえる…

退院後しばらくしてから、抗がん剤の治療が始まった。
TS-1という強めの薬は当初20mg3錠を1日に2回、120mgの容量で2週間服用して1週間休薬で1クールとする。
この3週間を17クールも行う予定だ。場合によればさらに長期間に亘るという、、、

服用し始めると副作用で下痢や吐き気が。。ある日、視界が急に眩しくなり、血圧が上200、脈拍は140を超えて救急車を呼ぼうと思ったほど尋常ではなくなる。
落ち着いてから、かかりつけのT医院に相談に行くと「脱水症状」を疑われた。下痢が嫌なので水分を控えめにしていたのが良くないと…また貧血が改善されてないので、鉄・ビタミンB12・葉酸などのサプリ摂取を勧められる。気のせいではなく髪の毛もさらに薄くなったような気がする。。。。。

この時、家内は生まれたばかり(5月28日誕生!諒くんです!!)の孫の世話をしに埼玉に単身で行っていた… 

初孫である。本来なら一刻も早く会いたかったので一緒に埼玉へ飛んで行きたかったのだが、、、自宅から6時間もかかる娘の家まではガンダーラへ行く三蔵法師のような心持ちで、躊躇せざるを得なかった。
娘が写真をメールで送ってきてくれるのが何よりも励みになった。

同居する高齢の義父母を頼っても仕方ないので、1人で2週間ほどは副作用に耐えた。

3週間後の検診日、主治医に副作用のことを相談すると、薬量25mg2錠を1日2回、100mgに減量してみようということになった。


それでも3日に1回はダンピング症状が現れ、猛烈な吐き気に耐え切れず(何も吐けないのだが唾液が止めどもなく流れるので…)ゴミ箱を1時間ほど抱える日々は続く。
口内炎が常時できていたり、目が痛く充血したり、胃がないために鉄やビタミンB12が取り込みにくくて貧血から立ちくらみ、ダルさは改善しない。

体重は入院前から10キロ減量の68キロ台、、、たまに67キロ台まで減少する。
腕や太ももの筋肉が削げて細くなっているのが目で確認できるし、ズボンのウエストサイズは85~88cmをはいていたのが、80センチでも大きいくらいに細くなった。
腹の出っ張った中年体形が筋肉少な目の高校生のような体形に変身し、家内に羨ましがられている。。。私はこんな病気で痩せていくことに釈然としないのだが…

そしてこの暑さは、やる気と根気を奪っていく。。。

がん闘病記⑥ 退院を前に・・・

2010-08-29 23:55:51 | 日記
 明日の退院を前にベッドに横たわりながら目を閉じる。がんの告知から検査、入院、手術、術後の入院生活…毎日毎日仕事の後に来てくれた家内には感謝のしようもない。お世話になった方々や離れている子どもたち、内緒にしている両親のことなど様々なことが脳裏に浮かんできて眠れなかった。
これからの抗がん剤治療のことも頭をよぎった。せっかく時間を巻き戻してもらった命、しっかりと受け止めて耐えていこうと決めると意識が薄れていった。

入院中にしみじみ思ったのは、『誰かに起こることは、誰にでも起こり得る』ということだった。私の人生で「死」ということをこれほど深く考えたことはこれまでになかった。しかしこれは悪いことではなかったような気もする。ここらでそういった事も少しは考えよということだろう。

病院内で点滴をぶら下げてヨタヨタ歩く人々は何も特別な人たちではない。
最近、自分はいつまでも死なないと思っている人が多いらしいが…
私も漠然とだが、少し前までは今のような溌剌とした楽しい日々が延々と続いていくものと思っていた節がある。実に傲慢な考え方だ。
これまで周りで大きな病に罹る人たちを何人も見てきたし、亡くなっていく人たちも数え切れないほど見送ってきたが、今の自分にはまったく関係のない話だと信じていたし、ずっと信じていたかった。。

 実際に私が「がん」という「死」と隣り合わせのような病気になり、ステージ3の自分の病状で5年生存率が60%とか50%とかいう数字をネットで見るにつけ、ショックで眩暈を起こしそうになったこともある。だからその手のコンテンツは見ない方がいい。凹むだけだ。しかし『5年の間に半分の人はこの世から消えて無くなる現実』を私には関係のない話だと打ち消すことは、もはや不可能である。
たった5ヶ月ほど前までは毎日パラダイスのような人生を送っていた私が、この年齢で「死」というものをはっきり意識することになるとは思ってもみなかった。

