発見記録

フランスの歴史と文学

Je m'en vais en douceur フランソワ・ヌリシエ アカデミー・ゴンクールを去る

2008-01-15 10:33:28 | インポート

前回引き合いに出したフランソワ・ヌリシエ(1927年生まれ)は、ゴンクール賞の審査を降りることになった。
Le Figaro - François Nourissier :
?Je m'en vais en douceur?

Propos recueillis par Étienne de Montety
09/01/2008 
2003年の?Prince des Berlingot?では、自身のパーキンソン病との闘いを初めて明らかにしていた。
賞の審査に当たる「アカデミー・ゴンクール」の会員に1977年選ばれ、1996年から2002年までは議長。小説は自伝的作風ということだが、馴染みがない。最近では特にミシェル・ウエルベックを高く評価、新作発表のたび論議を呼ぶウエルベックの応援団長(?)としてその名を記憶したのは、私一人ではないだろう。

2005年のゴンクール賞はフランソワ・ヴェイエルガンス?Trois jours chez ma mère ?に与えられたが、ヌリシエはこの年9月、早々とLe Figaro magazineでウエルベック『ある島の可能性』を推し、投票を予告。有力会員ヌリシエが個人的に「宣伝」を行なうことに、社会党のクロード・アレーグル元教育相がL‘Expressで疑問を呈した。L'Express du 15/09/2005
Houellebecq à tout prix?


Le Monde.fr - La dernière passion de François Nourissier   LE MONDE | 09.01.08 | (これは05年の記事の再録)

関連性があるようなないような逸話を、ジャック・ブレネールの本で見つけた(Jacques Brenner, Tableau de la vie litteraire en France d’avant-guerre à nos jours, Luneau Ascot Editeurs, 1982 La comédie Goncourtと題した章にある)

1968年にはユルスナール『黒の過程』、アルベール・コーエン『選ばれた女』Belle du Seigneurが刊行された。しかしゴンクール賞を争ったのはベルナール・クラヴェルの?Les Fruits de l’hiver?とヌリシエの?Le Maître de maison?である。

ゴンクール賞に先んじて、まずパリ市文学大賞le Grand Prix littéraire de la Ville de Parisが?Les Fruits de l’hiver?に与えられた。文学賞審査員は同一作のダブル受賞を嫌う。クラヴェルのゴンクール受賞は遠のいたかと思えた。
しかしベルナール・ピヴォがLe Figaro littéraireで素っ破抜きをやる。パリ市文学大賞受賞はルイ・アラゴンが市議会の「進歩的」議員に働きかけ投票させたらしい。友人ヌリシエの「邪魔者をどける」ための手だった。悪名高い文学賞裏工作の一例。

結局10名による投票でクラヴェルとヌリシエが各5票を獲得。2票分の権利を持つ議長ロラン・ドルジュレスがクラヴェルに票を投じ、受賞作が決まった。5分後、アラゴンのアカデミー辞任が知らされた。

「この事件の妙味は」、とブレネールは注釈する、「クラヴェルの本は、アラゴンにとってスターリンが世界のあらゆる希望を体現していた頃、彼が熱烈に擁護したあの『社会主義リアリズム』に属することだ。逆にヌリシエの?Le Maître de maison?は、田舎の家を所有したパリのブルジョワ青年の精神状態をあらわにする。プロレタリア文学から何と遠いことか!(これはただ事実を言うので、賛辞にも悪口にもなるものではない)
ベルナール・クラヴェルはごくありふれた人物に私たちを引き合わせ、彼らに興味を持たす術を心得ている。二人の老人、退職したパン屋とその妻、戦中から戦後まもない頃だ。彼らと共に古い世界が死に、生まれてくる新しい世界を彼らはまったく理解できない。証言、社会学的記録とも言える、しかし特定の時代の小さな町の、慎ましい人々 les petites gensの暮らしの、優れた証言、堅実な記録である。
その書法は誠実、ただクラヴェルは言語を道具として使うのに、ヌリシエは楽器のように言語を奏でるとでも言おう。クラヴェルでは大事なのは物語である。ヌリシエでは文体が読む者を引き止める。クラヴェルとヌリシエの対立は、アカデミー・ゴンクールを分つ二つの流れをはっきりと示していた。《人生の一片》派と《華麗なる一節》派である」(L’écriture est honnête : on dira seulement que Clavel se sert du langage comme d’un outil, tandis que Nourissier en joue comme d’un instrument de musique. Chez Clavel , c’est l’histoire qui compte. Chez Nourissier, c’est le style qui retient. L’opposition Clavel ? Nourissier mettait en évidence les deux courants qui se partagent l’Académie Goncourt : les partisans de la tranche de vie et les partisans du morceau de la littérature.)

そういうふうに整理できるのか(もちろん四半世紀も前の本である)、検証しようとすれば大変なことになる。ただここでも「文体」が問題にされていて、前の話とつながる。
原理的に文学を考える必要を、感じないわけではない。ただその種の本に取り組む忍耐力を、どうも私はなくしてしまったらしい。逸話を拾うことで、切れ味鋭い理論には到達できなくても、省察もどきにはなるのではないか。そう考えている。