発見記録

フランスの歴史と文学

作家トロワイヤの死(2)

2007-03-20 10:21:52 | インポート

トロワイヤの訃報を知らせる記事がお決まりのように言う「SOFRESの世論調査でフランス人がいちばん愛する作家」、1994年の調査(France 2)だとすればこれは別物かもしれないが、?Une étude SOFRES - France-Loisirs - " le Monde " Les millionnaires de la lecture?(LE MONDE | 22 juin 1990)には

Henri Troyat est " l'écrivain français le plus important du vingtièmèsiècle ". Telle est l'opinion de nos concitoyens. Les personnes interrogées avaient la possibilité de citer cinq noms. En fait, très peu l'ont fait _ par hésitation ? par ignorance ?, _ la plupart se limitant à un ou à deux. L'auteur de la Gouvernante française, qui figurait à la onzième place dans la liste des livres les plus lus cette année, est cité par 11,1 % des personnes interrogées, loin devant Camus (7 %), Sagan (6,3 %), Sartre (5,8 %), Sulitzer (5,4 %), Bernard Clavel (5,3 %), Pagnol (5,1 %), Decaux (4,6 %). Viennent ensuite Bazin, Malraux, Bourin, Deforges, qui précèdent Mauriac et Simenon.

アンリ・トロワイヤは「20世紀でいちばん重要なフランス作家」である。これがフランス人一般の意見だ。回答者は作家を5人まで挙げることができた。実際にはそれだけ挙げた人はごく少数で―迷ったのか、知らないのか―ほとんどは1人か2人にとどめている。今年最も読まれた本のリストで11位だった?La Gouvernante française?(フランスから来た女性家庭教師)の著者を、回答者の11.1%が選んでいる。カミュ(7%)、サガン(6.3%)、サルトル(5.8%)、シュリッツェル(5.4%)、ベルナール・クラヴェル(5.3%)、パニョル(5.1%)、〔アラン・〕ドゥコー(4.6%)。次に〔エルヴェ・〕バザン、マルロー、〔ジャンヌ・〕ブーラン、〔レジーヌ・〕ドゥフォルジュ、これにモーリアックとシムノンが続く。

ランキング上位にはプルーストもセリーヌもジッドも挙がらない、フランス人の「文学的記憶」は「この上なく移ろいやすい」という。今ならどんな結果になるか。年代や社会階層による違いもあるだろう。ジャンルとしての伝記の人気も、一時ほどではない。

トロワイヤの?Juliette Drouet ?(Flammarion, 1997)は、先行する伝記(Gérard Pouchain et Robert Sabourin,?Juliette Drouet ou la dépaysée?)からの盗用があるとして1998年、訴訟を受けた。パリ大審裁判所では無罪(2000)、しかし控訴院判決はトロワイヤと出版社に罰金の支払いと本の販売停止を命じる(2003)
翌年、トロワイヤが破棄院への抗告を取り下げたのを受け、アスリーヌがブログで取り上げた( Troyat avait bien recopié

寄る年波に(彼は1911年生まれだ)伝記の執筆に必要な調査の努力とエネルギーを欠くようになり、自身の『ジュリエット・ドルーエ』を書いた時には、いささか同業者からの剽窃をやりすぎた、とでも言おうか。 
(・・・)従って、アカデミー・フランセーズの最古参者に規約の第13条、「名誉を重んじる者にふさわしくない何らかの行為を会員が行なった場合、過ちの大きさにより出席停止か除名とする」を適用するような無粋で執拗そのものの行ないは、誰もしないはずだ。

大きな反響を呼んだ事件ではなかった。抗告取り下げもLe Mondeは記事にしていない。伝記作家アスリーヌは「同業者」としての自負と自戒の念をこめたのだろうが、コメントも(このブログにしては)少ない。

トロワイヤは高齢でそれが無理になるまで、原稿を立って書いた。伝説的な書き物台écritoireを前に執筆中の写真がParis-Match記事(ページ下)に。
写真が撮影されたブロメイユの別荘を、トロワイヤは?La Dérision?(笑うべき、取るにたらぬもの)と名づけたという。虚無の感覚が、ロシア革命と亡命の体験から来ることは、自身繰り返し語っている。『仄明かり』 Faux jour の出版に際して筆名トロワイヤを名乗ることさえ、青年レフ(レオン)・タラソフには何か特別の重さで感じられたようだ。

