発見記録

フランスの歴史と文学

写真の読み方

2006-09-18 15:09:59 | インポート

事の起こりはフランク・リッチのコラム Whatever Happened to the America of 9/12? 
だった( nytimes.com ―ここでは朝日のThe New York Times Weekly Review掲載のものによる)

トーマス・ヘプカーThomas Hoepker氏撮影の写真が、文のいわば「枕」になる。写真は新刊書 Watching the World Change: The Stories Behind the Images of 9/11 (Farrar, Straus and Giroux)の著者、David Friend氏のブログ(ページ下)に。

“It shows five young friends on the waterfront in Brooklyn, taking what seems to be a lunch or bike-riding break, enjoying the radiant late-summer sun and chatting away as cascades of smoke engulf Lower Manhattan in the background.”

遠くの光景にまったく無関心に見える人たち。ヘプカー氏は、この写真を当初は公にしない。リチャード・ドリューRichard DrewのThe Falling Man  は新聞掲載後読者から非難を浴び、自主検閲の対象となる。それに類した配慮が働いていた。

五年を経た今、写真には予見的な意味があったとリッチは言う。「写真の若者たちは、必ずしも無感覚なのではない。彼らはただアメリカ人なのだ」(The young people in Mr.Hoepker’s photo aren’t necessary callous. They are just American. )
『ユナイテッド93』のような映画が、はやばやと製作されてしまうアメリカ。大災厄にも立ち止まることなく進むアメリカの、驚異的なresillience(弾力性、回復力)を、この記事は手離しで礼讃するわけではない。
振り返らず進め、それは時には我さえ良ければの臆面もなさに通じる。
リッチは1933年恐慌とファシズム、二重の危機を前に就任演説で国民に団結を求めたルーズベルトと、9/11の衝撃から生まれた、アメリカ一国にとどまらない団結unityを、党派的目的に利用し破壊して行ったブッシュ大統領を対比し、そこにアメリカ的「どんどん進む」move onの精神の両面性を見る。粗雑なまとめだが、一枚の写真の象徴的意味づけがコラムの要になり、写真がなければ文章は説得力を欠いただろう、差し当たり重要なのはこの点だ。

この記事に真っ向から反論したのがFrank Rich Is Wrong About That 9/11 PhotographTHOSE NEW YORKERS WEREN'T RELAXING!
By David Plotz(Slate Magazine) 
その日ワシントンにいた自身の体験からプロッツは言う、写真の人たちは真剣に議論していたのだ。友だちや同僚、あるいは知らない人同士、こんな議論があの時は、あらゆる場所で行なわれた。

呼びかけに応え、写真右端の男性が名乗り出る。It's Me in That 9/11 Photo WALTER SIPSER WAS IN THAT PICTURE FRANK RICH WROTE ABOUT. HERE'S WHAT HE THINKS OF RICH'S COLUMN.
さらに右から二番目の女性Chris Schiavoも。

二人の証言はプロッツの想像が正しいことを証す。写真家のSchiavoは、その日カメラを手にしなかった。それは倫理的な選択だった(敢えて撮り続けるという選択もあり得ただろう)

写真に手を加えたわけでも「やらせ」でもない。それでいて誤解が起こる。私の目にも、確かに最初あの人たちは、奇妙に無関心、無頓着と見えた。