 昔の人は死生観というか死に対するふんぎりがしっかり身に付いていたようだ。
年を重ねると「あの世」というのを意識し始めて、人間は皆そこへ旅立つものと納得していた節がある。都合がいいと言えばそれまでだが、祖先もみんな「あの世」で待っていてくれると思えば何となくは安心である(笑)

今日の希薄な人間関係が嘘のような濃密な社会の繋がりがあったこともあり、また祖先の供養を日常的に行い、宗教的儀式とも縁が深かったため、絶えず「死」という現実を目の当たりにしていたはずだ。今の義父母たちを見ていてもそう思う。
人間はいずれ自然に還るんやという覚悟みたいなものが備わり、確固たる還る場所、基盤が備わっていたから「死」というもを受け入れやすい土壌があったと思う。生きているのはそのための準備期間という考え方もあるほどだ。

ところが今は違う。ものすごく諦めが悪い。まさしく往生際が悪いのである。
これからはもっと殺伐としてくるだろう。1人で暮らして1人で死んでゆく人が増え続ける。自身のアイデンティティも根無し草のように頼りないまま、社会やしきたりと無縁で過ごす人が増えて、死んでしまったらどうなるのかと自問すれば『有り得ない現実』としか認識できず、そこのところは目をつぶって日々を過ごしている人が大勢いる。

身内にさえ無関心になり、この世に存在しない人が存在する時代にもなってきた。自分だけは当分死なない。死ぬわけがないという身勝手な思い込みが現代の幽霊を生み出しているのかも知れないが、そう思って死んでいく人間たちも現実に死に切れないでいるから皮肉でもある。帳簿上、200歳とか150歳とかの人間がうようよ亡霊のように彷徨っているのが今の世の中だ。

 人間は1人では生きていけない。死んでからも人のお世話にならなければならない。
だから謙虚でいるべきところでは周りを慮っていこうと思う。
今回、私は病を患ってちょっと周りが見えてきた。以前より周囲に感謝したり、思いやる余裕が出てきたような気がする。
『先が見えてくると変なこだわりを捨てて謙虚になれるのかも知れないな~』と言うと家内は『先が見えるって??Yちゃんは前より我儘になってるから当分は大丈夫やろ』と言い返された。。。マジかよ!?我儘かな~??でも良かった(笑)

生と死は表裏一体…誰にでも、いつでも「死」は起こり得るということを肝に銘じ、爽やかに生きていきたいと願いながら、非日常の入院生活を終えようとしていた。

がん闘病記⑤ 術後~退院へ

2010-08-28 17:16:40 | 日記
 入院時の体重は78キロあったが、少しずつ体重は減少している。
術後1年から2年間で最も減少するらいい。一割から一割五分は仕方ないと覚悟しているが、あんまり痩せてしまうのは如何なものか…。
5月6日、術後8日目である。
家でどんだけダイエットしても75キロを切ることはなかったが、すでに体重はいとも簡単に72キロ台へシェイプアップ。
ただし不健康な減量なので嬉しくもなんともない。
一つだけ良かったことは血圧が下がったこと。以前ブログにも書いたが私は高血圧気味で薬を服用していたが、術後は上110前後、下は60~70と降圧剤を必要としなくなった。
主治医と相談して一応様子見で休止することになった。7年ぶりに薬から開放され嬉しかった。

 巷ではゴールデンウイークも終わり、みんな今日から仕事だ。私は相変わらず病院で休日だ…連休の間は連日多くの見舞い客で病室は賑わった。本当に有り難いことだった。1666号室はゆったりしているが、同室の3人に迷惑がかからないよう食堂脇の談話スペースで過ごすことも多い。
 
 術後9日目、5階にあるファミマや1階にあるドトールで買い食いを始める。
味気ない病院食に比べて甘い・塩辛い・酸っぱいなどは段違いに濃い味で戸惑うほどだ。
プリンやサンドイッチ、ヨーグルトなどの乳製品などを買い漁る。

しかし、悲劇は突然やって来た。。。突然こみ上げる猛烈な吐き気。。胃がないので吐き出す力もなく延々と続くような悪夢の時間・・・
「ううう、ちょっと待ってくれ」、、、30分間以上洗面所から離れられない。
唾液が止めどもなく流れる。指を突っ込んでも吐けない苦しみは表現できない。
ベッドの脇に跪き腹を両手で押さえながら「なんじゃ~こりゃ~」と松田優作のセリフが口をつく。

