パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

大谷のニュースの多さから思うこと

2023年06月20日 09時32分40秒 | あれこれ考えること

よく打つなあ!
大谷のホームランを報道を見るたびに思う
日本のTVメディアは朝も昼も、そして夜も大騒ぎの様相

これだけの報道があるとアメリカ国内も盛り上がっているだろう
と想像して、試しにアメリカの報道機関のHPを見てみた
すると、CNNもUSATODAYもFOXNEWSも大リーグ自体の扱いが
そんなに無い

空気感として、日本のそれとアメリカのそれではだいぶ違うのではないか
と思えてしまう
大谷の活躍は喜ばしいことで、恵まれた体格を活かし、絶え間ない努力のお陰で
格別の成績を収めている
それは日本人として何処か誇らしい気持ちになるのはわかる

ただ、日本人が感じているようにアメリカ人が感じているかは別問題
もっと気になるのは、大谷の報道の多さが日本人にある種の勘違いを
生んでいないかという点だ

企業がテレビ広告をする場合、総視聴率と達成率等に目安を設ける
実感としてわかると思われるが、たくさん目にする広告は
ついその商品は世間に普及しているとか、良い商品との思いをもつ
(ハズキルーペなどはその例)
スポンサーの目的とするところはそこにあるので、
知らず知らずそう思ってもらえるのはテレビCMの効果だ

大量に流されるテレビCMは間違いなくある種の空気感を作り出す
CM内容がいい悪いに関係なく、量が多いものには勝てない事が多い

ここで心配になるのは憲法改正の国民投票が行われる場合
テレビ広告の縛りをどうすべきかという点だ
テレビ業界は発言の自由を理由に規制なしの出稿を訴えると思われる
その影響力の大きさよりは経済的な理由でCM規制は無い方が良いとするだろう

また現実問題として党としてのお金が潤沢な自民党は多党よりは
たくさんのCMを流すことができると思われる

こうなると、先程の大谷の例と同じことで
一般人は勘違いを起こしてしまわないだろうか
ただでさえ多くの人と同じが安心と考える傾向の強い日本人だから
CMの量で勝負あり!となってしまわないだろうか

報道の中立公平がTVメディアには求められるとされているが
問題があるとされるのは決まって政府に批判的なトーンのもので
政府広報のようなテレビ局は問題にされない
(政府寄りはスルーされ、批判的なものは問題視されるということで
 これなどは実は独裁の姿に近い)

ということで、いま怖さを感じるのはテレビの報道の姿
人は如何に人に振り回されるかを思うと、国民投票のCM量は
制限されるべきだと思う

ところで話は変わってアメリカの報道機関では
メッシがベッカムの所有するマイアミのサッカーチームに移籍することになって
そのチームの観戦チケットが値上がりしていると伝えている
これなどは、日本ではほとんど報じられていない

今目の前にあることだけが現実とか趨勢ではないことを
人は注意しなければならないと思う




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愚痴の発散でもしなければ、やってられない

2023年06月19日 08時57分08秒 | あれこれ考えること

積読状態だった「権威主義の誘惑 民主政治の黄昏」アン・アプルボーム著
に目を通していると、アメリカがトランプさんを大統領に選んだ時の異様な空気感が
実は世界中で起きていたことがわかる

アメリカもイギリスもハンガリーもスペインもどうも平穏な状況では無いようだ
最近のITの発達に伴う情報格差や。好む情報だけを手に入れる傾向とか
対立を煽ったり、物事を単純化して扱うとか、真実かフェイクかわからない
ものに満ちている環境のせいだけでなく
もっと根本的な何かが人の中に巣食っているかのようだ

トランプさんは、アメリカを再び偉大に国に!と叫び
イギリスはかつての栄光と比べて情けない状況だったEUからの離脱で
瞬間的はストレスを発散できた人がいたり
スペインではトランプさんのセリフでアメリカをスペインだけに変更すれば良いような
スローガンで活動している政治団体が力を持ち始めているらしい

自国を偉大なものとして考えたいのは、ロシア、中国にも見られるが
最近の日本でも似たようなものだ
当たり障りのない「日本凄い!」と言ってるうちは良いが
威勢のいい人たちが物騒なことを言い出すのを耳にすると
こうしたものは地政学的というよりは
人類共通の心理的傾向なのかもしれないと思えてしまう

