智徳の轍 wisdom and mercy

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無常

2005-02-17 | ☆【経典や聖者の言葉】

この世界のあらゆるものは、互いに依存し合って存在している。何一つとしてそれだけで孤立しているものはない。だから、この現象の世界には、そのものという固定した実体を持つものなど、一つもないのである。ところが、わたしたちは言葉を使ってこの現象の世界に名前を与えようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私であるというように。そのこと自体はこの現象の世界に現れている、ありのままの差異をとらえようとする根元的智慧の働きの現れであると考えることができる。しかし、いったん名前が与えられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体を持っているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくても、それが心にひらめいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏み込んでしまう。でも固定した「私」なんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるというのだろう。言葉や観念は私たちをとらえて、ありのままの世界とは違う、こわばった世界を作り上げる力を持っている。私たちはそこで固定した「私」に執着するようになる。「私」が年老いて死んでいくことを、恐いと思うようになる。愛していたものが消えていくことを深く悲しむ。
でもそれは、ありのままの世界に素手でふれあうことができず、夢や幻影のような観念の世界にとらわれていることから起こる恐れであり、悲しみである。この幻影のベールを取り除くことができたとき、私たちの前には、常に動いてやむことのない、ありのままの世界の壮大な光景が立ち現れてくる。そこには限りない喜びがあふれている。この現象の世界が一時たりと止まることのないことを知る無常の瞑想は、あるがままに物事を見るまなざしを養う、長い修行の第一歩となるものである。

     ---『虹の階梯』より

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