改めて、この物語の主人公がリコであることを思い出さされた回。
ここのところすっかりパーティの仕切り役になっていたナナチがミーティの確保と引き換えに自分の魂を売ってしまい、
レグはレグで、ファプタの出会いから急遽、自分探しのようなループに入り込んでしまった。
その中で、消えたナナチとレグを探そうと、現地の人、ではなく「成り果て」たちに協力をお願いしながら、行動を起こすリコ。
何が言いたいかというと、物語を動かすのはリコだった、ということ。
今回は、この「成れ果ての村」の創造に立ち会って、まだ一応、人の身を残している?ヴエコにたどり着くことで、この村の秘密にも迫ろうとしている。
リコの探究心が物語を動かし、その意味では、レグもナナチもそんなリコのサポーターでしかない、ということ。
で、そのリコに対して、ナナチを取り戻したいなら、相応の対価として身体(の一部)を差し出せ、と迫るベラフの非情さ。
これ、もう完全に悪魔の契約だよね。
対価主義の世界の厳しさという点ではハガレン的でもあり。
ただ、気になったのは、この第六層の話が、第五層までの話とぜんぜん違うこと。
五層までの話は、基本的に、世界は冒険すべき、つまり観察して手にとることのできる客観的な世界としてあった。
でも、この六層の話は、すでに、目の前にあるものが自分の身体や魂とのかかわりで、というか、さじ加減で存在しているものになっている。
その意味では世界そのものがすべて「成れ果て」の論理で回っている。
これはちょっと厳しい。
いわば、世界そのものの変転=進化に、自分自身の選択=意志によって、リアルタイムで関わってしまっている。
そんなもの、もはや冒険ではないよね。
悪魔契約といったのはそういうことで。
自分の意志で文字通り世界を変えることができる。
そんな生態系的変転が可能なのが六層。
いやー、なんて不気味な世界なんだ。
で、そんな不条理な世界をサバイブできるのが、鉄の意志をもったリコというのだから。
この第六層は、人間の欲望が試される場所だね。
ここのところすっかりパーティの仕切り役になっていたナナチがミーティの確保と引き換えに自分の魂を売ってしまい、
レグはレグで、ファプタの出会いから急遽、自分探しのようなループに入り込んでしまった。
その中で、消えたナナチとレグを探そうと、現地の人、ではなく「成り果て」たちに協力をお願いしながら、行動を起こすリコ。
何が言いたいかというと、物語を動かすのはリコだった、ということ。
今回は、この「成れ果ての村」の創造に立ち会って、まだ一応、人の身を残している?ヴエコにたどり着くことで、この村の秘密にも迫ろうとしている。
リコの探究心が物語を動かし、その意味では、レグもナナチもそんなリコのサポーターでしかない、ということ。
で、そのリコに対して、ナナチを取り戻したいなら、相応の対価として身体(の一部)を差し出せ、と迫るベラフの非情さ。
これ、もう完全に悪魔の契約だよね。
対価主義の世界の厳しさという点ではハガレン的でもあり。
ただ、気になったのは、この第六層の話が、第五層までの話とぜんぜん違うこと。
五層までの話は、基本的に、世界は冒険すべき、つまり観察して手にとることのできる客観的な世界としてあった。
でも、この六層の話は、すでに、目の前にあるものが自分の身体や魂とのかかわりで、というか、さじ加減で存在しているものになっている。
その意味では世界そのものがすべて「成れ果て」の論理で回っている。
これはちょっと厳しい。
いわば、世界そのものの変転=進化に、自分自身の選択=意志によって、リアルタイムで関わってしまっている。
そんなもの、もはや冒険ではないよね。
悪魔契約といったのはそういうことで。
自分の意志で文字通り世界を変えることができる。
そんな生態系的変転が可能なのが六層。
いやー、なんて不気味な世界なんだ。
で、そんな不条理な世界をサバイブできるのが、鉄の意志をもったリコというのだから。
この第六層は、人間の欲望が試される場所だね。