この本で記憶に残ったのは「イデオロギーよりもアイデンティティ」という言葉
複雑な社会の中での自分たちの立ち位置の不安定さを補うのは
血筋に通じる民族のアイデンティティが全てのように扱われているかのように思える

このアイデンティティ優先の考え方は「ネポティズム(縁故主義)」に繋がっていて
最近の我が国の異様な政治のことを連想させる

収奪といった経済的な面からの視点だけでなく
支配は内的に行われていくのが現実のようだ

なぜトランプさんのような人を選んでしまったのか?
(プーチン、ルカシェンコも)
そもそも人には適切な人を選ぶ能力があるのか?
日本では何らかの怒りの発露としてのガーシー議員の当選と説明されても
常識的にはあのような人を選ぶ大衆は、、信じていい存在ではない

なんだかストレスが溜まる
未来は良いことが待っている、、という気持ちにはなれないでいる
愚痴でも言っていないと、やりきれない感じ





 

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10年前の今日(ベートーヴェンとモーツァルトのお墓参りに出かけていた)

2023年06月18日 09時03分59秒 | 旅・旅行

10年前の今日の出来事を書いたブログの再投稿

そもそも何十年ぶりの海外旅行は、昔放浪したドイツ・オーストリアを
再度訪れてそこで何を感じるか確かめるために出かけたもので
ハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓
ブルックナーがオルガニストを務めた聖フローリアン修道院
ウィーンのベートーヴェンのお墓、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークに
展示されているゴッホのひまわりを再び見た時、心のなかに起こる
何かを確認するためのものだった

FBではおせっかいに10年前の記録を教えてくれて
そこでハタと気づいたので、もう一度振り返ってみることにする

以下が10年前の内容

6月18日 ウィーンでのこの日はまるでお墓参りの一日

ベートーヴェンの眠っているウィーンの中央墓地へは
U3で終点のSimmeringまで行って、そこで71番の路面電車に乗り換え
ZentralfriedhofのZweite Torで下車

門をくぐると案内がある

ところがどこがベートーヴェンのお墓か分からない

結局のところ大通りを真っ直ぐ200メートル歩けば
左手にmusikerという看板が出ていて容易に見つかるのだけれど
正直なところ、ちょっと苦労した

ベートーヴェンのお墓

いろんな印刷物で見られるおなじみのもの

37年前ここに来た時は本当に感動した
それは自分がベートーヴェンの心酔者だったためではない

彼の音楽が「見えないけれども確かにあるもの」
を自分に提示し
それがその後の自分の人生にとっても
重大な位置を占めるようになったのだが
とにかくそのキッカケをつくった人の眠るところ
37年前もそのキッカケがなければここには来なかった
そんな意味でやたらと感動した

今回はもう少し冷静に眺められた
そして静かに手を合わせた

彼の周りには、シューベルトの墓石

ブラームスの墓石


ベートーヴェンの脇を固めるように囲っている

彼らも自分のレベルとは随分違うがベートーヴェンがいなかったら
違った人生を送っていただろう
尊敬、畏敬の対象として近くに居たかった気持ちはわからないでもない

その後、次はモーツアルトの眠る聖マルクス墓地へ
来た路線を引き返し、途中で別のトラムに乗り換え、St.Marxで下車
5.6分歩くと入り口に

そまま緩やかな坂道を登って行くと左手にあった


かわいそうなモーツァルト
現在の名声とは全く反対の、信じられないような無関心に満ちた葬られ方
それはまるで意地悪な神様が、音楽史上最大の天才の秘密は明らかにしない
という意図があるかのよう

それにしても、今を生きている人間にとっては
モーツァルトを利用した?経済的な活動がもっとも大事なことのようで、
おみやげ屋、コンサート会場などのモーツァルトの扱いは
どこかしら音楽とは関係ないところで
動いてしまっている気がしないでもない

フルトヴェングラーのお墓、ブルックナーの眠る聖フローリアン修道院、ベートーヴェンのお墓、
そしてモーツァルトのお墓をめぐる、まるでお墓参りのような今回の旅
それは信心からではない