何を食べたからとか、急いで食べたからとかではなく、何の前触れもなく突然やってくる苦悶の時間。
ひどい時は1時間以上も松田優作のままだ。ついでに最後の言葉だった「死にたくないよ~」とのセリフも言ってみる。このセリフの後、彼は好きなタバコをくわえて仰向けに死んでしまうが、私の場合、状況は何も変わらない。モノを吐くための吐き気でないことに気付くが、どうしょうもない。
本当に苦しいので改めて「死にたくないよ~」と呟いてみるが、鉄砲で撃たれてないので死ねないし、気分も好転しない…

術後10日目、夜10時頃、冷たいヤクルトとバナナを食べてすぐ、あまりに苦しくてナースコールを押すか詰め所に行こうと廊下に出たが、向こうまで歩いていく気力もなく部屋の洗面所の前で跪く…
術後11日目、看護師や巡回してくる医者に対応を尋ねても「ゆっくり食べるしかないですね」とそっけない。こんな状態では飲食に対してすごく臆病になってしまうな~と冷蔵庫に詰め込んだ食料品群を眺めながら気分はブルー。。。
その後は日に一回の頻度で「なんじゃ~こりゃ~」という状況が定着。。。参った。

術後14日で退院できるところ、家の都合で15日間滞在させてもらうことにした。

看護士(ナース)は九割がた若いし、化粧っ気もバッチリだ!どこか指名のきく店にきたような錯覚になる。。3日くらいのローテーションがあって順番で違うナースが面倒をみてくれる。みんな当たり前だが優しい。今回初めての入院で『ナースの嫌いな男はいない』ということも納得できた。。。仕事は時間も不規則だしかなり重労働である。もっと給料をあげてやって欲しい仕事だと思う。N先生に陳情しておこう。
晩遅くにお気に入りのナースOYちゃんがやって来たので色々と取材してみたが、彼女たちも人間関係の苦労が多いみたいだ。患者とではなく先輩後輩とでだ。私自身、さすがに今回ここでの人間関係の深入りはスルーしておこうと決めている(笑)


術後14日目、明日でいよいよ娑婆に出られる。。。
最後の晩飯は普通食にしてもらった。 
とても食べられる量じゃないが御飯も半分以上食べることができて嬉しかったな~
ベッドに横たわりながら目を閉じ、この2週間の貴重な体験をしみじみ反芻してみた。


がん闘病記④ 手術からの生還~

2010-08-27 16:00:21 | 日記
胃の上中部を中心とした進行癌、あるいは低分化癌で胃全体に癌がひろがっているような症例では、胃を全部摘出する「胃全摘術」が選択される。私の場合は複数のリンパ節にかなり転移していたようで、それで尚且つ周囲への浸潤があるときには膵臓や脾臓も合併切除すると言われていたが、それはまのがれた。
それでも術後の主治医からの説明では、ステージ2-Bと想定されていた段階からワンランク悪い方へシフトしたステージ3-Aとの判定だった。リンパ節への転移数が多かったことによるという。。。

胃全摘後の再建術は食道と小腸、小腸と小腸をつなぎ、十二指腸側は閉鎖してしまう「ルーワイ法」が一番よく用いられるが、私もその方法で飲食ができるように再建された。


入院した際に看護師から色々な資料をもらうが、その中に今後のおおまかなスケジュールが記された「クリニカルパス」なるものが私の希望の源であった。
術後何日目に水が飲める、食事ができる、ドレーンチューブがはずれる、点滴がはずされる、
風呂に入れる、といったことが細かく書かれている。
とにかくたくさんの管に繋がれているので鬱陶しいことこの上ない。そんな不自由さの中、『明日になればこれができる』というのは何よりも励みになった。

