東京大阪ラプソディー

私が生まれ育った故郷「東京」の友人たちへ、また私の「大阪」での生活を知る心優しき人たちに、徒然なるままに綴っています。

100,000人超え、おおきに~・・・

2013-02-20 22:09:32 | 日記
最近は私自身の怠慢からかつての賑わいはないのだが、やはり継続は力なりだな~と、、、
「東京大阪ラプソディー」を開設して1425日目の昨日、2013年2月19日のアクセスカウンターを見て、、、
このブログを閲覧してくれた人が延べ10万人を超えたのを知った。
超満員の甲子園球場2回~ 閲覧ページ数は20万以上にもなる。

この1400日あまりの間にあった良いこと悪いこと嬉しいこと悲しいこと諸々の出来事を思い起こした。
感慨深いと言ったら少し大袈裟かもしれないが、物思いに耽るに足る日々であったかな~

しかし、閲覧者1人につき100円づつ貯金しておいたら良かった!1000万円貯まっていたな(笑)

継続は力…歴史や伝統というのはこうして作られていくんやな~と思っていると、神田の老舗そば屋「かんだやぶそば」が全焼というニュース。
戦禍を逃れ東京都の歴史的建造物にも指定されていた数寄屋造りの店舗も跡形もない。残念なことだ。

「砂場」「更科」「藪」というのが江戸三大そば屋であるが、1880年創業のこの店は、そのうちのひとつの流れを汲む店であった。
私の大好きな「鬼平犯科帳」の原作者、池波正太郎先生も愛し通った名店で、先生の作品にも度々登場する。


「江戸=そば、上方(関西)=うどん」 これが現代の常識だが、江戸初期、江戸っ子はうどんを食べていた。
そばがいつ頃から広まったか正確な所は定かではないが、江戸そば三大系譜のうち、砂場のルーツが大阪であることは確かなようだ。
大阪城築城の際に、資材置き場だった砂場の近くに2軒のそば屋が。。。「津国屋」と「和泉屋」という屋号はあったが、通称の「砂場」の方が使われていた。その砂場の系統の店が江戸に進出。
寛延4年(1751年)の『蕎麦全書』には薬研堀(現在の中央区東日本橋1~2丁目辺り)に「大和屋大阪砂場そば」という店が紹介されている。

『更科』の創業は寛政元年(1789年)と伝えられている。
信州特産の織物の行商人をしていた反物商・布屋太兵衛が、領主・保科兵部少輔の助言でそば屋に転向、麻布永坂高稲荷下に「信州更科蕎麦処」を開店したのが始まりだそうだ。

「更科(さらしな)」 はそばの産地である信州更級の更と保科家の科を組み合わせたもので、1750年頃にはすでに存在していたようだ。「更科」は明治10年代まで暖簾分けなどを一切しておらず、布屋太兵衛の一軒の営業だった。
現在では東京都港区麻布十番にある3件の更科のほかにも都内の芝大門、神田錦町、有楽町などに暖簾分けをした更科のお店があるそうなので今度探して行ってみたい。

そして『薮(やぶ)』、、、薮で一番古いのは雑司ヶ谷にあった「爺がそば(じじがそば)」 と言われている。

▲薮蕎麦系の元祖とされる、雑司ヶ谷鬼子母神前にあつた名物蕎麦屋「爺が蕎麦」の賑わう様子。
 『江戸名所百人一首』近藤助五郎清春作。

店の周りに竹藪があった為、いつのまにか店名よりも通称の「薮」が使われるようになり、寛政年間には「薮」を名乗るそば屋が増えた。
たくさんあった薮そばの中で現在につながるのが団子坂にあった「蔦谷(つたや)」で通称「団子坂薮蕎麦」。
▲駒込団子坂藪下にあった藪蕎麦「蔦屋」の風景。
敷地1600坪余り。離れ座敷もあり、庭に滝を配するなど蕎麦屋というより・・・

この店が今回火事になった「かんだやぶそば」のルーツだ。
団子坂藪蕎麦の支店であった神田淡路町の店を砂場系であった堀田七兵衛が譲り受けて1880年に「かんだやぶそば」として創業。
1923年に関東大震災で被災して建て替えられたのが現店舗だった。

親戚にあたる「並木薮蕎麦」「池の端薮蕎麦」と合わせて『薮御三家』と呼ばれていたが、代々受け継いできたそばつゆも灰燼に帰してしまったようだ。

▲「並木藪蕎麦」は雷門前の並木通りに面している。
他にも明治時代に暖簾分けされた「上野やぶそば」「浜町薮そば」があるが、やっぱり蕎麦屋は下町が似合う。

たかが蕎麦、されど蕎麦だ。長い歴史の中で伝統の味が受け継がれてきたわけで、もう文化遺産の域にある。
是非とも再興して欲しい。
私も今度東京へ舞い戻ったら、そうした薀蓄たっぷりのそば屋廻りでもしながら、のんびりと一杯やりたいものだ。

フェースブックやツイッターのように、このブログを始めた当初にはなかったような媒体がネット上で次々と出てくる中、私のブログもあとどれくらい続くか分からないが、10万人も超えたことだし、藪蕎麦の精神を見習いながら「細く長く」つなげていければと思った。




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