彼はパリの電話室で、三分足らずの間にアンリ・トロワイヤとなった。電話の相手は、原稿に目を通し虜(とりこ)になったプロン社のモーリス・ブールデル。「ペンネームを使うことをお勧めします。タラソフはよくない」 思案する、略してみる。タラ?トラ?「レオン・トロワイヤはどうでしょう」、青年は提案する。「レオン?もっと良いのがありませんか」と編集者は迫る。「それならアンリは?」口ごもりながらレオンは言う、まったくの思いつき。
『仄明かり』の著者は筆名で電話室から出た、ぺてんを働いたような激しい感情から、どんな時にも逃れられないだろう。本の成功、「ポピュリスト大賞」の受賞まで、時間はかからなかった。しかしこの権利剥奪、呪い、力を奪われることの眩暈(めまい)は、トロワイヤの主人公たちすべてに付きまとうだろう。( "Cette fragilité têtue, humiliante, indomptable" par Jean-Louis Ezine, Le Nouvel Observateur) 

『蜘蛛』(福永武彦訳 新潮文庫 1951)の訳者あとがきには

『蜘蛛』の中にある虚無的な絶望感は、日本の小説からは縁の遠いものだが、戦後の日本の読者にとっては必ずしも縁遠くない。作者が、そうした若いインテリゲンチャの救いのない悲劇を作品として構想したことに、どういう意味を見出せばいいか。

主人公の青年ジェラアルは、部屋に閉じこもって英国の探偵小説を翻訳し、「悪」についての哲学論文を書いている。
三人の姉妹がやがて結婚し家を出て行くのを何とか妨げようと、青年は躍起になる。

そしてジェラアルは思い出した。子供の頃、姉妹に近づいて彼女等を陽気に笑わせているような奴は、誰でも皆ひどく虫が好かなかったことを。ある時エリザベエトが、同じ年頃の少年と一緒に自転車に乗って遊びに行ったことがあった。その時ジェラアルは窒息して死ぬつもりで押入れの中に忍び込んだ。運よく人が彼を見附け出してくれた。彼は広間の長椅子の上に寝かされた。そして母親が冷たい水に浸した手拭で、彼の顔をやさしく撫でてくれた。「どうしてあんな処に隠れたの」 彼は決してそれに返事をしなかった。(p.123-124 漢字・仮名遣い一部変更)

ジェラアルは過去を追慕する、「彼には姉妹たちが必要だったのだ。姉妹たちがいなければ彼は生きて行くことができない。昔は高らかな声と、優美なドレスと、長い髪とに充ちていたこの家も、今は人生が潮のように引いて行った後の、幽かに潮の香を伝えるにすぎない貝殻となるのだろうか。」(p.231)

アルフォンス・アレかトポールなら、一人の変な男の物語として、ずっと短く効率の良い作品に仕上げただろう。青年の策略は、何かもっと不条理で、唖然とさせるものでないといけない。猫のように音を立てず家の中を歩くジェラアルが妹を驚かせるところ、母親の死と埋葬、それらの断片は、より「幻想怪奇」的に書かれた『蜘蛛』を想像させる。
バロニアンのフランス幻想文学史(J.B.Baronian, ?Panorama de la littérature fantastique de langue française? Stock, 1978)は「大衆的幻想ルネサンス」の見出しで、トロワイヤの短編集?Le Geste d’Eve?とその先駆けとしての?La Fosse comune?(邦訳『ふらんす怪談』)を、フレデリック・ダールの?Histoires déconcertantes?)→拙文などと一括りにしている。

前出エジーヌの記事に出てくるトロワイヤ1942年の長編?Le Mort saisit le vif?(死者は生者をとらえる)(*1)では、「あまりスケールの大きくない作家が、知られざる天才の未亡人と結婚し、故人の作品を自分の名で発表する」 

疑惑と裁判は、トロワイヤ晩年の静かな生活を乱しただろう。しかし過去に書いた物語を思わすような事件の到来には、運命的なものを感じたのではないか。

19世紀末から20世紀半ばにかけ、宿命論と黒い笑いを共通項に、ある文学的系譜を描くことができる。ダールの短編集に序文を書いたフランソワ・リヴィエールは、そのことに気づいていた。

(*1)本来は法律用語、「相続人は死者の遺産を直ちに与えられる」といった意味。小説の内容をほとんど忘れているのでこの訳で適当かどうか。『蜘蛛』訳者あとがきでは「死者は生者を掴む」