術後は毎日検診に看護師や医師たちが回ってくる。検温や採血や血圧測定、ベッドに寝たままのレントゲンなど、最初のうちは結構頻繁に行う。。。
毎日自分で便と尿の回数を記入する。。
術後翌日、色々なものをぶら下げながら看護師と歩行訓練をする。ゆっくりにしか歩けない!腹が引きつってる感じがして猫背になって一歩一歩院内を歩く。。。
夜中や明け方の院内は空いている(当たり前か…)  
術後2日目に弾性ストッキングを脱ぐ。これはエコノミー症候群のような症状を回避する目的で術後ずっと履いている。看護師に体を拭いてもらう。。。いい気分~
術後3日目にようやく水を飲むことができる。うがいは毎日マメにしていたが、水が飲めないのが結構辛い。。。背中の硬膜外麻酔のチューブがはずされる。
術後4日目、三分粥が始まり点滴が朝晩2回となる、、、
う~ん、、、これではパワーがつかないし~ これが噂に聞く病院食か~。。。
看護師に洗髪してもらえるが管はまだ幾つか装着したままだ。でも生き返った気分になる。
術後5日目、五分粥に、、。
術後6日目には七分粥で少しはお米の歯ざわりが確認できるか。。腹腔内の汚れた体液や血液を排出するドレーンチューブが2本はずされた。液洩れする左のドレーンを抜き、チューブより広い傷口を麻酔無しで縫う。五秒の我慢もかなり痛い~!これが入院中に一番痛い経験だった。どうやら合併症もなく良好のようだ。ただ腹帯でかぶれたのか胴体が真っ赤になってしまった。すぐにクラリチンという薬を処方してもらうが…効果はなかったかな~
術後7日目、食事は全粥になり、院内のコンビニとかドトールでの買い食い(笑)もOK!
管が取れたので明日からシャワーもOK!

徐々に普通の生活が実感できる幸せは筆舌につくせない。あと一週間で家に帰れる!
しかし、この時は強烈な吐き気やダンピング症状など、術後の苦しみはまだ味わっていなかったのだった・・・

がん闘病記③ 入院~いざ手術へ

2010-08-26 17:28:49 | 日記
 入院するのも体を切られるのも初めての経験だ。怖くないと言ったらウソになる。
しかもどういう状態かその時点で100%把握している者が誰もいないのに(がんの手術は大概そんなものらしい…)手術に臨むのかと思うと、命綱を着けずにビルの屋上の縁に佇むような心細さを覚える。
術前の主治医の説明では、放置すれば一年数ヶ月後には涅槃で家族を待たねばならないという。それは間違いなさそうだ。助かるためにはもう私には選択の余地はないのである。紛れもなくステージ2以上の胃がんなのだから、勇気を持って主治医のY医師率いるチームに命を預けるしかない。。。

 4月24日、A社長が「励ます会」を催してくれた。本当にありがたいことだ。
しゃぶしゃぶをイヤというほどご馳走になり、生ビールや焼酎を痛飲した。。。『きっとこんなにたくさん食べられるのもこれが最後なんやろな~』と、私以外のメンバーは皆が感傷的になっていた。私は絶対ここに戻って来てまた今と同じ量を食べてやる!と思っていたのだが、、、

数日前から家内と一緒に寝巻きからバスタオル、洗面用具、スリッパまですべて買い揃えた。紙袋やバックに詰め込んで準備万端、心静かに入院当日の朝を迎えた。
 4月26日、昼前に新車の匂いのするクラウン・ロイヤルサルーンGに乗った友人のM社長がやって来た。病院に送ってくれるという。みんな本当に優しくて、その優しさが心に沁みる。

入院手続きを済ませ16階の病室へ…窓際のベッドで見晴らしは非常に素晴らしい!
帝国ホテルもすぐそばに見える。

大阪の平野が見渡せる。東は奈良県生駒山
西は大阪湾、南は大阪城をはじめ遠く和歌山方面まで望める。伊丹空港へ向かう飛行機がひっきりなしに飛んでいくのもよく見える。
 
普通の病院では6人入る部屋に4人。。。
ホテルのような付帯施設の付いたこの病院の人気は高い。
看護師に色々なレクチャーを受ける。夕方、家内が帰ってしまうと情けない話だが、急に心細くなった。。。男は情けない生き物だな~と凹んでしまった。
 4月27日、この日から手術のための準備を色々させられる。食事は普通食でなかなか美味しい!病院食のイメージとは全然違うと思った。
晩には下剤を飲んだり、ばたばた慣れない生活を強いられる。
なかなか眠れないのも無理はない。。。

 4月28日、いよいよ手術日だ。前夜はさっぱり眠れなかった…
入院患者の皆さんとも少しずつ仲良しに。。みんなに励まされる。
病室のみんな明るいわ~~田中さん木村さんは明日には退院ということで嬉しそう。
胃の全摘患者でも元気そうや~ん。。。
今を一生懸命に生きていれば、必ずいい明日が待ってると信じて頑張ろう!と気持ちを強くした。