むしろこの何十年での自分の変化を確認するための旅
「見えないけれども確かにあるものがある」
と考えがちの自分の今の位置の再確認の旅

この意味では観光地を積極的に無駄なく訪れるというものではなかった
確かに帰ってからは、あそこに行っておけば良かった
と思わないこともない
だが、人はあれもこれも望むことは出来ない
自分は自分らしい選択をしたこの旅を、
久しぶりに自分自身に戻ることが出来た旅として
そしてまるで夢の中のような出来事として記憶に留めることだろう



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久しぶりに小説を読んだ(「業平」髙樹のぶ子)

2023年06月17日 09時23分37秒 | 

久しぶりに小説を読んだ

「業平」髙樹のぶ子作
落語でも有名な「ちはやぶる、、」の和歌と、伊勢物語の主人公として知られる
在原業平の物語で、何ヶ月か前に図書館から借りてトライして読むのを辞めてしまった本だ

再挑戦となったのだが、そのきっかけは何だったのか忘れた
(多分、この作の後の小野小町を主人公とした「百夜」が
 アマゾンからお勧めとして紹介されたからと思う)

年を重ねると記憶力が情けないことになって、登場人物の名前や
肩書が何だったのか等が飛んでしまって本当に困る
そのうち思い出すだろう、、と読み進めていくしかないが
ホント落ち込みそうだ

物語は読んでいく過程で、事件・エピソードを体験していくことになるが
これは主だった事件を予め知っている方が良いと実感した
当時の権力闘争や応天門の変、橘逸勢の事件、藤原高子と在原業平の関係などは
作者は読者はそれらを知っていると仮定して書かれているようだ

自分は知らないので、その都度ネットであれこれ調べて
時代背景を理解しようとした

この小説はは歌人としての在原業平の心象風景を紹介したもので
本の最初と中頃に趣のある絵と一緒に和歌がいくつか取り上げられている
いくつかの章ではそれらが使われているのだが
知恵比べとか心理戦を和歌を通じて行っている男女の関係は
それなりに余裕があって良いものだ、、とも思う

節操のない源氏物語の光源氏は、関係を持たないようにした女性たちがいる
それは出家した女性、それと斎王となる女性だったと記憶しているが
この物語ではとてもロマンティックにこのタブーは破られる

小説の筆力のせいだろうが、業平の反則行為をついつい応援してしまう
(それはドン・ジョバンニの勢いに任せた行為を許すような気持ちと似ている)
行為は直接的な描写はないが、それが故に切なかったり情感に訴えるものだった
斎王が病気になったと偽って、しばらく表に出なかった行為は
それ以上の説明がなくても見当がついた(共寝すれば必然的に起きてしまう出来事)

実生活に無関係な和歌は、和歌の上手い下手で、それなりの立場の人の能力(ポテンシャル)
がわかるので、何かを見極めるには良いと思われる

話は飛んで、こうしたフィクションは想像の世界での創造物は
現状を分析し、いますべきことを効率よく紹介した啓発本とか社会の解説本よりは
どこか余裕があって良いものだ、、と読みながら実感した

小説の最後の業平の和歌はなかなか面白い
「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」
なるほど、そうかも知れない

こうした本を読んだ後、百人一首のお気楽な解説本を読むと
人間関係もわかった後なのでより楽しむことができる
昔の人は、余裕があったものだ






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1点目と6点目が良かった(個人的には)

2023年06月16日 08時56分13秒 | サッカー

大勝する試合は面白くない
贅沢なもので、人はいつも何かを求めてしまうようだ

サッカーは点が入りすぎるよりも、流れがあちこちに傾いて
ヒリヒリする様な緊張感のある方が良い(とする人も少なくない)
それはやってる本人たちも同じように感じるかもしれない
小学生ですら楽勝の試合よりも勝つか負けるかわからないくらいの
試合のほうが充実感を覚える様になっている

昨日の日本対エルサルバドル戦は一方的な試合内容だった(6−0)
印象に残ったのは一点目のFKからの谷口のヘッドのシーン
久保のキックの精度、コースが素晴らしかった
あれで試合の流れを一気に掴んだようだ

