六 そして、マガダの大臣である祭司ヴァッサカーラが去ってから間もなくして、覚者は長老アーナンダにこうお告げになった。「アーナンダよ、行きなさい。ラージャガハの近くにとどまっている向煩悩滅尽多学男達すべてを、奉仕堂に集めなさい。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、長老アーナンダは覚者にお応えし、ラージャガハの近くにとどまっている向煩悩滅尽多学男達すべてを、奉仕堂に集め、覚者がいらっしゃる所を訪れた。訪れると、覚者を礼拝して、傍らに立った。傍らに立って、長老アーナンダは覚者にこう申し上げた。
「尊師よ、向煩悩滅尽多学男出家教団が集まりました。尊師よ、今や覚者がちょうどよいとお考えになる時でございます。」
そこで、覚者は座を立って、奉仕堂に赴かれた。赴くと、設けられた座にお座りになった。座られてから、覚者は向煩悩滅尽多学男達に、こうお告げになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、七つの不衰退の法を教え示そう。聴いて、よく作意しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら向煩悩滅尽多学男達は覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達に、度々集会があり、大勢の集会がある限りは、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、和合して集まり、和合して励み、和合して出家教団のなすべきことをなしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、定められていないことを定めることがなく、定められたものを廃止することがなく、定められた学問の基礎に関して記憶実践して行動している限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、経験豊かで出家して久しい、出家教団の父であり、出家教団の顧問である、その向煩悩滅尽多学男の長老達を尊敬し、尊重し、敬重し、崇拝して、彼らの言うことは傾聴しなければならないと考えている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、再生に導く渇愛が生起しても支配されない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、森を座臥所とすることを熱望している限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、各自で記憶修習を働かせて、また、まだ来ていない神聖行を共にする温和な人が来ることを願い、既に来た神聖行を共にする温和な人が心安らかにとどまることを願っている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、そして、これら七つの不衰退の法が向煩悩滅尽多学男達に存続し、向煩悩滅尽多学男達がこれら七つの不衰退の法に従って暮らしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。」
【解説】
ここにまた「和合」ということが出てきたが、仏教が衰退したのは、まさにこの「私達はマハー乗である。お前達はヒナ乗(劣乗)である」といったあたりからである。そして、上座部と大衆部との間に分裂が起き、そこから完全に仏教は衰退した。もうその段階で既に末法は始まったと見ていいのではないかと私は思う。
「学問の基礎」というのは何かというと、例えば『南伝』でいえば『預流相応』や「五つの潜在性」などをしっかりと記憶し、実践するということである。ところが、仏教にマハーの乗とヒナの乗が出て、いろいろな見解が飛び出し、それによって混沌とし、いろいろな宗派ができ、その結果今どんどん衰退していっているのだと思う。
最もエネルギーを強化し組織を活性化し、成功する方法というのは原則に返ることなのである。「原則に返れ」――これは私の大好きな言葉である。
「顧問」とは、マハーカッサパやアヌルッダ、アーナンダ、ウパーリといった上座部の長老といわれていた人達のことである。ちなみに、大衆部が出てきて仏教を駄目にしたというのが私の見解である。
「渇愛が生起しても支配されない」とは、別の言い方をすれば、「四念処観がしっかりしていれば」ということである。つまり、四念処というのは仏教修行の土台であり、それがしっかりしなくなると崩れていくのである。
「森を座臥所とする」というのは、要するに人里を離れているということ、つまり一般人と交わらないということを言っているわけである。なぜならば、一般人と交わると無益徒労の会話をしなければならない。無益徒労の接待をしなければならない。無益徒労のお世辞を使わなければならない。付き合いをしなければならないからである。もちろん、托鉢や説法のために街まで行くことはあるが、生活の場はあくまでも森や山なのである。つまり、瞑想する場所、寝る場所が森という意味なのだ。
これはオウム真理教も同じことが言える。私が富士や阿蘇に拠点を置いているのは、つまり、人里離れていなければならないからで、修行者は現世とまみえてはいけないのである。
「各自で記憶修習を働かせて」とあるが、これもすごく大事なところである。これは、実は私がある部署が一時乱れたときに指示したことなのだが、そのとき私は「修行のときに、お互いがお互いに優しい言葉をかけなさい。励まし合いなさい」という言葉をかけた。要するに、「新しい法友に対して喜びを持つ」、あるいは、「今いる法友に対して喜びを持つ」ということは、その世界を広げていくのである。この反対が嫌悪である。そして、すべては心の現われだから、嫌悪は衰退を招き、このような和合の心は繁栄を招くのである。
そして、この七つというのは、実はチァクラの数と対応している。一番目「集会」、二番目「和合」、三番目「記憶修習」、四番目「経験豊かで……」(尊敬・アナハタ)、五番目「再生に導く……」(智慧)、六番目「森を座臥所」(激しい修行)、最後が「神聖行……」(サハスラーラ)ということである。