手術前日家内と受けた山下先生の事前説明は非常に分かりやすく、放っておいたら来年の今頃は余命宣告だろうと言われた。開腹手術ではなく、6箇所程度の穴を開けて行う腹腔鏡術で胃の全摘等の切除を行う予定だと告げられる。がんのできている場所が悪く、リンパ節への切除も大きく取るので、予後も考慮して全部摘出することになった。

手術室などのある3階の区画まで手術着に着替えて看護士と家内と一緒に歩いていく。
別れ際、家内は泣くかなと思ったけど笑顔だった。この手術を受けなきゃ助からないと解った私も自分が想像していたより冷静沈着で、お互い手を振ってしばしのお別れとなった。ぶ厚い扉が閉まって私も笑顔で麻酔のセクションに。。。

4月28日(水)午後零時45分。
背骨に硬膜外麻酔のチューブを入れて(手術ではこれが一番痛いぐらいと表されているが言うほどでもない。これを入れると術後の痛みが全く違う)から手術室に歩いていき、そこで手術台に自ら登っていく。
手術室は結構大きい。まるでSF映画に出てくる宇宙船のコクピットのよう。モニターがいくつもあって見たことのない器材が整然と並んでいる。執刀医の山下先生らはまだいない。
肩に注射されると、一気に意識がなくなった。一瞬「くそっ!こんなに効き目が強いのか…」と、もっと見物していたかったが、意思ではどうにもならない強烈な麻酔効果だ。

気が付いたのは午後8時25分。麻酔が切れかけて手術室からストレッチャーで運び出されるときに時計が目に入った。硬膜外の麻酔術からだと8時間近くにも及ぶ手術だった。
16階の病室に帰るとA社長夫妻も待っててくれた。
体中から管がたくさん出ている。。。気分は悪くないが体はボォ~っと気だるい感じがした。家内とA夫人は別室で摘出してパレットに乗った私の胃を見ながらオペの様子などの説明を受けたようだ。。。A夫人も気丈な人だな~と妙に感心した。

がん闘病記② 精密検査~初めての入院に向けて 

2010-08-25 14:55:44 | 日記
 いつ行っても大混雑の大阪市総合医療センターだ・・・

 4月13日、市会議員で公務多忙なのをいとわず、N先生は一日中私に付き合ってくれた。N先生と私は勝手知りたる総合医療センターの医事課の奥へずんずん進む…今までは自分の知り合いや、知り合いの知り合いを数多くここに紹介してきたが、まさか自分自身のことで医事課の課長にお世話になるとは、、、一寸先は人間分からないものだな~と応接室のソファに腰掛けながらI課長と今後の打ち合わせをした。

主治医は消化器外科部長のY医師に決定。腹腔鏡手術のエキスパートで西日本では有数の術数を誇る消化器外科のエースだ。

順番を飛ばしてくれたY医師診察の後、血液検査、採尿、心電図、腹部胸部レントゲンを行い、この日は帰宅。
その晩、N先生が「励ます会」もやってくれた。家内とM社長も合流し大いに飲んで食べて、、、私の胃にとっては今生の幸せ気分だったかも知れない(笑)。

 4月15日、午後二時から二度目の胃カメラの検査。。胃カメラは二度とごめんと思っていたが、、、相変わらずしんどいわ~五ヶ所も細胞を採取された。だから時間も長い!『検査だけで体が参ってしまいそうや~』と待合にいた高齢の患者さんが言っていたが、その気持ちがよく分かった。

どの程度の癌なのか…少しずつ判明しょうとしている。
誰もが口では「大丈夫、大丈夫!」と励ましてくれるのだが、確実に治るがんなのか、転移していないのか、聞いても誰も教えてはくれないから不安は尽きない。
帰りはクルマでA社長夫妻が迎えに来てくれた。A社長も2年前に口腔底癌の手術をここで受け、現在も治療中である。自身ががん患者なので私が胃がんになったことを人一倍、気にかけてくれる。

 4月19日、がんの範囲や腹膜伝播や肝臓、すい臓などの他の臓器への転移が無いかを調べる造影CT検査。

初めての体験で少しだけドキドキするが、服を脱いで病院の備え付けの寝巻に着替える。検査は淡々と進む。腕の静脈にヨードを点滴、、体が熱くなると言われていたが全く感じないほど。単純CTと比べると情報量の差は明白である。