印象に残ったもう一つは古橋のゴール
得点差があるとどうしてもプレーは雑になりやすい
途中から入る選手は良いところを見せようとするが
あのような「それいけドンドン」の試合の流れでも
結果を出すのは難しい場合がある(やることなすことうまくいく場合もあるが)

まして選手交代をしていてサイド攻撃の選手がスタメンほどのレベルではないので
その中で古橋は結果を出さねばならないのは少し可愛そうな気がしていた

しかし、その中でも古橋は素晴らしいゴールを決めた
ホンの一瞬の隙をついての頭でのゴール
クロスを供給した相馬も良かったが、古橋の点取り屋の感覚が際立ったシーンだった

昨日は久保が少し抜きん出ている印象だった
少しばかりミスをしたが(仕掛けが失敗)
囲まれてもボールを失わない、細かいところを通す、人の使い方が上手い
それらは調子が良い悪いの粋を超えて、これからも安定したプレイが期待できそうだった

気になったもう一人は、地元の豊川出身の菅原
地元ゆえにどうしても応援してしまうが、久保との相性も良さそうで
オーバーラップが効果的な使われやすい頭のいい選手、丁寧なプレーの選手の印象をもった
でも森保さんは相馬が好きなんだな(オリンピックでも使ってたし)
菅原のポジションを相馬に変える試みをしていた

とういことで、勝ったけど面白くない試合だった印象のエルサルバドル戦
この試合を豊田スタジアムまで見に行った6年生のRくん
月曜日の校門までのウォーキング時には感想を聞いてみよう

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解散と内閣不信任案を「あれ」にきいてみた

2023年06月15日 15時39分10秒 | あれこれ考えること

どうもメディアが異様に喜んでいるよう思えて仕方ない衆議院の解散話
総理の専権事項という言葉で、好きなように解散ができるというのは
とても都合よく使われる可能性がある

前回の衆議院選挙からまだ2年も経っていない
にも関わらず大変な金額を使って選挙を行うというのはどうにも解せない

選挙は国民の声を聞くという建前だが、現実は如何に自分らの議席数を伸ばすか?
しか頭に無いかのようだ
恐らく各政党は内密に世論調査を行って、今のタイミングなら勝てるか否かを
探っていると思われる

なんだか、国民は議席の確保に利用されているだけのような気さえする

先程、チャットGPTにこんな問をしてみた

問 総理大臣の解散権は不信任案が提出されてから使うのですか?
  それとも不信任案が可決されたから使うものですか?

答 

総理大臣の解散権は、不信任案が提出された時点で使用する必要がありません。
解散権は、一般的には総理大臣の裁量によって行使される権限ですが、
そのタイミングや条件は各国の憲法や法律によって異なります。

一般的なケースでは、総理大臣は自らの裁量で解散権を行使することがあります。
これは、政府が議会の支持を失ったり、政治的な行き詰まりが生じた場合に行われることがあります。
不信任案が提出された段階で解散権を行使する必要はありませんが、
不信任案の可決が総理大臣の解散権を行使する契機となることもあります。

ただし、具体的な手続きや要件は国によって異なるため、各国の憲法や法律を確認することが重要です。
また、私の知識は2021年9月までのものであり、最新の情報や各国の憲法や法律の変更については確認が必要です。

最近、つくづく感じるのは選挙と民主主義との関係のバランスの悪いこと
選挙に勝つことが民意を反映することと言われそうだが、現実は必ずしもそうではなくて
むしろ特定の利益団体の反映に過ぎないような気がする

選挙に必死になれるのは自らの損得に関わっている人たちで

関係ない人たちは、どうでも良いとするために、投票しなかったり
大して考えもせずに投票行動を行う


もう一つ気になることを聞いてみた

問 投票日前のメディアによる当落予想は結果的に投票結果に大きく影響すると思われます。
現在、こうした報道を禁止している国はありますか? また、このような報道をどう考えますか?

