八 「向煩悩滅尽多学男達よ、それでは、別の七つの不衰退の法を教え示そう。聴いて、よく作意しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら向煩悩滅尽多学男達は覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、帰依【きえ】を持ち、慚愧【ざんき】を持ち、良心を持ち、多学であり、発勤【はつごん】を持ち、与えられた記憶修習を持ち、智慧者である限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
向煩悩滅尽多学男達よ、そして、これら七つの不衰退の法が向煩悩滅尽多学男達に存続し、向煩悩滅尽多学男達がこれら七つの不衰退の法に従って暮らしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。」
【解説】
ここで気を付けてほしいのは、初めの不衰退の法よりも二番目、三番目の法の方が劣っているということである。つまり、不衰退といっても段階があるということだ。「ここまでは駄目だよ」、「でもこれは駄目だろうな」、「次はここまでは駄目だよ」という感じでどんどん落ちていくわけである。
これはまさに、修行者の修行者らしき生き方という話をトータルで言っていらっしゃるという感じがする。一番目の帰依から最後の智慧まで、すべて修行者としての土台である。
ここで、記憶修習と多学との二つがあることが面白い。やはり、私の言っているとおり、単に記憶する、学問を知っているというのではなく、記憶修習するのだということが出ている。ここでも、はっきりと多学より記憶修習の方が上ということになっている。
この七つというのは、段階である。まず帰依がなければ慚愧は起きない。慚愧の念が起きなければ良心は起きない。それらを一応クリアした段階で真理を多く入れる。多学でなければ何を努力したらいいかわからない(発勤)。そして、与えられた記憶修習をなす。ここでいう記憶修習とは、ヨーガでいえばダラーナからサマディといった一連の瞑想プロセスと一致するものなので、その結果は智慧の到達ということになる。