 4月20日、呼吸スクリーニングという麻酔のための検査とY医師の検診で病状の所見が出ると同時に来週26日(月)に入院、28日(水)にオペと決定した。
人気者のY医師のオペまではかなり待つと覚悟していたが、N先生のプッシュのおかげでトントン拍子でラッキーだった。

 この段階の所見は、がんは胃の複数のリンパ節に転移が見られるが、影像を見る限りは肝臓やその他の臓器には転移しておらず、この時点ではステージ2ーBの進行癌というものだった。。Y医師は切ってみなければ分からないがと前置きして、胃を切る範囲も胃の機能で大切な噴門部(入口)切除や全摘はないと。。。
不思議なもので切らなければ命はない、切らなければ決して治らないと確認すると、もう切腹の覚悟もすっかりできた。気持ちも少し落ち着いたような気がした。

晩にはA社長夫妻と晩ご飯を一緒に。A社長自身の病状日誌なども見せてもらい大いに励まされた。感謝!

 4月22日、バリウム検査を実施。これも初体験だ。考えたらこれまで私自身は検査らしい検査は受けたことがなかったんやな~と、こんな病に罹った責任が自分自身の放漫な生活ぶりにあったことに気付く。
やるべきことはやっておけば良かったな…そう思ってももう後の祭りである。

肩に胃腸の動きを抑える注射。発泡性の粉を少ない水で一気に飲み込む。ゲップ厳禁。出そうになったら唾を飲み込むように。そして結構大がかりの機械の上に…上下左右の指示がたくさん出る。台自体も色々動く。年寄りには厳しいかも。帰りに下剤をもらう。水分を取れと言われペットボトルのお茶を買う。。。
九十分後、下剤の効果てきめん…これも初めての経験だ。

 すべての検査を終え、いよいよ入院まで4日。
初めてづくしの日々がこれからも続くんやな~とぼんやり考える。
覚悟は決まってもインターネットで病気のことを調べるとロクな話はないので気分は滅入るし、あれこれ考えるともう朝まで眠れない。そんな日も何日かあった。
病気になったらあまりネットは見ないに限る。。。病人の心理は負へ傾いているので良い情報には目をつぶり、悪いことばかりを探そうとするものだ。
そんな時、地元大阪の友人知人、東京の友人など率直な励ましがどれほど心強かったか、、、開き直りとは違うけど、少しずつ自分を取り戻せたような気がする。

気分を切り替えることができて、手術までに私の胃に最後の大判振る舞いをしてやろうと思った。。。次々と料理やお酒が頭をよぎる…

がん闘病記① がん告知~精密検査

2010-08-24 16:05:24 | 日記
 一番仲良しだった高校3-1のクラス会幹事も無事に務めて、東京での楽園のような日々を過ごした翌週、かかりつけのクリニックで半年に一回やっている血液検査をした。
その前日もA社長一家としこたま飲んで臨んだ血液検査・・・
今回の一連の話のすべてはこの血液検査から始まる。

 3月31日、近所のT医院で半年に一回、定期的にしていた血液検査に出かけた。
前日に遅くまで飲んでいたので肝臓のγ数値はまた上昇してるやろか?? 脂っこいモノばかり食べてコレステロールや中性脂肪がまたアップしてるんやろな~と、緊張感のかけらもなく、いつも通りに採血してもらう。。。

翌日、検査結果を聞きにT医院へ行くと、T先生は険しい顔をしながら「貧血が気になるなぁ~、、今までこんなこと一度もなかったから、しっかり検査した方がいいな~」と、体内のどこからか出血している可能性を示唆される。

『貧血?、そんなの大したことないじゃない、、何でそんな険しい顔をして…』と不思議に思ったが、T先生は消化器か腎臓あたりに病変があるのではと懸念し、検便と採尿、胃の検査を行うことをすすめてくれた。
『何かちょっとオーバーやな~』と思いつつも4月3日には検便・採尿の異常がないことを確認する。
そして4月7日に生まれて初めての胃カメラ検査を近所の総合病院、HO病院で行うことになった。
HO病院へはT先生の紹介だ。検査結果はT先生から連絡が入る手はずだ。
地域医療と基幹医療施設の連携で限られた医療資源を有効に使うということの流れだ。