答 

私の知識の範囲では、2021年9月までの情報しか持っていないため、最新の情報についてはお答えできません。
しかし、一般的には投票日前のメディアによる当落予想は、選挙結果に影響を与える可能性があります。
予測や世論調査結果が公に報じられることで、有権者の意識や行動に影響を与えることがあります。

一部の国では、選挙期間中にメディアによる予測や世論調査結果の報道を制限している場合もあります。
これは、選挙への公正性と中立性を保つための措置として行われることがあります。
具体的な制限や規制は国によって異なるため、各国の法律や規制を確認する必要があります。

当落予想の報道については、意見が分かれるところです。
一部の人々は、有権者に情報を提供し、選挙への関心を高める重要な手段だと考えています。
しかし、他の人々は、予測が事実に基づかず、有権者の意思決定に不必要な影響を与える可能性があると懸念しています。
この問題に関しては、情報の透明性と公正さを確保するためのバランスが求められます。


チャットGPTは、当事者意識がないので無難な答えを出すだけのようだ
またこれが適切な答えかどうかもわからない、、

でも、正直なところ当事者としては、現在の選挙については不満がいくらでもある
(報道についても)

それにしても日本人は、なぜ血筋とか権威に異様に弱いのだろう?


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今日のおしゃべり

2023年06月15日 09時08分09秒 | 子どもたちのこと

この時期では、傘をささずに学校まで歩いていけるだけで儲けたようなもの
今日はその意味ではラッキーだった

月木の小学校校門までのウォーキングは、途中のおしゃべりが楽しい
気を使う必要はないが、できるだけ皆と話すことにしている

先日「おしゃべりが楽しい」と言った3年の子は最近我儘になっている
それを本人は気づいていないだろうが、成長の印なんだろう

「見て、どこか変わってるから」
忘れものの名人の4年の男の子は、靴をきちんと履きながらつぶやく
「最近、ちょっと太ったね!」
というのは傷つきそうなので、やめにして
「うーーん、分からないな」
「ほら、水筒が新しくなった」
と言って嬉しそうに見せる
(流石に水筒のことまではわからないぞ、、Hくん!)

「小学校、もう慣れた?」
女の子でも必要なこと以外話さない一年生の子に聞いてみた
「うん」(答えはそれだけ)
もう少し聞いてみた
「給食、食べれる」
「うん、大盛りでも食べれる」
「好きなものは何?」
「カレー」
やはり必要なことしか言わない
「嫌いなものは?」
「ピーマン」
やはり子どもの好きなもの嫌いなものがあがってくる

「大学生の人、授業に来る」
最近、教育実習に来ている人がいるので、今度はもうひとりの女の子に聞いてみる
「こないよ、、〇〇生だけだよ」
(そうなのか)

男の子は本当に喋らない、6年生に聞いていた
「〇〇くん、今日サッカーの代表戦あるね
 代表の菅原は豊川出身だよ、凄いね」
「うん、ラランジャだった」
「今日は豊田スタジアムでやるんだよ」
「うん、今日見に行く」
「凄いね、今度、その時の話聞かせてね」
「うん」

そんな会話をしていると校門まであっという間だ
記憶には残らないこうした会話
残るのは楽しかった!という記憶だけ

だがそれで良いのだ
自分にとっても彼らにとっても
彼らには守られていると実感してほしいと思う

彼らは大きくなった時、この時間をどのくらい覚えているのだろう

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大河ドラマ出演者によるトークショーの記事が掲載された

2023年06月13日 08時57分28秒 | 新城・地元に関すること

昨日は新聞休刊日だった
今朝、中日新聞の地方版を見ると、昨日ここで取り上げたトークショーの記事が
一日遅れで載っていた


「強右衛門と亀姫 裏話披露」のタイトルでうまく纏められている
ただ、新聞はスペースの関係で詳しくは紹介できない
だから会場の空気感みたいなものは伝えられない(気がする)

最近は新聞購読者が減っている
新聞など見なくてもネットで済ますことができるという人がいる
しかし、ネットの記事の元は新聞であることが多いので
間接的に新聞を読んでいることになる

紙媒体の新聞は限られたスペースの制限があるが、ネットでは物理的なスペースの制限がない
そこでアメリカの新聞媒体では記事は紙とネットが同じではなく
ネットのほうがより詳細な内容になっていることがあるらしい
つまり紙とネットの契約をしている人には、ネットの方で深掘りされた内容を閲覧できるようだ

