智徳の轍 wisdom and mercy

                  各種お問い合わせはbodhicarya@goo.jpまで。

帰依がなければ慚愧は起きない

2005-02-16 | ☆【経典や聖者の言葉】

八 「向煩悩滅尽多学男達よ、それでは、別の七つの不衰退の法を教え示そう。聴いて、よく作意しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら向煩悩滅尽多学男達は覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、帰依【きえ】を持ち、慚愧【ざんき】を持ち、良心を持ち、多学であり、発勤【はつごん】を持ち、与えられた記憶修習を持ち、智慧者である限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、そして、これら七つの不衰退の法が向煩悩滅尽多学男達に存続し、向煩悩滅尽多学男達がこれら七つの不衰退の法に従って暮らしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。」

【解説】
 ここで気を付けてほしいのは、初めの不衰退の法よりも二番目、三番目の法の方が劣っているということである。つまり、不衰退といっても段階があるということだ。「ここまでは駄目だよ」、「でもこれは駄目だろうな」、「次はここまでは駄目だよ」という感じでどんどん落ちていくわけである。
 これはまさに、修行者の修行者らしき生き方という話をトータルで言っていらっしゃるという感じがする。一番目の帰依から最後の智慧まで、すべて修行者としての土台である。
 ここで、記憶修習と多学との二つがあることが面白い。やはり、私の言っているとおり、単に記憶する、学問を知っているというのではなく、記憶修習するのだということが出ている。ここでも、はっきりと多学より記憶修習の方が上ということになっている。
 この七つというのは、段階である。まず帰依がなければ慚愧は起きない。慚愧の念が起きなければ良心は起きない。それらを一応クリアした段階で真理を多く入れる。多学でなければ何を努力したらいいかわからない(発勤)。そして、与えられた記憶修習をなす。ここでいう記憶修習とは、ヨーガでいえばダラーナからサマディといった一連の瞑想プロセスと一致するものなので、その結果は智慧の到達ということになる。

邪悪な欲望を持たず

2005-02-16 | ☆【経典や聖者の言葉】

七 「向煩悩滅尽多学男達よ、それでは、別の七つの不衰退の法を教え示そう。聴いて、よく作意しなさい。私は説こう。」
「かしこまりました、尊師よ。」
と、彼ら向煩悩滅尽多学男達は覚者にお応え申し上げた。そこで、覚者は次のようにお説きになった。
「向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、カルマの喜びを持たず、カルマを楽しまず、カルマの喜びに没頭しない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、会話の喜びを持たず、会話を楽しまず、会話の喜びに没頭しない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、睡眠の喜びを持たず、睡眠を楽しまず、睡眠の喜びに没頭しない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、交際の喜びを持たず、交際を楽しまず、交際の喜びに没頭しない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、邪悪な欲望を持たず、邪悪な欲望に支配されない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、邪悪な友人を持たず、邪悪な仲間を持たず、邪悪な親友を持たない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達が、現世の特定の技能によって、完成の途中でやめることがない限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。
 向煩悩滅尽多学男達よ、そして、これら七つの不衰退の法が向煩悩滅尽多学男達に存続し、向煩悩滅尽多学男達がこれら七つの不衰退の法に従って暮らしている限りは、向煩悩滅尽多学男達よ、向煩悩滅尽多学男達には繁栄が期待され、衰退することはないだろう。」

【解説】
 「カルマの喜びを持たず……」というのはどういうことかというと、善業の果報は喜びをもたらすのだが、それに対して喜びを持つと、そこで繋縛【けばく】が生じるのである。これは、そのことについての戒めである。
 次の「会話の喜びを持たず……」とは、仏典にもよく出てくるのだが、会話は毒である、本当に必要なこと以外はしゃべらないということである。これは最も大切な要素の一つだ。
 「睡眠の喜びを持たず……」とは、まさにそのとおりで、睡眠中は魔がつけ入りやすい。そして、時が無意味に過ぎていく。
 「交際の喜びを持たず……」。これもまさにそのとおりで、交際をすれば、よけいな時間を使うし、「不必要なもの」も必要になってくる。よって、大衆部ができたのである。ここでいう交際には、世俗の者達との交際や法以外の話をするような僧同士の交際も入る。
 「現世の特定の技能……」というのは、どういうことかというと、出家教団も僧の数が多くなった段階で、例えば裁縫をやらせるといった中でのいろいろなワークがあったわけである。そこで技術をマスターして下向【げこう】する――そのことを言っているわけである。
 今のチベット仏教でも、たくさんそういう人達がいるという話である。リンポチェとかでも、技術を身につけて還俗【げんぞく】してしまうという話がある。おそらく、この時代のサキャ神賢の教団でもボツボツとあったのだろう。