 この胃カメラの検査は非常に苦しい体験だった。もう二度とゴメンだ。

検査中、自分の胃の中の様子をTV画面で見ることができる。素人目にも何か潰瘍ができているのが分かった。検査をしている医師も「しっかり潰瘍、病変が確認できますね」とヨードをスプレーしながら淡々と説明する。胃の組織を摘み取ってどういった病変なのか病理検査を行うと言う。
 
4月12日、その検査結果が出た。。。
T医師から電話がかかった。歩いて30秒のT医院がなぜかとても遠い場所に思えた。
何事もないことを祈っていたが・・・その期待は脆くも崩れ去った。
T医師とは十年来の付き合いだが、彼は今まで聞いたことのないような冷静な声で告げた。「残念ながら、2型の胃がんです」・・・・・・・・・・・・・・・

しばしの沈黙が診察室を支配する。それから何をどう聞いたのかはあまり憶えてない。
胃カメラの所見では進行がんには間違いないが、その進行具合ははっきり分からないとのことだった。。。そしてそれが決して早期のがんではないことを付け加えてからT医師は言った。「すぐに手術しましょう。紹介状を書きますので、、、病院は大阪市総合医療センターでいいですか??」 私が市会議員のN先生と懇意であることを知っているT医師はそう言うと、深くため息をついたことだけは今も鮮明に憶えている。。。告知を受けて医師の一言一句を漏らさず受け止めようと神経が異常に鋭敏になっている証左であろうか、、、これからの苦難を暗示するかのようで印象的だった。

家に帰って家内に事の次第を告げると、一瞬顔が紅潮してこわばったが、すぐに気分を切り替えて平静に「手術をして治したらええねん」と言った。彼女は今現在もずっと平静でいてくれる。バタバタと慌てず、いつも安心感を与えてくれる家内には非常に感謝していることは言うまでもない。

検査結果をすぐにN先生に電話して医療センターでの諸々をお願いした。。。翌日、4月13日、公務多忙な中をN先生が一緒に医療センターへ出向いてくれたのは非常に心強かった。 
目の前にそびえ立つ白い巨塔を仰ぎ見ながら、いよいよ癌との闘いが始まるんだと、決意を新たにした。。。




還って参りました・・・

2010-08-23 11:28:01 | 日記
久しぶりにこのブログに書き綴ることができて、喜びもひとしおである。

ちょうど4ヶ月ぶりのブログアップになるのか・・・
多くの方々に心配をかけてしまったが、やっと復活できたことになる。

何故これほど長期間にわたりブログを休んでいたのかというと、、、
実は私は胃がんに罹ってしまったのだ。。。それもステージ3の進行がんである。。。がんは今や日本人の2人に1人がかかり、3人に1人がこの病で命をおとすといわれる。

4月半ばに現実を知らされたのだが、その衝撃は実際に告知された者にしか分からないだろう。世の中の景色がこれまでとは違って見えたほどだ。
今後の身の処し方を色々と考えたりもした。何で私が…と自問してかなり落ち込んだ時期もあった。ネットで調べると良いことはあまり書いてないし、悪いことを見つけたがる患者心理にも気付き、ネットでがん情報は一切見ないことにした。

4月28日には胃の全摘と転移していたリンパ節郭清、十二指腸は閉鎖して食道と小腸を吻合して消化管の再建という8時間にもおよぶ手術を受けた。現在はTS-1という抗がん剤と免疫増強剤を服用しながら治療を続けている。

埼玉で離れて暮らす娘は当時、妊娠9ヶ月・・・とてもこの話はできない。出産して実際に会うまでは黙っておこうと家内と話し合った。東京に住む高齢の両親にはよほどのことがない限り永久に隠して通そうとも決め、いまだに内緒にしている。

娘はたまに私のブログを閲覧しているので、しばし闘病日記のようになるであろう私のブログは中止せざるを得ないし、だいたいブログを続ける気持ちの余裕が湧いてこなかった。
そんな事情で4ヶ月間の休憩となったわけである。

その娘がこの20日から生後3カ月の孫と旦那さんとともに帰省している。「パパ痩せたんちゃう?」という娘の問いかけをきっかけに病気のことを正直に話した。最初はビックリしてショックを隠せない様子だったが、元気でいる私の姿を見て少しは安心してくれたようだ。こちらも胸のつかえが一つ取れたような気がして何かホッとした気分になった。

これから数回に亘って、まずはこれまでの闘病の記録を綴っておきたいと思う。
そして気持ちも新たに、今後も続くがんとの戦い(負けへんで!)を織り交ぜながらこのブログを続けていきたい。