ただ日本では同じ内容(分量)の記事なのかもしれない(しらんけど)
それでもボケ防止のためのこのブログより圧倒的に多数の人が今朝の新聞を読んでいる
その現実はなかなか大きい
その絶対的な数の違いは少し情けない気もするが、それは仕方ない

ところで母はメモ魔だったが、それは祖父の血を引き継いでいるからだ
本当に母方の祖父はメモ魔だった
物価から母の給与まで、何でもメモしていた
それらが残っていたなら貴重な歴史資料になっていただろうが今は影形もない

その祖父の血を自分も引き継いでいるかも知れない
スマホのアプリで家計簿をつけているし、こんなふうに雑文を残しているし

そういえば母方の祖母は読書が好きな人だった
寝転がって松本清張を読んでいる姿が目に浮かぶ
自分が寝転がって本を読むのはこの人の血を引き継いでいるからなのか

ということで、新聞記事から連想したあれこれ
(「失われた時を求めて」の登場人物みたい?)

ところで6月11日の「設楽原の戦い」で大河ドラマの新城編は終了
2週間に渡って取り上げられたこの地区に
経済効果がどのくらい生まれたかが気になるところだ
6月議会で明らかにされるのだろうか

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「どうする家康」出演者によるトークショーに行ってきた

2023年06月12日 10時06分29秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

応募件数は1596組(1組2名)
来場者は新城市内の人が6割
北は栃木県、南は九州から(応募だっかた当選者だったか忘れた)
1200名来場予定の文化会館大ホールは、キャンセルする人も少なくほぼ満員だった

昨日の6月11日、2時から「どうする家康」出演者によるトークショーが行われた
登場人物は、いずれも前回(6月4日)のドラマで主役級の役割を担った
(新城市に関係のある)鳥居強右衛門役の岡崎体育氏と亀姫役の當真あみさんで
印象の鮮明なうちに!と日程調整をしたものと思われる

司会はNHK名古屋放送局のアナウンサーで、夕方に「まるっと!」に出ている方
(自分は知らなかったが会場の多くは知っていたようだった)



写真のように2名の入場の権利を得たので、前回の番組後でサラッと紹介された
強右衛門マラソン(岡崎城から長篠所城まで走るイベント)の主催者の方を誘った

早めに出かけたが、会場に向かって歩く多く人々を見かけたし
会場の空気はどこか祭りを待つふわふわした雰囲気が漂っている
知り合いの人も結構多く見かけた(地元の歴史家とか議員さんとか)

さてイベントの内容だが、印象に残ったところをあげていくと
まずは一時間と予定された時間内にうまく纏められていることに驚いた
トークショーの間、時々時計を見ていたが無駄なくテンポよく
退屈することなく(あれ以上長いと飽きてしまうかも)進められた
司会も凄いが、答える岡崎体育氏もと當真あみさんも的確な話っぷりで
多くの観衆の中で大したものだと感心した

前回の鳥居強右衛門のエピソードで、日本国中のある程度の人に彼の名は知られたようだが
歴史の記録のうち数日間しか出てこない鳥居強右衛門は、最初はこれほど大きく扱うつもりはなかったそうだ
ところがドラマ関係者がロケハンで新城に訪れると、鳥居強右衛門の磔の看板やらがやたらと目立って
新城でこれだけ大事にされている人物を粗末に扱うことができない!
とほぼ一話彼を中心とした物語を設けたそうだ

鳥居強右衛門役を引き受けることになった岡崎体育氏は、鳥居強右衛門のことをいろいろ調べたが
「磔になって死ぬのか!」と思ったそうだ
確かに鳥居強右衛門といえば磔の絵だ
会場にはこんな絵が飾ってあった


岡崎体育氏はミュージシャンということでドラマの中で歌うシーンがあったが
作詞は別の人だがメロディーは岡崎体育氏が作ったそうだ
興味深ったのは音楽にも時代考証があって、その時代にはありえないメロディ等
のチェックがなされたそうだ

それと記憶に残ったのは(岡崎体育氏によると)手の扱いについてだそうだ
鳥居強右衛門が磔で死ぬシーンは、手が力なく垂れるような映像で残酷なシーンは避けられたが
ドラマではあと二回重要な扱いがなされたそうだ
汚い手でさわるな!というところと、汚い手でも触ってくれたというシーンがあったらしい
(自分は全然覚えていなかった)
ドラマ制作者は、こういう細かいところにこだわりがあるのだろう

トークショーは歴史の話ではなくドラマ撮影の話が中心だ
岡崎体育氏の話で印象的だったのは
武田勝頼の役を演じた千葉真一さんの息子さん(真栄田郷敦)の演技のこと
徳川は長篠を見捨てた!と言うように武田勝頼が強右衛門に言い寄るシーンがあるが
その時の勝頼役の眼力がすごくて、吸い込まれそうで役に関係なく思わず説得されそうになったそうだ
それを演技力というのか、役者さんのもっている力というのか分からないが
この話を聞いた後だから、夜の設楽原の戦いのシーンの本放送では武田勝頼役の役者さんの目を
じっと見てしまった(なるほど、凄い眼力と納得した)

亀姫役の當真あみさんは現在16歳
トークショーの前に、亀姫のお墓のある大善寺にお参りにいった時の写真が会場では大写しにされた
普通のドラマは架空の人物だが、こうして実在の人物を演じるのは
少しばかりプレッシャーがあるようだ(二人ともそう感じたそうだ)

前回の放送で、家康と信長がピリピリと緊張感のある状況になった時
亀姫が「どうか仲直りしてください」と難しい言い回しではなく
その年令の女性がいいそうな言葉遣いで放ったことに
當真あみさんはリアリティを感じたそうだ

思い出せばもう少し覚えていることはあるかもしれないが
大きく印象に残っているのはこんなこと

ところで今更ながら、岡崎体育氏が鳥居強右衛門を演じたのは必然であった
かもしれないと思えてきた
鳥居強右衛門は長篠から岡崎、岡崎から長篠まで走った人で岡崎という言葉と深い関係がある
彼をこの役に抜擢した人はそれを考えたのだろうか?

最後に一つ明るい話題を!
昨日会場で明らかになったことに岡崎城から長篠城まで走るイベント「強右衛門マラソン」は
来年はちょっとした驚きの人物が参加するらしい
さてその人物とは、、、(見当がつく思われますが、、、)

会場はこんな雰囲気だった



新城城主、奥平信昌と亀姫のゆるキャラ
そして鳥居強右衛門の紙芝居

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雨の中の資源回収

2023年06月11日 08時53分31秒 | 徒然なるままに

天気予報は「晴れ」と言っておけば高い確率で当たっているらしい
今日は地元の資源回収の日だった
一月に一度、公民館で行われる資源回収は、例年ほとんど中止になることはなかった
だから中止になった時のことは印象に残っている
例えば、雪が降って中止になったこととか、、
10年ほど前の自分が持ち回りのお役の年は一度も雨に降られなかった

ところが今年は先月が雨で中止になった
そして今日、天気予報は情け容赦なく雨と宣言している
2ヶ月中止になると溜まるのは紙、瓶、アルミ、電池、プラスティック
同居人は溜まっていくそれらが気になって仕方ない
「今日はどうなるのかな、、みんなきっと困ってるに違いない」

先月やっていないと、2ヶ月中止はこうした苦情が予想されるので
合羽を着て実施する可能性もあると想像した
防災無線では時間になっても中止の放送はなかった

2ヶ月分の資源をトランクに積んで公民館に出かけると
雨の中、スタッフが持ち場に立って作業していた
そこには中学生の姿も見られた
毎年、中学生の手伝いはどこかのタイミングで行われる
しかし、雨の中は少し可愛そうだ

彼らは当事者として資源の分別したり、決められた場所に持っていく作業を
したことがないから、トランクを開けても、何をしたら良いかわからない
「わかりやすいものをお願いしてみて」
スタッフが声をかける
「それじゃ、瓶がいいかな  これならわかりやすいから」

ということで、瓶の回収とアルミを指定の場所に持って行ってもらった
自分がこの作業に要した時間は5分もないだろう

子どもたちにも感謝だが、今年のこの役割のスタッフにも頭が下がる
防災無線では今日実施の他の地区の資源回収は中止になっているようだ
当地区では、2ヶ月溜めるのは好ましくないと判断したのだろう

順番に回ってくるというものの、こんな日に作業してる人たちに感謝
ご苦労様でした

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